精選版 日本国語大辞典 「安政の大獄」の意味・読み・例文・類語
あんせい【安政】 の 大獄(たいごく)
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1858年(安政5)江戸幕府の大老井伊直弼(いいなおすけ)による尊攘運動(そんじょううんどう)への弾圧事件。幕末の尊攘運動に一時期を画した政治的事件である。1857年6月の老中阿部正弘(あべまさひろ)の死去のあと、幕閣の実権は老中堀田正睦(ほったまさよし)(佐倉藩主)に移り、彼は開国政策を支持した。その背後には溜間詰(たまりのまづめ)の譜代大名(ふだいだいみょう)がおり、その指導権は彦根藩主井伊直弼が握っていた。ここにペリー来航以来攘夷主義を主張していた徳川斉昭(とくがわなりあき)以下、松平慶永(まつだいらよしなが)(松平春嶽(しゅんがく))、島津斉彬(しまづなりあきら)らに代表される大廊下詰(おおろうかづめ)家門大名、大広間詰外様大名(とざまだいみょう)の一派と溜間詰譜代大名との対立がクローズアップされた。ところが、病弱であった第13代将軍徳川家定(いえさだ)の継嗣(けいし)問題を契機にこの2派の対立は一段と激化し、政争の焦点はしだいに対外問題へと移った。つまり、幕閣の独裁を抑え、雄藩合議制を主張する家門・外様大名の一派は一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)(斉昭の第7子。のちに徳川慶喜)を将軍継嗣にしようとし(一橋派)、他方、幕閣独裁をとろうとした譜代大名の派は紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))を擁立した(南紀派)。両派とも朝廷工作を進め、その暗闘のなかで南紀派の策謀が功を奏し、井伊が大老に就任し、彼は独断専行、南紀派の推す慶福を将軍継嗣に決定するとともに、威嚇と督促を重ねるハリスに対しては、勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印した(1858年6月)。継嗣問題に敗れた一橋派は、この違勅調印を理由に一斉に井伊攻撃に立ち上がった。儒教的名分としての「尊王」と「攘夷」は、ここに「尊攘」論として結合し、反幕スローガンとなったのである。徳川斉昭・慶喜父子、徳川慶恕(よしくみ)(尾張(おわり))、松平慶永らが不時登城して井伊を詰問すれば、梁川星巌(やながわせいがん)、梅田雲浜(うめだうんぴん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、池内大学(いけうちだいがく)らの志士は京都に参集して反幕的機運を盛り上げた。孝明天皇(こうめいてんのう)も激怒して、譲位の意向を示し、1858年8月には、条約調印に不満を示す勅諚(ちょくじょう)、いわゆる「戊午(ぼご)の密勅」を水戸藩に下した。朝廷内部にも上級佐幕派公卿(くぎょう)と下級尊攘派公卿とが対立し、後者は「列参」=集団行動をとった。
こうした事態に幕府の危機をみてとった井伊は、徹底的な弾圧政策をとり、反対派の公卿、大名を隠退させ、幕吏を罷免し、志士を検挙処断した。公家(くげ)では、右大臣鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)、左大臣近衛忠煕(このえただひろ)を辞官落飾(らくしょく)、前関白鷹司政通(まさみち)、前内大臣三条実万(さねつむ)を落飾させ、青蓮院宮(しょうれんいんのみや)(朝彦親王(あさひこしんのう))、内大臣一条忠香(いちじょうただか)、二条斉敬(にじょうなりゆき)、近衛忠房、久我建通(こがたけみち)、中山忠能(なかやまただやす)、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)らを慎(つつしみ)に処し、大名では、斉昭を急度慎(きっとつつしみ)、慶恕、慶永に隠居、急度慎を命じ、幕吏中の俊秀大目付土岐頼旨(ときよりむね)、勘定奉行(かんじょうぶぎょう)川路聖謨(かわじとしあきら)、目付鵜殿長鋭(うどのながとし)、京都町奉行浅野長祚(あさのながよし)らを一橋派として左遷し、さらに作事奉行岩瀬忠震(いわせただなり)、軍艦奉行永井尚志(ながいなおゆき)(「なおむね」とも読む)および川路には隠居・慎を命じ、その他処罰された者は十数名に及んだ。志士以下の処罰者は75名に達したが、そのなかには水戸藩家老安島帯刀(あじまたてわき)(切腹)、同右筆頭取(ゆうひつとうどり)茅根伊予之介(ちのねいよのすけ)、同京都留守居鵜飼吉左衛門(うかいきちざえもん)、越前(えちぜん)藩士橋本左内(はしもとさない)、儒者頼三樹三郎、長州藩士吉田松陰(よしだしょういん)(以上死罪)、水戸藩士鵜飼幸吉(こうきち)(獄門)、鷹司家諸大夫小林良典(こばやしよしすけ)(遠島)、儒者池内大学、鷹司家家来三国大学(みくにだいがく)、青蓮院宮家来伊丹蔵人(いたみくろうど)(以上中追放)らがいる。
この安政の大獄を断行した井伊は、政治は朝廷から幕府が委任されているのだから、外圧の危機に際して「臨機の権道」をとるのは当然であり、勅許を待たない重罪は甘んじて自分一人が負うという論理のうえにたっていた。大老の職に自らの政治生命を賭(か)けたのである。それだけにその政治行動は迅速果敢、強烈な政治意志の発現として断行された。しかし、その政治意志が幕藩体制の保守的伝統的維持に根ざしている以上、客観的にはそれはかえって矛盾の深化、拡大をもたらすものであった。そして、井伊は安政の大獄の返り血を浴びる形で、1860年(万延1)3月、桜田門外に暗殺された。
[田中 彰]
『吉田常吉著『井伊直弼』(1985・吉川弘文館)』▽『吉田常吉著『安政の大獄』(1996・吉川弘文館)』▽『松岡英夫著『安政の大獄――井伊直弼と長野主膳』(中公新書)』
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1858~59年(安政5~6)に大老井伊直弼(なおすけ)が尊攘派に行った弾圧。井伊は13代将軍徳川家定の継嗣をめぐって一橋派と対立し,南紀派の推挙で大老となり一橋派有司を左遷した。また日米修好通商条約を勅許を得ないまま締結した。この二つの問題の強硬処理後,井伊は徳川斉昭(なりあき)・松平慶永(よしなが)らを処分し,条約調印に激怒した孝明天皇の上京命令を無視。京都では反幕勢力が増大し,志士が集結した。井伊は志士の逮捕・投獄を中心とする大弾圧を開始し,京では梅田雲浜(うんぴん)ら,江戸では橋本左内ら,長州では吉田松陰が逮捕され,京の僧月照はのがれて自殺した。翌年には朝廷内にも処罰者が出た。58年暮~59年3月,幕府は逮捕者を江戸に護送し断罪。これによって反対派を一掃したが,幕府自体の力を弱めることになった。60年(万延元)3月3日,井伊が桜田門外の変により横死し,大獄は終了。
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…これが前例になると幕府の存在は有名無実になると考えた直弼は,この降勅を画策した反対派の勢力に,徹底した弾圧を加えることを決意した。この弾圧が58年9月から59年10月にわたった〈安政の大獄〉である。公卿とその家臣,大名とその家臣,幕臣,尊攘派の志士など処罰者は100人をこえ,吉田松陰など7人の刑死者を出した。…
…徳川斉昭は,幕府が老中を上京させて調印の経過を奏聞すると確約したため,尾張・紀伊両藩へのみ回達するにとどめた。この勅諚降下に尊攘派の画策があるとみた幕府は,安政の大獄を決行するに至った。翌年,朝廷および幕府は水戸藩に勅諚の返納を命じた結果,水戸藩内はいっそう政治対立が深まり,返納反対の藩士らによる大老井伊直弼襲撃を生んだ。…
…日米修好通商条約調印直後の58年(安政5)6月,罷免された堀田正睦,松平忠固に代わって大老井伊直弼に老中に登用された。条約調印の事情を上奏するために,9月京へ上って長野主膳と連絡をとり,京都所司代酒井忠義を指揮して尊王攘夷派の公卿の家臣や諸藩の志士の逮捕を行った(安政の大獄)。この弾圧を背景に,10月徳川家茂の将軍宣下の勅を得,12月には幕府がやむをえず条約に調印した事情は了解するという内容の勅書を受けることができた。…
※「安政の大獄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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