精選版 日本国語大辞典 「孫権」の意味・読み・例文・類語
そん‐けん【孫権】
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中国、三国呉(ご)の初代皇帝(在位222~252)。字(あざな)は仲謀、諡号(しごう)は大帝。孫堅(そんけん)の子。192年父の堅が死に、200年兄の策が没したので19歳で孫氏の統領となり、父兄の事業を受け継いだ。曹操(そうそう)や劉備(りゅうび)と対立、同盟を繰り返しつつ、揚子江(ようすこう)中・下流域を基盤に呉国を建てた。すなわち208年、劉備と同盟して曹操の南下を食い止め、赤壁(せきへき)の戦いを行った。戦後は妹を劉備の皇后として嫁がせ、その関係を密接にしたが、荊(けい)州領有をめぐってしだいに対立を深め、劉備の入蜀(しょく)を機に妹を呉に帰らせ、曹操と同盟して劉備の武将関羽(かんう)を攻め、荊州領有に成功した。魏(ぎ)の文帝がたつと呉王に封じられたが、年号を独自に黄武とし、独立の意を示した(222)。劉備の死後、蜀(しょく)と同盟し魏と対立した。229年帝位につき、都を建業(けんぎょう)(南京(ナンキン))に定めた。国内においては山越えの討伐を行い、また交州の士氏を倒してインドシナ半島にも勢力を伸ばすなど、南方に領土を広げた。晩年皇太子に先だたれ、後継争いが起こり、呉は混乱した。
[狩野直禎]
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182~252(在位229~252)
三国呉の初代皇帝。兄の孫策(そんさく)が江南に領土を確保したが,暗殺されたのであとを継ぎ,劉備(りゅうび)と連合して赤壁の戦いで曹操(そうそう)を破った。ついで劉備の部下関羽(かんう)を襲って荊州(けいしゅう)を奪い,建業(南京)を都として華中,華南の開発を行った。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…呉郡富春(浙江省富陽県)出身の孫堅が後漢末の群雄の一人として活躍したのち,子の孫策が長江下流域を制したが若死する。その地盤をついだ弟の孫権は劉備と同盟して208年(建安13),南下する曹操の軍を赤壁に破り,さらに219年,劉備に勝って長江中流域以南を領有した。魏と蜀があいついで帝号を称したのに対抗して,222年(黄武1),孫権は呉王として独立したのち,229年(黄竜1)に帝位について首都を建業(南京)に定めた。…
… 曹操は献帝を擁して鄴(ぎよう)に移り,華北東部を制覇した。やがて長江中流域への進出を企てたが,劉備と孫権に阻止された。黄巾の乱討伐に功名を挙げた劉備は群雄の間を転々としたのち,荆州牧劉表に帰属した。…
…華北平定に成功した曹操は,208年(建安13)中国統一の目的で南下してきた。劉備の謀臣諸葛孔明(しよかつこうめい)は孫権のもとに赴き,劉備・孫権の同盟に成功,長江を下って来た曹操の軍と赤壁で対峙,火攻の計でこれを打ち破った。こうして天下三分の情勢がほぼ成立した。…
…これに対して古代中国には,巨人盤古の死後に髪や髭から星を生じた話や,《列仙伝》や《神仙伝》に登場する多くの超人たちがみごとなひげをもって描かれていることなどがあるばかりではない。《三国志》の英雄もみなひげを蓄えており,なかでも孫権の高貴な紫髯と関羽の美髯が際だっている。〈羽美鬚髯,故亮謂之髯。…
※「孫権」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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