中国において,祖先の位牌をまつる建物。天子については宗廟(または太廟)といい,それ以下の階級については家廟(または祠堂)という。その営建は殷代にまでさかのぼる。都城を営むとき,まず宗廟を造り次に厩舎(きゆうしや)(馬小屋)と武器庫を造り,最後に居室を造ると言われるごとく(《礼記》曲礼篇),宮城のなかで最も重要な建築。宗廟の崩壊は国家の滅亡にほかならず,〈宗廟社稷(しやしよく)〉(社稷は土地と穀物の神)は国家の代名詞にも使われた。宗廟が〈廟〉と〈寝〉から成るのは,前に〈朝(政務をとる所)〉があり,後に〈寝(居室)〉がある人君の住居にかたどるといわれる(蔡邕(さいよう)《独断》)。廟には位牌を安置し,寝には衣冠をはじめとする生前の調度品を収める。まつられる対象により,宗廟は太祖廟・昭廟・穆(ぼく)廟の3種に分けられる。太祖廟(太廟)は王室の始祖,昭・穆廟はその子孫たちの廟である。昭・穆とは太祖の後継者たちを2組に分類するための呼称であり,太祖の次を昭,その次を穆として以下順々に組み分けてゆく。配置は,太祖廟を北に建て,東の昭廟と西の穆廟が2列になって南下する。廟の数は階級によって決められており,天子は7廟(太廟1,昭廟3,穆廟3),諸侯は5廟(太廟1,昭廟2,穆廟2),大夫は3廟(太廟1,昭廟1,穆廟1),士は1廟,庶人には廟がなく寝(座敷)でまつる(《礼記》王制篇)。このように廟数には制限があるから,王朝が長く続いた場合,7廟では足らなくなってくる。そのときには世代の遠いものから順に太廟内にある東西の夾(きよう)室にその位牌を移すのである。これを〈祧(ちよう)〉と呼ぶ。この移し方にも昭・穆の原則が貫徹され,昭廟から祧(うつ)った位牌は東の夾室に,穆廟から祧った位牌は西の夾室にそれぞれ収められる。
上述したのは,経書にみえる廟制のあるべき理念であって,このシステムどおりに現実が動いていったわけではない。たとえば漢代では,皇帝が崩御するたびに互いにかけ離れた場所に廟を営建したし,後漢になると〈同堂異室制〉が採用された。つまり1世代1廟の原則を廃棄し,太廟を幾室にも仕切って,中央の太祖の室の左右に先祖の位牌を昭・穆の順に配置していったのである。これが宋代になると,西を尊位として西から東へ横1列に室を並べてゆく制度に変わったのみならず,祧廟(祧された祖先のための独立の廟)が宗廟の西に建てられている。
ところで,廟と墓とは本来別のものである。前者は死者の霊魂を迎える場所であり,後者は死者を送る場所であって,礼制の上でも宗廟の祭祀は〈吉礼〉に,葬送の儀礼は〈凶礼〉に判然と分類されている。ところが,実際には陵墓の近くにもうひとつの廟を建て,陵墓の頂上やそばに寝(殿)を移し,宗廟の主要な儀礼をこの寝殿で行うことが歴代の通例であった。これを〈陵寝制度〉と呼んでいる。死者の肉体がそこにある陵墓の具体性は礼の理念的な要請よりはるかに人情に近かったのである。なお,宗廟の遺構は,明・清時代のものが北京紫禁城(故宮博物院)内に残るほか,宋代の廟制に範をとった朝鮮王朝時代の宗廟が,祧廟である永寧殿ともどもソウルに偉容をとどめており,今なお5月の第1日曜日に祭祀がとり行われている。日本では,和漢折衷様式の米沢藩上杉家の〈御廟(ごびよう)〉が著名。
執筆者:三浦 国雄
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…后土は皇天に対する語で,地祇(ちぎ),皇地祇ともいう。天と地のまつり(郊祀(こうし))と祖先のまつり(宗廟(そうびよう))とは旧体制の中国において最重要の国家祭祀であった。后土のまつりも古代から行われたが,長らく欠けたままになっていたので,漢の武帝は山西省の汾陰(ふんいん)に后土祠を建てて復活させた。…
※「宗廟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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