(読み)そう

精選版 日本国語大辞典 「宋」の意味・読み・例文・類語

そう【宋】

[一] 周代の諸侯国の一つ(?━前二八六)。殷の宗族、紂王異母兄、微子啓が封ぜられた国。河南省の商邱に都し、殷の遺民を統治したと伝えられる。三二代で斉・魏・楚に滅ぼされた。
[二] 中国、南北朝時代、南朝最初の王朝四二〇‐四七九)。東晉の部将劉裕(武帝)が建国。建康(南京)に都した。第三代文帝の治世(元嘉の治)が最盛期。八代で斉王の武将蕭道成に帝位を譲り滅んだ。他の宋と区別するために、建国者の姓をとって劉宋と別称。
[三] 中国の統一王朝(九六〇‐一二七九)。趙匡胤太祖)が五代のあとをうけて建国。汴(べん)開封)に都して、中央集権を徹底し文治主義の君主独裁制を樹立。対外的には、遼・西夏・金に対して守勢にたち、文運の隆盛、新文化の誕生にもかかわらず、軍事・財政危機に苦しみ、一一二七年金に圧迫され九代で江南に移転。それ以前を北宋、以後臨安杭州)に都して蒙古に滅ぼされるまでを南宋と称する。趙宋。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「宋」の意味・読み・例文・類語

そう【宋】

中国の国名。
春秋時代の列国の一。周公旦が、いん紂王ちゅうおうの異母兄、微子啓を封じた国。都は商丘(河南省)。前286年にの三国に滅ぼされた。
南北朝時代南朝最初の王朝。420年、東晋の武将劉裕が建国。都は建康(南京)。479年、8世の順帝が武将蕭道成しょうどうせい(斉の高帝)に帝位を譲って滅びた。劉宋。
後周の節度使、趙匡胤ちょうきょういんが後周のあとを承けて、960年に建国。汴京べんけいを都とし、文治主義による君主独裁制を樹立。1127年、の侵入により江南に移り、都を臨安(杭州)に置いた。それ以前を北宋といい、1279年に9代で軍に滅ぼされるまでを南宋という。→靖康せいこうの変

そう【宋】[漢字項目]

人名用漢字] [音]ソウ(漢)
中国の国名、また、王朝名。「宋音宋学宋朝体南宋入宋にっそう北宋
[名のり]おき・くに

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「宋」の意味・わかりやすい解説

宋【そう】

(1)中国,春秋戦国時代の侯国。殷(いん)の王族が封ぜられ,その祭祀を継いだ。文化が栄え,商業が発達したが,戦国時代以後は大国の間にあって国勢は振るわなかった。前286年,斉・楚・魏の3国に分割されて滅亡。(2)中国南朝の一国。420年劉裕(武帝)が東晋から王朝を譲られて建国(禅譲放伐)。劉裕の子の文帝は内政を整え,元嘉の治といわれたが,北魏との交戦に失敗が続き,やがて内乱が起こり,478年,8代にして武将の蕭道成(斉の高帝)に国を奪われた。(3)中国の統一王朝。後周世宗の武将趙匡胤(ちょうきょういん)(太祖)が960年世宗の没後,部下に擁立されて即位し,1279年帝【へい】が元に滅ぼされるまで,約3世紀続いた。1127年靖康の変までを北宋,それ以後を南宋という。首都は初めは【べん】京(べんけい)(開封),南宋では臨安(杭州)に定めた。太宗の982年中国を統一し,王朝の基礎を固めたが,対外的には【せん】淵(せんえん)の盟により,燕雲(えんうん)十六州は遼に割譲されたままであった。形勢戸・官戸科挙等の制を採って,中央集権化を図り,文治主義による君主独裁制を樹立したが,遼・金・西夏・モンゴル帝国等の外圧は強く,歴代統一王朝中,最小の版図であった。仁宗・神宗代に極盛期を迎えたが,社会進化に伴う不平分子の発生と,文治主義による弱兵化のため,王安石を登用して新法を実施したが徹底せず,北宋末には政局不安が続き,の侵入を受けた。秦嶺・淮水(わいすい)の線で金の南進を阻止した宋は,人口の移住による江南開発で,経済力は増したが,金や金を滅ぼしたモンゴル帝国の圧迫を受けた。1276年元の世祖はバヤンを派遣して臨安を落とし,宋朝は事実上滅んだが,文天祥らは広州湾の【がい】山島にのがれ抵抗し,79年滅亡した。宋代には農業と手工芸が飛躍的に発達し,文化の面では磁器(青磁),絵画における技法的発達,新儒学(宋学)の発生など見るべきものが多かった。日本との関係も深く,とくに12世紀後半以降日宋貿易が盛んに行われた。
→関連項目会子魏晋南北朝時代グユク五代十国春秋戦国時代中華人民共和国陳和卿南宋南北朝モンケ大和政権六朝文化

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「宋」の解説

宋(そう)
Song

①〔南朝〕420~479 劉宋(りゅうそう)ともいう。魏晋南北朝時代の南朝の王朝。東晋の軍人劉裕(りゅうゆう)(武帝)は,東晋の末簒奪を企てた桓玄(かんげん)を殺して安帝を復位させ,北伐を敢行して後燕後秦を滅ぼし,恭帝の禅譲を受けて即位した。子の第3代文帝の30年の治世は内政が整い元嘉(げんか)の治といわれたが,北魏との交戦には失敗が多かった。やがて皇族・武将らの反乱が続き,武将の蕭道成(しょうどうせい)が実権を握って,順帝の禅譲でを建て,宋は8代で滅んだ。

②960~1279 太祖趙匡胤(ちょうきょういん)が建国してから,帝昺(へい)が元の世祖(クビライ)に滅ぼされるまで約3世紀続いた王朝。中国史上の重要な転換期=唐末五代に続き,分裂割拠と武人支配を収拾して統一する一方,新興の地主,自作農,都市庶民の富を背景とし,その有力者,形勢戸(けいせいこ)官戸科挙制を通じて官僚層に吸収して建国した。そこで対内的には軍事,政治,経済の中央集権を徹底し,文治主義の君主独裁制を樹立した。対外的には澶淵(せんえん)の盟以後,西夏モンゴル帝国に対し守勢に立ち,歴代の統一王朝のうち最も狭い領域を保った。宋の国家体制は仁宗ないし神宗(しんそう)のときに頂点に達し,文運の隆盛,新文化の誕生をみる。しかし文治主義に起因する弱兵や,社会進化に伴う不平等が軍事・財政危機をもたらした。神宗が王安石を登用して新法改革を断行,財政,経済,軍事警察,科挙,学校改革を企てるが,旧法党の反対で徹底しなかった。北宋末は政局不安定が続き,遼を滅ぼした金の侵入を受け,1127年北宋は滅亡する(靖康(せいこう)の変)。秦嶺(しんれい)‐淮水(わいすい)線で金の南侵を支えた南宋では,人口移住による江南開発で経済力は充実するが,対外的には金,モンゴルの勢力に終始圧倒される。こうした対外不振の反面,宋代には農業,手工業の生産が著しく発達し,その結果外国・国内貿易が栄え,大小の都市が興り,消費階層の官僚,庶民を中心に新文化が形成された。宋文化の特色は,唐の貴族的・国際的に対して,国粋的・庶民的・内省的である。仏教を消化吸収した新儒学(宋学)をはじめ,歴史叙述の盛行,古文復興運動,民間文芸(詞,雑劇,小説)の発達,絵画の二大流派(北画南画)の形成,青磁白磁ほか工芸品の高度な発達がみられた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「宋」の解説


そう

①周代の侯国の1つ
②南北朝時代,南朝最初の王朝 420〜479
③唐につぐ統一王朝の1つ 960〜1279
始祖微子啓は殷 (いん) の紂王 (ちゆうおう) の異母兄。商丘を都とし,殷の遺民を統治したという。文化も栄え,特に商業が盛んであった。春秋時代以後,斉 (せい) ・晋 (しん) ・楚の大国間に介在し,戦国時代にはいって前286年滅亡。
始祖は東晋の武将劉裕 (りゆうゆう) 。第3代文帝の治世30年間が最盛期。450年,北魏の太武帝の侵入で国力が衰退。帝の死後内紛と財政窮乏に苦しみ,武将の蕭道成 (しようどうせい) に滅ぼされた。
始祖は趙匡胤 (ちようきよういん) (太祖),都は汴京 (べんけい) (開封)。2代太宗は呉越・北漢などを平定してほぼ全国を統一。さらに遼から燕雲 (えんうん) 十六州を回復しようとして侵したが,失敗した。次の真宗のとき遼が侵入し,1004年淵淵 (せんえん) の盟によって,既存の国境線の尊重を約した。その後,宋は遼の背後におこった金と結んで遼を挾撃し,1125年遼を滅ぼした。しかし,金は宋の違約を理由に侵入し,首都を占領して欽宗 (きんそう) および上皇の徽宗 (きそう) らを捕らえ,北に送った(靖康 (せいこう) の変)。高宗は江南に逃れ,臨安(杭州)に都した。これ以前を北宋,以後を南宋という。南宋は1279年,元に滅ぼされた。宋代は政治面からみればほぼ文治主義をとり,官僚制を整え,中央集権的な君主独裁体制の確立につとめた。領域は中国統一王朝中最も狭かったが,比較的平和が続いたので,農工商とも発達し,国内交通が整備され,航海技術・造船業も発展し,国内商業および外国貿易も盛んになった。政治・経済の発展を背景に文運も興隆し,中国思想史のなかで宋代は大きな転換期であり,また発展期であった。宋学といわれる儒学哲学の発展はその象徴である。文学は旧来の貴族趣味を拭い去って,現実的人間の諸問題が個性の自由な主張のもとに取り上げられるようになった。散文が改革され,自由な達意の文体に切りかえられた。絵画・彫刻・建築・工芸・織物も後世に多くの傑作を残している

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宋」の意味・わかりやすい解説


そう
Song; Sung

中国,唐末,五代に続く統一王朝 (960~1279) 。開封を都とする北宋期 (960~1126) と,靖康の変 (27) で南渡して臨安を都とする南宋期 (27~1279) に大別される。宋の太祖趙匡胤は五代後周の武将から天子となり,軍閥国家の弊害をみて文治主義の方針をとり,巧妙な手段で武人支配を文官優位の官僚機構に組替え,君主独裁制の基礎を確立した。また国家財政の充実のために,これまでの土地税収入に頼るだけでなく,商業課税や専売収益の比重を増大する政策をとった。しかし対外的には,契丹西夏の侵入を受けて歳幣 (外国に対する毎年の贈与) と軍費の捻出に苦しんだ。王安石の新法は,この難局打開のための富国強兵策であったが,新法の実施は大地主,豪商,官僚などの階級の利益を侵害するところが多く,彼らの激しい攻撃を受けた。こうして新旧両法党の対立が激化し,政治的混迷が続いている際,満州に起った女真族のの侵入を招き,華北の地を占領されてしまった。南宋期には,金に対する主戦論が強く盛上がったが,宰相秦檜が政局を握ると金との間に和議が成立した。しかし両国の和平はしばしば破れ,臨戦体制の状況下に国家財政は窮迫し,過酷な徭役と重税に加えて紙幣が乱発され物価が高騰し,人民の生活は苦しく,失業者の増大で反乱も頻発した。このような政治,社会の混乱期にあって,さらに強大なモンゴルの侵入にあい,南宋はこれに滅ぼされた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「宋」の解説


そう

1劉宋(りゅうそう)とも。中国の南北朝時代の王朝の一つ(420~479)。東晋の末,南燕と後秦を討って軍功をあげた武人の劉裕(りゅうゆう)(武帝)が,恭帝から禅譲をうけ建康(現,南京)に王朝を開いた。華北からの流浪者を江南の戸籍につけ(土断法),富国をはかって北魏と対抗したが敗れ,順帝が武臣の蕭道成(しょうどうせい)(斉の高帝)に禅譲して王朝は滅んだ。外交では倭の五王(讃・珍・済・興・武)に,使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍倭王などの称号を贈り,百済(くだら)とともに東方政策の基軸とし,北魏と高句麗に対抗した。

2中国の王朝。北宋(960~1127),南宋(1127~1279)。趙匡胤(ちょうきょういん)が建国。南朝の宋に対し趙宋ともいう。唐末五代に武人政権が台頭したため,宋では皇帝直属の禁軍の強化,行政・監察・軍事の分掌化によって文官主導の政治体制がとられた。大土地所有容認の両税制下に新興地主が登場したが,科挙(かきょ)の拡充で彼らの貴族化は阻止され,皇帝独裁制が確立。製陶業などの産業が発達し,大量に作られた銅銭は海外でも流通,紙幣も登場した。農業や南海貿易の発展で江南の比重が増し,黄河と長江を結ぶ大運河ぞいに北宋の開封(かいほう),南宋の臨安(りんあん)(杭州)両首都がおかれた。金の侵入で北宋が滅び南宋がたつと,江南の経済はいっそう発展した。日宋間に正式の国交はなかったが貿易は盛んで,奝然(ちょうねん)・成尋(じょうじん)ら入宋僧も多かった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典 第2版 「宋」の意味・わかりやすい解説

そう【宋 Sòng】

中国,南朝四王朝の一つ。420‐479年。創業者は劉裕(武帝)。曾祖父の代に彭城(江蘇省銅山県)から京口(江蘇省鎮江)に移住。京口に置かれた北府軍団の一部将から身をおこした劉裕は,やがてその軍団長として孫恩・盧循の乱を鎮圧,410年(義熙6)には南燕,417年には後秦を征服,このような武功によって東から王朝を譲られた。第3代文帝治世下の天子と貴族たちとの合議政治の体制は〈元嘉の治〉とたたえられたが,主要な軍鎮の長官には宗室諸王が配せられ,また中央集権を志向した孝武帝以後,手足となって働く実務官僚を寒門や寒人にもとめたため,貴族たちはしだいに棚上げされはじめた。

そう【宋 Sòng】

中国に960年から1279年まで存在した王朝。1127年(靖康2)の靖康の変によっていったん滅亡したので,それ以前を北宋,以後の南遷して杭州に都した時期を南宋という。
【政治過程】
 後周世宗の武将であった趙匡胤(ちようきよういん)は,世宗の没後,部下の将兵に擁立されて皇帝となり,宋朝を開いた(960)。宋の太祖である。彼は世宗が始めた天下統一の事業を受け継いで,在位17年間に,南方に割拠していた荆南,楚,南漢,後蜀,南唐を相ついで征服した。

そう【宋 Sòng】

中国,春秋時代の侯国。?‐前286年。殷の滅亡後,殷王帝辛(紂王)の兄微子啓が,殷の故都商邱(河南商邱県南)に封ぜられた国。春秋時代には河南東部を中心として勢力をもち,第19代襄公は桓公死後の斉の内乱を治め,覇者を志したが,楚に敗れ死亡。以後晋・楚の間にあり,両国の圧迫に苦しんだ。その間前588年,前546年の2回,宋が中心となって晋・楚の和平を実現させた。戦国時代には小国に転落,前286年斉,魏,楚に三分され滅んだ。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「宋」の解説


そう

①中国の魏晋南北朝時代の南朝の一王朝(420〜479)
②唐末〜五代の乱世のあとに続く中国の統一王朝(960〜1279)
大和朝廷(倭の五王)が朝貢したことが『宋書』に記されている。
960年趙匡胤 (ちようきよういん) が建国。文治政治を行い,皇帝独裁制を樹立したが,武力が弱く,しばしば北方民族の侵入をうけ,金に国を奪われた。南遷して1127年復興。以前の北宋に対して南宋と呼ばれるが,1279年元に滅ぼされた。日本との正式国交はなかったが,私的な貿易は盛んに行われた。宋銭の輸入は平安末期〜鎌倉時代の経済に大きな影響を与えた。また奝然 (ちようねん) ・成尋 (じようじん) の入宋,禅宗並びに禅文化の伝来,大仏様・禅宗様の新建築様式など文化面でもその影響は大きい。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

防府市歴史用語集 「宋」の解説

 960年から1279年までの間の中国の王朝です。首都が北と南に2つありました。北の首都は1127年にほろぼされますが、南は引き続き存続します。日本とは正式な国交はありませんでしたが、貿易は盛んでした。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

世界大百科事典内のの言及

【地主】より

…以上のように,唐以前の私的な土地所有者には公権力とつながりをもつ者が少なくなかったが,彼ら自身は国君,諸侯や皇帝とは異なり,公権力の掌握者ではなく,この点でヨーロッパや日本の封建領主と区別されるとして,中国の学界では彼らを地主の範疇に入れている。
[唐・宋変革以後の特徴]
 8世紀の中葉以降,唐の後半になると,個人の才能を学科試験で評定して官僚を任用する科挙制度がしだいに発達し,均田制が崩壊して,土地所有を政治的・社会的地位のいかんによらず万人に開放し,おのおのの民戸の私有を承認する両税法が施行された。この時期は世襲的な官僚としての貴族が没落し,伝統的な同族結合を保持し,奴婢や部曲(ぶきよく),佃客(でんきやく)など隷属性の強い労働力を用いた土地所有によって貴族制を支えていた豪族に代わって,小作農としての佃戸を使用する土地所有者がしだいに増加する。…

【澶淵の盟】より

…中国で1004年(宋の景徳1∥遼の統和22)宋と遼の間に結ばれた和平条約。五代から宋初,河北に領域を広げる遼と,失地回復を目ざす漢民族王朝の間に攻防がくりかえされた。…

【宋】より

…中国に960年から1279年まで存在した王朝。1127年(靖康2)の靖康の変によっていったん滅亡したので,それ以前を北宋,以後の南遷して杭州に都した時期を南宋という。
【政治過程】
 後周世宗の武将であった趙匡胤(ちようきよういん)は,世宗の没後,部下の将兵に擁立されて皇帝となり,宋朝を開いた(960)。宋の太祖である。彼は世宗が始めた天下統一の事業を受け継いで,在位17年間に,南方に割拠していた荆南,楚,南漢,後蜀,南唐を相ついで征服した。…

【魏晋南北朝時代】より

…220年漢帝国が滅亡してから589年隋によって中国が再び統一されるまでの時代。建康(南京)に首都を置いた呉・東晋・宋・斉・梁・陳の江南6王朝を六朝というが,六朝の語でこの時代を総称する場合もある。この時代の特徴は政治権力の多元化にあり,短命な王朝が各地に興亡して複雑な政局を織りなし,はなはだしい場合には十指に余る政権が併立した(図)。…

【南朝】より

…中国,東晋王朝を継いで江南に興亡した4王朝,すなわち(420‐479),(479‐502),(502‐557),(557‐589)の総称。北朝に対する呼名。…

【武帝】より

…中国,南朝の初代皇帝。在位420‐422年。…

※「宋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

今日のキーワード

オスプレイ

固定翼機でありながら、垂直に離着陸できるアメリカ軍の主力輸送機V-22の愛称。主翼両端についたローターとエンジン部を、水平方向から垂直方向に動かすことで、ヘリコプターのような垂直離着陸やホバリング機能...

オスプレイの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android