宝泉寺(読み)ほうせんじ

精選版 日本国語大辞典 「宝泉寺」の意味・読み・例文・類語

ほうせん‐じ【宝泉寺】

  1. 〘 名詞 〙ほうせんじかご(宝泉寺駕籠)」の略。
    1. [初出の実例]「いづくともなく、ほうせんじの御免駕籠をつらせ」(出典:黄表紙・金々先生栄花夢(1775)上)

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日本歴史地名大系 「宝泉寺」の解説

宝泉寺
ほうせんじ

[現在地名]門前町道下

尾桜山と号し、高野山真言宗。本尊不動明王。道下とうげ護摩堂とも通称。寺蔵の由来記によれば、大同二年(八〇七)空海の開闢、正和二年(一三一三)恵勝が中興開基という。もと隣地に所在した「櫛比八ケ」内諸村の総社鉄川かなかわ(現諸岡比古神社)の別当の鉄川寺の筆頭寺で、同寺には当寺のほか善光ぜんこう寺・松林しようりん寺・宝幢ほうどう寺・福善ふくぜん寺・大寧だいねい寺・興建こうけん寺の七坊があったが、戦国期、外護者畠山氏が滅ぶと宝泉寺を除いて廃絶。


宝泉寺
ほうせんじ

[現在地名]上北山村大字西原小字鳴滝

白竜山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観音。寺伝によれば、永享九年(一四三七)二月車僧深山が南朝の回復を祈るため、字あんたいらに庵を結び興泉こうせん寺と名付けたという。車僧は京都東福とうふく寺塔頭盛光じようこう院開山直翁智侃の法嗣と伝えられるところから、もとは臨済禅寺であったらしい。「大和志」に「在北山荘西野村、山号白竜山観音大士龕記曰南帝勅願寺紀州牟婁郡熊野奥北山内泉村興泉寺、永享九年丁巳二月建立開山車僧蓋興泉寺故蹤今在寺東、西有瀑布高二十丈余」と本尊の龕記を記している。


宝泉寺
ほうせんじ

[現在地名]日原町河村

曹洞宗。竜徳山と号し、本尊は観音菩薩。もと木口このくち村にあった。初めは臨川りんせん庵と号して津和野永明ようめい寺末庵であったらしい。宝永六年(一七〇九)祖澄が永明寺玉漢智温を勧請開山として、臨川山宝泉寺として開創した。同一〇年永明寺徳明玄峻をもって伝法中興とし、竜徳山と山号を改めた。安永三年(一七七四)六世千山白英が脇本わいもと寺尾てらおに移し、本堂を造営した。このとき日原村の大石鼓が草した竜徳山宝泉寺造営勧化牒などには、宝泉寺は下瀬山しもせやま城主下瀬美濃守を開基とする下瀬氏の菩提寺で、開山は萼中祖英(永享四年没)であり、玉漢智温を請して再興したとしている。


宝泉寺
ほうせんじ

[現在地名]津島市池麩町

延享五年(一七四八)の村絵図には麩屋町ふやんちよ筋の南を平行に通っている池之堂いけんど筋の行止りにある。境内の東側は延命えんめい寺境内に接する。飛竜山と号し、浄土宗西山禅林寺派。本尊は阿弥陀如来坐像。

天文四年(一五三五)寂の喜叟源悦を開祖とし、寛永一五年(一六三八)寂の四世円空春呈を中興にしている(寺伝)。山号は「寛文覚書」や正徳元年(一七一一)五月一一日の位牌裏書に来迎山とあり、「雑志」では飛竜山としているから、この間に改号している。


宝泉寺
ほうせんじ

[現在地名]瀬戸市寺本町

大昌山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。創建年代不詳。寛永一〇年(一六三三)雲興うんこう寺の一五世興南義繁を勧請開山として再建した(雑志)が、正保三年(一六四六)に義繁が没し、法系が中絶したので、安永七年(一七七八)村人の願いによって古柏万庭が中興開基となり、師華嶽層雲(雲興寺二九世)を勧請中興開山として法地を復興した(徇行記)

江戸時代の諸書・書上などは、本尊を地蔵菩薩とするが、現在は釈迦如来である。


宝泉寺
ほうせんじ

[現在地名]小田原市風祭

旧東海道の北側、宝泉山の裾にある。永禄山と号し、臨済宗大徳寺派。本尊は釈迦如来。開基は北条時長、永禄年間(一五五八―七〇)の創建と伝える(風土記稿)。もと足柄下あしがらしも郡箱根町湯本の早雲ゆもとのそううん寺末。天正一三年(一五八五)三月一三日の北条家朱印状(県史三)に「風祭於法泉寺、不可致狼藉候」とある。境内裏山に石切場があり、御引渡記録(県史四)に「相州風祭村 水道石」とある。


宝泉寺
ほうせんじ

[現在地名]藤沢市遠藤

小出こいで川上流左岸に位置する。玉雄山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。開山は如幻宗悟で、享禄三年(一五三〇)没。開基は小田原北条氏の家臣仙波土佐守某といい、もと能登総持そうじ寺末。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉禁制(県史三)には「遠藤郷法泉寺」とある。翌年の徳川家康朱印状(相中留恩記略)により寺領二一石を受けている。元和三年(一六一七)・寛永一三年(一六三六)・寛文五年(一六六五)にも朱印状が出されている(寛文朱印留)


宝泉寺
ほうせんじ

[現在地名]日進町折戸 寺脇

竹流山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音菩薩。岩崎いわさき妙仙みようせん寺の末寺であった。寺伝には文明三年(一四七一)の創建で、初め長松ちようしよう寺と称したが、のちに丹羽氏清が岩崎村に移して大椿山妙仙寺と改め、慶長元年(一五九六)妙仙寺の二世高賢が長松寺を再興して現寺名となったとある。「徇行記」に「八代目氏清天文七年岩崎村ニ城ヲ築キテココニ移リ、折戸ハ元祖氏従ノ菩提所ナルニヨツテ其跡ニ竹流山宝泉寺ヲ創建ス」とみえ、「寺内六畝十三歩、備前検除」ともある。


宝泉寺
ほうせんじ

[現在地名]深浦町深浦 岡町

日本海を眼下に眺望する岡町おかまちの小高い所に位置する。深浦山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来像。開山は体岩というが(「長勝寺並寺院開山世代調」長勝寺蔵)、「新撰陸奥国誌」には儀道で天正二年(一五七四)の創立とある。


宝泉寺
ほうせんじ

[現在地名]厳原町天道茂

片平かたひらにある。玉雲山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。国分寺開山の宗睦が観音を勧請して一宇を建立したというが、別に嘉吉年間(一四四一―四四)甫吉を開山として中興されたともいう。


宝泉寺
ほうせんじ

[現在地名]多気町井の内林

櫛田くしだ川近くにある。真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。宝永六年(一七〇九)勧進牒(当寺蔵)によると「多気郡井之内邑宝泉教寺ハ一向専修之精舎ナリ、当初源義経公ノ近臣伊勢三郎義盛出世ノ地ニシテ、長子小塩一丸城州ヨリ来リテ此ノ練若ヲ創建ス、義盛ノ廟祠ヲ以テ鎮守トナス、傍ニ義盛誕生ノ砌リ初生湯ノ水ヲ汲シ一ノ泉井アリ、野中此ノ井ヲクンデ宝泉ト云フ、故ニ寺号トナス」とある。


宝泉寺
ほうせんじ

[現在地名]甚目寺町下萱津 銀杏木

長福山と号し、真言宗豊山派。本尊は薬師如来。寺書上によれば、弘仁年中(八一〇―八二四)守敏の開基。往時は七堂伽藍が整い、一〇町余の田地と一町余の松林の除地を有する大寺であった。


宝泉寺
ほうせんじ

[現在地名]芦刈町大字芦溝字中溝

芦刈町の北東端にあり、すぐ東方にさかい川が流れる。臨済宗南禅寺派。錦鏡山と号し、本尊は薬師如来。永禄年間(一五五八―七〇)の創建で、開山は済川慶晋。

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改訂新版 世界大百科事典 「宝泉寺」の意味・わかりやすい解説

宝泉寺[温泉] (ほうせんじ)

大分県玖珠(くす)郡九重(ここのえ)町の温泉。九重(くじゆう)山と万年(はね)山との間を流れる町田川沿いにある。地名の起りは,かつてこの温泉を開いたといわれる空也上人をしのんで建てられた宝泉寺があったことによる。湯量はきわめて豊富で,泉質は単純泉,食塩泉,泉温86~93℃。平安時代からの歴史をもち,九重温泉郷の中で最も開け,旅館数も多い。久大本線豊後森駅からバスが通じ,国道387号線も通る。
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百科事典マイペディア 「宝泉寺」の意味・わかりやすい解説

宝泉寺[温泉]【ほうせんじ】

大分県九重(ここのえ)町にある温泉。単純泉。43〜96℃。九重温泉郷の一つで,町田川の支流宝泉寺川の谷にあり,川岸・川中からわく。耶馬日田英彦山国定公園に属し,万年(はね)山,涌蓋(わいた)山への登山基地。
→関連項目九重温泉郷

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