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日本で中世に国ごとに置かれて軍事行政を統轄した武士またはその機構。国衙(こくが)または国内を鎮護するという意味から守護人または守護、守護職(しき)などとよばれた。
[義江彰夫]
江戸時代以来、守護の創設時期は鎌倉幕府の草創期と考えられてきたが、近年、平安時代の諸国軍制の構造と歴史が解明されるに伴って、平安時代末期にすでにその萌芽(ほうが)が生じていたことがしだいに明らかになってきた。すなわち、諸国で有力武士が在庁官人の地位を介して国内の中小武士を従者に編成するようになる平安時代末期の状況を背景にして、12世紀なかばの保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱以降、朝廷と諸国で国内兵力の動員が頻繁に要請されるようになった。国守(こくしゅ)のなかに、これらの有力武士のなかからしかるべき者に国(くに)守護人の地位を与え、国衙内で彼の常駐する場所を守護所(しょ)とよびながら、従者・家人(けにん)となった武士を核としつつ、国内武士動員の権と国衙・国内の鎮護を行わせる者が現れてきた。したがって、この時期の守護人は国守の判断で国の条件に従って任意に置かれたものであり、国家的な一律の制度でもなく、設置の有無、権限内容もさまざまであったと考えられる。
[義江彰夫]
鎌倉幕府の守護は、以上を歴史的な前提とし、この国衙の守護人を必要に応じて編入し、他は源頼朝(よりとも)の主要御家人(ごけにん)を新たに補置するという形で、全国一律の国家制度として成立した。すなわち、頼朝は1180年(治承4)の挙兵直後から、旧来の国司(こくし)とは別個に武家の棟梁(とうりょう)としての資格で守護人の安堵(あんど)や補任(ぶにん)を東国から開始し、平家追討の勅許を得て西国に進出する1184年(元暦1)ごろには、追討を名目とする総追捕使(そうついぶし)の名で朝廷の了解をとりながら、各国に次々と守護を安堵・補任した。平家滅亡後の1185年(文治1)11月には、源義経(よしつね)追捕のために上洛(じょうらく)させた北条時政(ときまさ)を代理人として後白河(ごしらかわ)院と交渉させ、いわゆる文治(ぶんじ)勅許の一環として、地頭(じとう)・兵粮米(ひょうろうまい)などとあわせて、守護(総追捕使)を朝廷公認の全国一律の制度として幕府が国ごとに設置することを認めさせた。
このいわゆる文治守護勅許の内容については、地頭勅許とともに古くから長い論争の歴史がある。恒久的制度の樹立とみるか義経追討までの有期限のものとみるか、当時から守護とよばれていたか当時は総追捕使とよばれ義経追討後に守護の名をもつようになったのか、のちに大犯(だいぼん)三箇条とよばれる職務はこの時点で成立していたのかやや後であるのか、同じく勅許された地頭や兵粮米徴収との権限関係はどうなっていたかなどなど、諸説が対立し解決をみていない。しかし、これらの対立点にもかかわらず、論争のなかから、現在少なくとも、文治勅許によって守護が国家的制度となり、幕府が国ごとに補置して、国内武士を御家人として軍事動員させる体制をつくりだしたことは、疑いない史実として認められるようになった。なお守護と総追捕使の指称の関係は、最近は前述のように前者を朝廷向け、後者を実態指称と考えて、当初から併存していたとみるとらえ方が認められるようになり、恒久的か否かについても、朝廷向けには義経追捕までとしながら、幕府自身は恒久化に向けて整備していったと考えられるようになっている。
したがって、1189年(文治5)義経追討を含む奥州征伐完了によって、朝廷と幕府の間には守護の存否をめぐって確執が生じた。しかし、結局既成事実のうえに存続を主張する頼朝の上洛によって、恒常的制度とし定着することとなり、以後急速に守護の職務は平時の鎮護にふさわしい形に整えられ、国内の御家人(おもに地頭)を動員して、大犯三箇条、すなわち京都内裏(だいり)・大内裏大番役(おおばんやく)、謀叛(むほん)人・殺害人の逮捕を固有の課題として担うこととなった。
[義江彰夫]
以上の点からみて、鎌倉幕府の守護は、軍事検察分野を掌握する公権力としての鎌倉幕府の意志を諸国のレベルで具体化する軍事行政官であり、それゆえに、他の一般行政は依然朝廷の任命する国司に担われ、また当該検察分野に限っても、大犯三箇条以外の軽微な問題は国衙・荘園(しょうえん)の検非違使(けびいし)などの担うところであり、一般にはこれらの諸分野に守護が介入することは、朝廷のみならず幕府によっても禁じられ、またその方向を制約するために、可能な限り管国の固定化・世襲化を排して頻繁に交替させるよう配慮された。しかし、他面、守護となった有力武士自らは、大犯三箇条をてことして軽微な検察分野や一般行政の分野をも積極的に組織する傾向を一貫して示し、可能な限り世襲化の道をたどるようになっていった。鎌倉時代末期の北条氏による諸国守護職の独占はこの動きに対する反撃と対応であったが、かえってこれは以後の守護の自立を刺激した。
南北朝時代に入ると幕府自らまず刈田狼藉(かりたろうぜき)・使節遵行(しせつじゅんぎょう)の権を守護に与え、収取や裁判権の一部をわがものにするとともに、しだいに国内の闕所(けっしょ)となった所領の自由な処分権(闕所地宛行(あてがい)権)、定量の収納と引き換えに所領の実質的支配権の獲得を意味する守護請(うけ)、所領の収納物の半分を割り取れる半済(はんぜい)などの権限をも与えて、この間に没落した国衙の機能の吸収を背景に、収取や裁判権を含む広範な行政権樹立への道を切り開いた。この結果、守護はしだいに守護大名とよばれて幕府の職員としての枠からはみ出す存在になった。やがて守護大名は、地域社会の構造的変容のなかで一揆(いっき)を結ぶ中小武士を強力に組織化した戦国大名に発展的に解消される。これら戦国大名が競って守護を名のったことは、鎌倉幕府以来の守護のなかに、軍事をてことして一国を掌握するという中世を貫く地域権力の基本的性格が備わっていたからにほかならない。その意味で守護は日本中世の地域権力のあり方を典型的に示すものということができる。
[義江彰夫]
『三浦周行著『続法制史の研究』(1924・岩波書店)』▽『牧健二著『日本封建制度成立史』(1935・弘文堂)』▽『佐藤進一著『増訂鎌倉幕府守護制度の研究』(1971・東京大学出版会)』▽『石井良助著『増補大化改新と鎌倉幕府の成立』(1972・創文社)』▽『関幸彦著『国衙機構の研究 「在国司職」研究序説』(1984・吉川弘文館)』▽『今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典』上下(1988・新人物往来社)』
鎌倉時代以後一国ごとに設置された武家の軍事的行政官。守護人,守護奉行職,守護奉行人とも呼ばれる。守護の前史はまだ十分解明されていない。近年の研究では平安中期以降諸国において,有力在庁官人となった大武士が〈国の兵(つわもの)〉と呼ばれる群小武士を随時統率する形の軍制が形成してくることが明らかになっており,最近では,この軍制が平安末期には全体として主従制的性格の濃いものとなり,その統率者が国(くに)守護人と呼ばれ始めた可能性の高いことが指摘されている。
鎌倉幕府の守護制度は,この前史のうえに12世紀の80-90年代すなわち幕府草創の時代に成立する。この守護制度成立については古くから諸説が分かれ,(1)指称と成立時期にかんし,惣追捕使と守護は同一実体で,ともに1185年(文治1)勅許で成立したと見る説,85年勅許では惣追捕使として登場し,建久年間(1190-99)に守護に切り換えられたとする説などがあり,(2)設置目的や範囲についても,(1)との関連で,源義経追討と恒久的な諸国治安維持一般のいずれを重視するか,また特定地域であるか全国的であるかなど,学説は一定せず,さらに(3)職務内容についても,大犯(だいぼん)三箇条,兵粮米徴集,庄公下職進退などをめぐり,(1)(2)と絡みながら種々の解釈が提出されている。いまこれらの諸見解の対立を全面的に解決することは不可能であるが,諸研究で確実になった点を基礎に若干の私見を加えて見通すと,すでに頼朝は1180年(治承4)の挙兵直後から,おそらく前述の国守護人を土台として,守護人を平家追討後の国々に反逆予防・治安のために承認ないし新置していたが,平家追討完了後の85年11月,この一国を軍事的に統率して鎮護する守護人を,惣追捕使という公式指称で,朝敵となった義経を討滅する手段という大義名分をもって,地頭職とだきあわせで全国的に設置することを朝廷にせまり,勅許された。この時期の惣追捕使の職権は戦時大権として,謀反人(義経)追討を固有の核として兵粮米徴集,庄公下職指揮権をも含む広いものであったが,89年義経追討終了以後,平時に復する中で,鎌倉時代を通じて存続する守護制度の体制へと順次転形し,平時にふさわしい守護が指称としても公私を問わず使われることとなった。
ここに成立した鎌倉幕府守護の職務内容は,一国ごとに幕府御家人を動員して,国家反逆者(謀反人)の追討,重刑事犯(殺害人等)の捜索逮捕,朝廷または幕府の警固(内裏大番役,鎌倉番役)など(大犯三箇条)に当たることであり,軍事検察の枢要部分を戦時・平時ともに独占することを意味した。したがって,まず,朝廷・荘園領主との関係からこれを裏返せば,租税収取,交通支配,寺社統轄,訴訟一般,軽微な検察などは,東国・関東御分国における国司代官(国奉行人)を兼ねる形での関与や,西国をも含む軍事検察行政遂行のための一定の干渉を別とすれば,基本的には依然国司・荘園領主の担うべきものであり,それへの無制限な介入は朝廷・幕府によって禁止されており,全体として軍事検察という限られた分野の行政官でしかなかった。第2に幕府との関係から見ると,上記のような守護は,朝廷からゆだねられて軍事検察分野を組織する一個の中世の公権力としての幕府を,国ごとに支え分掌するものにほかならなかったが,それだけに幕府からは,守護がその職務をてことして国ごとに自立することのないよう,強く押さえられていた。鎌倉時代を通して父子代々同一国の守護を世襲した例が比較的少なく,種々の口実で頻繁に更迭されたことや,守護の管国行政が通常大犯三箇条に限定されていたことなどは,幕府固有の意図から見れば守護の自立を抑制する手段にほかならなかった。第3に国内武士領主一般との関係から守護を見ると,それは一国ごとに地方武士を糾合しようとする平安時代いらいの地方大武士(有力在庁官人)の動きを前提とし,それを幕府諸国軍事検察機構という形で制度化したものにほかならないから,一面で上述のように大武士自身の自立性の喪失を意味したが,他面それとひきかえに国内武士領主層が武力をてことする所領支配をすすめるうえで,国家権力としての幕府に支えられた一国規模の強大な武力の後ろだてが生じたことを意味した。しかし,同時に守護は,地方武士領主一般を組織するという点からすれば,きわめて制約された段階にあったことは否定できない。当時幕府の御家人とならない非御家人武士が少なからず存在し,彼らはしたがって守護の統轄下に入らないタイプの武士領主であったし,また御家人・非御家人を問わず一般に国衙(朝廷)・荘園の行政に関与し,それが現地支配のうえで依然として独自の意味を持っていたからである。
しかし,以上のような性格の守護は鎌倉末・南北朝期を境に大きく変化する。すなわち守護職務の面からその変化を見ると,南北朝期の間に内裏大番役,幕府番役は消滅し,かわって大犯三箇条を超える行政権が,苅田狼藉(かりたろうぜき)取締り(田地紛争取締り),使節遵行(判決遂行),半済(はんぜい)(荘園年貢半分の武士への分配)などの形で順次室町幕府によって認められるようになった。この職権拡大は国衙との関係でいえば,在来国衙が保持してきた行政一般を守護のもとに吸引する決定的な足がかりとなり,以後各国一様に国府が守護の全面統轄のもとにおかれ,また国衙を構成する種々の〈所〉が守護の機構に吸収されてゆくようになった。次に幕府との関係から見ると,この職権拡大はいうまでもなく,すでに鎌倉時代後期からきざしていた各守護の幕府からの自立を促進するてことなった。山陰・山陽に数ヵ国を領する山名氏の分断をねらった明徳の乱(1391)や,周防・長門・豊後・和泉などを押さえる大内氏を討った応永の乱(1399)などは,自立し強大化する守護への室町幕府の抑圧策にほかならないが,長期的に見れば幕府の統御は成功せず,室町から戦国期にかけて守護の世襲化は確立し,幕府による更迭は事実上不可能となり,守護の存立は守護自身の力量と周辺勢力との力関係で決定することとなった。
以上を守護と国内武士領主一般との関係から見直すと,すでに鎌倉後期に生じていた守護の自立の萌芽は,地域社会と武士領主層が国衙・荘園縦割り支配にかわる地域統合を求める動きの芽生えをとらえ,それに対応しようとした結果にほかならない。ただ,在来上述のような複雑な荘園公領・御家人非御家人の縦割り支配が行われていたなかでは,それは一挙に解消されず,南北朝・室町前期には,旧来の守護の力の浸透しにくかった地域などを核として,党・一揆と呼ばれる武士領主層の自立的・共和的地域的結合が成立して守護の管国統合に対抗し,これを制約した。しかし,南北朝・室町前期の間に守護が一般的に上述の広範な一国行政権を手に入れたことは,党・一揆その他を圧倒して領国を統合する制度的前提を与えた。ただこれらの職権は当初の段階では,古い国衙・荘園的諸権限・機能の寄せ集めにすぎなかったから,15世紀以降畿内・同周辺で惣村を生み出し,諸国各地に地方都市を発達させるような地域構造の変化が生じてくると,それに十分対応できず,その結果守護の管国支配は党・一揆をふまえ,展開する地域社会を内在的に統合することが課題となった。これを果たせない守護は没落し,成功したものは朝廷・幕府につらなる諸職権の枠から事実上完全に脱皮し,戦国大名に発展してゆくのであり,ここにおいて鎌倉以来の守護は制度的生命を閉じ,名称は存続しても実体的には発展的解消を遂げたということができる。
→戦国大名 →惣追捕使
執筆者:義江 彰夫
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鎌倉・室町両幕府の職制で,国ごとにおかれた軍事・行政官。12世紀末の源平争乱期・鎌倉幕府草創期,源頼朝は状況に応じて有力御家人を国ごとの軍事指揮官に指名。彼らは守護人・総追捕使(そうついぶし)ともよばれた。1185年(文治元)末,この地位は朝廷に公認され,やがて全国的・統一的な守護制度となった。「御成敗式目」は守護の職掌について,大番役の御家人の指揮・監督と謀反人・殺害人などの追補と規定。国衙(こくが)行政への関与と土地・住民の支配を禁じている。しかし現実には,国衙在庁を指揮して大田文(おおたぶみ)を作らせたり,一国平均役の賦課・徴収を行った。鎌倉末期には守護職の多くを北条氏一門が占めるようになる。建武政権・室町幕府にも,その職制は継承された。南北朝期には守護の交代が続くが,15世紀になると畿内の細川・畠山両氏,東国の上杉氏,防長の大内氏,九州の島津氏のように,守護の家と管国がほぼ固定化。同時に守護は一国の行政権を手中に収め,国内の武士を被官化し,領国支配を確立していく。彼らを守護大名とよび,多くは幕府の衰退と運命をともにするが,領国支配をより強化して戦国大名となる者もいた。
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…関東府ともいう。その政治組織は,〈天子ノ御代官〉たる鎌倉公方足利氏のもとに関東管領,守護,奉公衆,奉行衆から成り立っていた。鎌倉公方は,任国内の武士に対する軍事統率権や土地安堵権など,そして諸寺社の住持職の補任権や吹挙権などを保持したが,関東管領と任国内の守護任免権は室町将軍の保持するところであった。…
…一方,源氏の側でも84年(元暦1)に源義仲を滅ぼした源頼朝は,それまで義仲が支配していた北陸道諸国に対して,比企朝宗を鎌倉殿勧農使として派遣している。比企朝宗は鎌倉幕府の守護制度が整備されるなかで,北陸道諸国の守護として活躍するようになるところからみて,この鎌倉殿勧農使がある意味では鎌倉幕府の守護制度の源流をなすとも考えられる。しかしながら,85年(文治1)11月におかれた鎌倉幕府の国地頭(ないし惣追捕使)が,勧農使の伝統をうけついで公然と国務に干渉していたにもかかわらず,翌年3月,北条時政が自分のもっている7ヵ国の地頭職を辞退して惣追捕使になると後白河法皇に申し出て,諸国の勧農から手をひいている。…
…しかし兵粮米をめぐる現地の混乱がひどくなり,翌年3月には北条時政が自分の7ヵ国の地頭職の辞退を後白河院に申し出て惣追捕使になったのをはじめ,頼朝が兵粮米の徴収を全面的に停止し,さらに6月には九州をのぞいて西国37ヵ国で,平家没官領・謀反人所帯跡をのぞいて地頭の権限をとどめ,武士たちによる田地知行などの濫妨が禁止されたのを機会に,それまでの国地頭は実際上,廃止されるにいたった。以後,国には惣追捕使がおかれ,やがて守護(人)とよばれるようになった。国地頭は北条時政の7ヵ国のほかに,梶原景時が播磨・美作,土肥実平が備前・備中・備後,天野遠景が九州諸国を管したと推定される。…
…もと朝廷―国衙の法体系で生まれた概念であろう。 鎌倉時代以降,朝廷では京都は検非違使庁,諸国は国衙が検断に当たるが,国衙の権限は早く守護に吸収される。京都では武家所属の者が当事者でないかぎり,原則として検断は検非違使庁の権限に属し,14世紀末には武家に吸収される。…
…南北朝・室町時代に幕府の命をうけた守護や守護代が守護使や遵行使を現地に派遣し,幕命を執行すること。勝訴人への所領の引渡しや違乱押妨の排除などが多い。…
…その際,文治勅許によって成立した地頭制を国地頭のみと限定するか,あるいは在来の指摘を認めつつ,荘郷地頭,国地頭双方であったとするかの両様の見解が提起されている。ただここで留意すべきは前者すなわち国地頭制を主張する論者が意味する地頭とは,後の守護に発展する実態を有するもので,内実としては惣追捕使に近似する存在であった点である。したがって,この理解にあっては,地頭という名を共有するにしても,荘郷地頭の延長上に位置する意味で国地頭とは意味が異なる。…
…鎌倉・南北朝・室町時代の守護の直轄所領・所職。鎌倉時代のものとしては1235年(嘉禎1)に幕府が認めた安芸守護藤原親実の例が著名である。…
…南北朝・室町時代の社会構成上の概念。鎌倉幕府の中央集権的体制が崩れ,室町幕府の守護によってその領国に地域的封建制が形成されたとする形態を称する。室町幕府はいわばこのような権力である守護大名の連合政権であると理解する説である。…
…この惣追捕使の職務は少なくとも表向きは謀反人たる義経とその党類を捜索・逮捕することであり,またそれに必要な物資の調達や諸国庄公役人への命令なども随伴していたが,その背後で頼朝側がそれを通して諸国武士一般を軍事的に編成する体制をつくろうとしていたことは否定できない。 このとき設置された惣追捕使には,国ごとに一員ずつ置かれたものと,荘園単位に置かれたものの2種類あるが,前者は平家追討段階から存在し同時期にも同職務内容をもって活躍している守護(または守護人)と同一実態であるところから,おそらく平安時代末期いらいの諸国鎮護の前史をもって登場した守護人を,朝敵追討の公職として組織立て朝廷に認可させるための指称であったと考えられる(なお惣追捕使と守護を別種の職と見る見解もあることについては,〈守護〉の項目参照)。他方後者は同じ目的を遂行するために,国衙不入の権などを持った特殊な荘園に別途に設置されたものと解される。…
…鎌倉・室町幕府において,守護の職権事項と定められた,謀叛人,殺害人の検断と京都大番役の催促の3項をいう(この場合の守護検断権の本質が,守護が公家領・本所領にも立ち入って犯人を逮捕できる点にあるか,犯人の処断にあるかは説が分かれている)。この職権規定は将軍源頼朝の時代に設けられたが,その後,1232年(貞永1)制定の《御成敗式目》では夜討,強盗,山賊,海賊が加えられ,放火も盗賊に準ずる犯罪として同じ扱いになったようである。…
…暦応年間(1338‐42)から1518年(永正15)に至る間に二百数度の幕府関係段銭の事例が検証されているが,15世紀後半以降の内容的特徴は,幕府御所の修造,将軍自身の公事(宣下,拝賀,仏事など)のためのものの頻度が増加したことである。 幕府段銭の徴収権を与えられていた守護は,15世紀中葉に至るまでに守護独自の段銭を成立させ,原則として領域全体に賦課していく。これは国方段銭,要脚段銭などと称され,恒常化していった。…
…前1500年にさかのぼる殷の都の一つ,河南省鄭州では一辺約2km,高さ10mの方形の版築城壁の存在が確認されるが,これなどは最も発達し都市化した邑の一例であろう。邑は初発的には,丘陵部など立地条件に恵まれた場所を選び,郭と呼ばれる土などでつくった墻壁で区画し,その中に有力者の住居,祖先や守護神の祭廟のある城を設けた。城は神聖な場所であるとともに有事の際の最後の防御線ともなったと想定される。…
…家訓としてつくられた《朝倉孝景条々》が家法的条文を多く含むのは,この関係をよく示す例である。つぎに国法的要素は,守護法にその直接的系譜を求めることができる。分国法にしばしばみられる室町幕府法の継承条文は,室町幕府のもとでの守護の領国における裁判規範としての法の蓄積を前提とするものといえる。…
…応仁・文明の乱後,諸国の荘園からの年貢が納まらなくなると膝下荘園への依存度が高まり,室町幕府が全国への段銭(たんせん)などが賦課できなくなると,山城国への臨時課税が増加するなど,中世末の山城国は都市京都を支える重要な基盤となった。
[支配機構]
1185年(文治1)11月,源頼朝は北条時政を京都に送り,洛中の守護と近国の管轄にあたらせた。これ以降,承久の乱(1221)までは北条時政,平賀朝雅,伊賀光季が京都守護として山城国の支配にあたったが,鎌倉幕府の山城・京都への支配力は十分に浸透していなかった。…
※「守護」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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