幕末の儒学者。寛政(かんせい)11年元旦、古学派の儒者安井滄洲(そうしゅう)(1767―1835)の次男として日向(ひゅうが)国(宮崎県)清武(きよたけ)(現、宮崎市)に生まれる。名は衡(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)。息軒と号す。1819年(文政2)21歳で大坂に遊学、兄の死とともに帰る。1824年26歳で江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に入るが、3年で退学して松崎慊堂(まつざきこうどう)の門に入り、古注学を修める。1827年退塾、藩主飫肥(おび)侯の侍読となり、藩校設立とともに父滄洲は教授、息軒は助教となる。ほどなく辞して昌平黌に再入学する。刻苦勉励してその学名はようやく世に高まるに至った。1841年(天保12)43歳のとき江戸に三計塾(さんけいじゅく)を開き、多くの英才がその門に集まった。49歳で再度藩侯に召され、重用される。1853年(嘉永6)ペリー来航にあたっては『海防私議』を著して国防の要を論じた。徳川斉昭(とくがわなりあき)はこれに感じて、藤田東湖(ふじたとうこ)を遣わして意見を聞かせている。1862年(文久2)64歳にして昌平黌の儒官にあげられた。程朱学をもっぱらとする昌平黌に古学者息軒を登用したことは異例のことであった。明治維新ののちは著述に過ごし、明治9年9月23日東京に没した。78歳。息軒の学風は、古学の立場をとり、漢唐の古注学を本とし考証を重んじたところにある。宋明(そうみん)の学は理に走ってかえって道に遠ざかるものと批判し、清儒(しんじゅ)の学は古学を発明すること大なるものがあると記している。著書は『書説摘要』(1868成立)『毛詩輯疏(しゅうそ)』『周礼補疏(しゅらいほしょ)』『論語集説』(1872)『大学説』(1909)『中庸(ちゅうよう)説』(1909)『孟子(もうし)定本』(1909)『管子纂詁(かんしさんこ)』(1866)『左伝輯釈』(1871)『弁妄(べんもう)』『息軒文鈔(ぶんしょう)』『息軒遺稿』(1878)その他多数に及ぶ。
[渡部正一 2016年7月19日]
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江戸後期~明治初期の儒学者。名は衡,字は仲平。日向飫肥(おび)藩儒安井滄洲の子。はじめ篠崎(しのざき)小竹,のち昌平黌および松崎慊堂(こうどう)に学ぶ。1830年(天保1)藩校助教となり藩政にも参与したが辞し,38歳再び江戸に出て学を極め弟子をとった。一時藩邸にも勤務したが,62年(文久2)昌平黌教授に抜擢(ばつてき)された。学問は中年以後復古を主とした。著書《息軒文鈔》などのほか注釈書も多い。
執筆者:頼 祺一
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1799.1.1~1876.9.23
幕末・維新期の儒学者。儒学者安井滄洲の子。名は衡,字は仲平,別号は半九陳人など。日向国宮崎郡生れ。大坂で篠崎小竹に,江戸で昌平黌(しょうへいこう)に学ぶ。日向国飫肥(おび)藩藩校の設立に際し,助教となり総裁の父を助けた。江戸再遊後,1839年(天保10)江戸で三計塾を開く。ペリー来航に際し「海防私議」を著し,水戸藩主徳川斉昭に認められた。62年(文久2)昌平黌儒官となる。漢唐の註疏を学び,考証にもすぐれた。著書「論語集説」「管子纂古」。
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…近年,食品,電器などの工場の進出や宮崎医科大学の開設に伴い,人口は増加傾向にある。幕末の儒者安井息軒の出身地で,旧宅が半九公園にあるほか,清武城跡,黒坂観音などもある。清武川の黒北発電所は県内最古の水力発電所として知られる。…
※「安井息軒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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