精選版 日本国語大辞典 「室町幕府」の意味・読み・例文・類語
むろまち‐ばくふ【室町幕府】
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足利(あしかが)氏による武家政権。1378年(天授4・永和4)3代将軍義満(よしみつ)が京都北小路室町(むろまち)(京都市上京(かみぎょう)区)に邸宅を構え、政権の中心としたことにより、このように称される。足利幕府ともいう。
[桑山浩然]
足利尊氏(たかうじ)が征夷(せいい)大将軍に任ぜられた1338年(延元3・暦応1)とする説もあるが、通説では、後醍醐(ごだいご)天皇と光明(こうみょう)天皇の間で神器の授受が行われ、幕府の政策大綱ともいうべき「建武式目(けんむしきもく)」が定められた36年(延元1・建武3)11月とする。幕府の主要政務機関である引付方(ひきつけかた)、侍所(さむらいどころ)、政所(まんどころ)、問注所(もんちゅうじょ)などは、いずれも36年ないし37年ころより活動の跡が認められる。
[桑山浩然]
成立当初の幕府は、「建武式目」に明示しているように、鎌倉幕府執権(しっけん)政治全盛期といわれる北条義時(ほうじょうよしとき)・泰時(やすとき)の時期を模範と考えていた。鎌倉幕府時代の諸機関や職員の多くはそのまま継承され、鎌倉幕府の「御成敗(ごせいばい)式目」や追加法は武家法の先例として尊重された。3代義満のころになると、鎌倉幕府における最重要機関であった評定(ひょうじょう)・引付の制度が形骸(けいがい)化してくることに象徴的に示されるように、室町幕府独自の体制ができてくる。将軍を中心にして有力守護大名が幕政の主導権を握ること、公家(くげ)政権との融合が進むことがとくに目だつ点である。6代義教(よしのり)は、義満の先例を追いつつ一方で奉行人(ぶぎょうにん)とよばれる吏僚グループを重用し、守護に対して将軍権力の相対的向上を目ざしたが、嘉吉(かきつ)の乱により挫折(ざせつ)した。8代義政(よしまさ)の時期には、有力守護の対立を主要な動機に応仁(おうにん)の乱が勃発(ぼっぱつ)した。15世紀後半以降の幕府は、武家の棟梁(とうりょう)としての伝統的権威は保持し、守護大名の権威の源泉としての意味はもつものの、日常的には畿内(きない)の地方政権としての意味合いが濃い。
[桑山浩然]
幕府の初期は、建武政権を倒し、新しい政権の樹立に成功した政治的指導者である初代将軍尊氏と、その弟で権力機構の組織者として卓越した手腕を発揮した直義(ただよし)の2人に率いられていた。いわば尊氏、直義の二頭政治である。各国には鎌倉幕府に倣って守護を置くとともに、鎌倉には尊氏の息義詮(よしあきら)、ついで基氏(もとうじ)とその子孫を置いて関東公方(くぼう)(鎌倉御所、鎌倉公方)とし、陸奥(むつ)には奥州探題(おうしゅうたんだい)、出羽(でわ)に羽州(うしゅう)探題、九州に九州探題を置いた。鎌倉時代には限られた権限しかもたない地方官にすぎなかった守護は、この時代に入ると管下武士への軍事指揮権を強め、一方、半済(はんぜい)、守護請(うけ)、段銭(たんせん)の賦課などを通じて荘園(しょうえん)を侵略し、守護大名とよばれるように領主化していった。尊氏、直義の政治的バランスが崩れて対立、抗争が決定的になったのは1350年(正平5・観応1)である。これを年号にちなんで観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)とよんでいる。
[桑山浩然]
3代義満が将軍になった1368年(正平23・応安1)当時は、北陸に本拠を置く斯波(しば)氏と四国の細川氏が二大勢力を形成し、将軍はその均衡のうえにのっていた。義満は初め父義詮の遺命もあって細川氏(頼之(よりゆき))を管領(かんれい)にするが、79年(天授5・康暦1)の政変(康暦(こうりゃく)の政変)により細川氏が下野すると、斯波氏(義将(よしまさ))を管領にした。やがて有力守護の同族どうしを争わせて勢力をそぐ政策がとられ、土岐(とき)氏(濃尾伊勢(いせ)三国守護の分割)、山名(やまな)氏(明徳(めいとく)の乱)、今川氏(今川了俊(りょうしゅん)の九州探題解任)、大内氏(応永(おうえい)の乱)らが勢力を失った。義満を継いだ4代義持(よしもち)は畠山(はたけやま)氏を初めて管領に登用し、細川・赤松両氏を牽制(けんせい)した。一方関東では、幕府開設以来鎌倉にいた関東公方が京都に対し自立的な動きを示していた。1416年(応永23)には関東管領上杉(うえすぎ)氏内部に対立が起こり、将軍継嗣(けいし)をめぐる思惑も絡み、前管領上杉禅秀(ぜんしゅう)のクーデターによって関東公方持氏(もちうじ)は鎌倉を追われた(上杉禅秀の乱)。義持は早逝した5代義量(よしかず)の継嗣を定めぬまま没した。
義満の仏門に入った子息のなかからくじによって将軍職に迎えられた6代義教は、奉行人とよばれる事務官僚的な直臣団を重用して、義持時代の沈滞した雰囲気の打破に努めた形跡が認められるが、しだいに今川氏、武田氏、小早川氏らの一族争いに干渉するようになり、また、ささいなことで排斥した公家(くげ)、武家も少なくなかった。赤松氏一族の処遇問題を直接のきっかけとして、1441年(嘉吉1)義教は赤松邸の遊宴の席で暗殺された(嘉吉の乱)。義教ののち擁立された7代義勝(よしかつ)、8代義政(よしまさ)は将軍職就任当時いずれも幼少であったので、しばらくは有力守護による合議制が復活したが、義政が成人に達し、親政を行うようになる57年(長禄1)以降ふたたび諸家への干渉は激しくなり、将軍継嗣問題も絡んで1467年(応仁1)には応仁の乱の勃発をみるのである。
[桑山浩然]
幕府には幕府料所あるいは単に御料所とよばれる直轄領があり、将軍の直臣たちが管理していた。ただしその実態は荘園と異ならず、所領の数はともかく、収入額を過大視することはできない。むしろ、京都市中の商工業者を支配下に置き、これに財源を求めたのが室町幕府の大きな特徴である。とくに酒屋、土倉(どそう)からは納銭方を通じて多額の役銭が徴収され、その額は14世紀末の段階で年額6000貫といわれている。比較的手近にあって確実に徴収できる酒屋・土倉役は将軍の日常生活をまかなう有力な財源であった。また、恒常的なものではないが、15世紀以降の日明(にちみん)貿易による利益も大きな比重を占めていたものと考えられる。御所を造営したり、大規模な仏神事を修したりする際には、諸国や特定の国に段銭や国役(くにやく)が賦課されたり、守護出銭(しゅっせん)と称して守護に対して頭割りで賦課がなされることがあった。予算制度のない室町幕府にあっては、このような臨時的な収入も忘れてはならない。
[桑山浩然]
1467年に始まり、前後11年に及ぶいわゆる応仁の乱以降幕府の滅亡に至る時期を、幕府の権威が失われ、全国に戦乱が続いたとの意味で戦国時代とよんでいる。しかし義政から9代義尚(よしひさ)の時期にはまだ将軍の守護に対する影響力は残っていた。有名な東山(ひがしやま)の山荘(後の慈照寺(じしょうじ)、銀閣はその一部)が造営されたのはこの時期で、多くの守護が将軍の命によって造営費用を助成している。幕府の意義を将軍と守護との関係においてみるならば、むしろ10代義材(よしき)(後の義尹(よしただ)・義稙(よしたね))が細川政元(まさもと)に追われ、政元に擁立された義高(よしたか)(後の義澄(よしずみ))が将軍となった1494年(明応3)ごろを画期とすべきであるとの意見も出されている。京都を追われた義尹は、西日本において細川氏と勢力を二分していた大内氏を頼り、1508年(永正5)には再度将軍職に復する。しかし21年(大永1)細川高国(たかくに)の専横を怒って出奔し、その後には幼少の義晴(よしはる)が12代将軍となった。これ以降13代義輝(よしてる)、14代義栄(よしひで)の時期にかけて、将軍職とは名ばかりで、実権は細川氏、ついで細川氏の家臣三好(みよし)氏・松永(まつなが)氏らに握られていたと説かれることが多いが、越前(えちぜん)の朝倉(あさくら)氏、越後(えちご)の上杉氏など将軍の権威を慕ってよしみを通ずる大名もいたことは、室町幕府のなんたるかを考えるうえで興味深いことである。ことに15代義昭(よしあき)は、初め織田信長に擁されて将軍職につくが、信長と不和になると、毛利(もうり)・朝倉・武田・石山本願寺など反織田勢力の結集に努め、衰えたりとはいえその政治力は無視することはできなかった。しかし1573年(天正1)義昭は京都を追われ、室町幕府は名実ともに滅びた。
[桑山浩然]
『田中義成著『南北朝時代史』(1922・明治書院/講談社学術文庫)』▽『田中義成著『足利時代史』(1923・明治書院/講談社学術文庫)』▽『渡辺世祐著『室町時代史』(1948・創元社)』▽『佐藤進一著『日本の歴史9 南北朝の動乱』(1965・中央公論社)』▽『林屋辰三郎著『南北朝』(1967・創元社)』▽『今谷明著『戦国期の室町幕府』(1975・角川書店)』▽『佐藤進一著「室町幕府論」(『岩波講座 日本歴史 中世3』所収・1963・岩波書店)』▽『赤松俊秀著「室町幕府」(『体系日本史叢書 政治史Ⅰ』所収・1965・山川出版社)』▽『百瀬今朝雄著「応仁・文明の乱」(『岩波講座 日本歴史 中世3』所収・1976・岩波書店)』
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足利尊氏が1336年(建武3・延元元)に開設した武家政権。名目的には15代将軍義昭が織田信長に追放される1573年(天正元)まで続いた。名称は3代義満が本拠を構えた京都室町邸にちなむ。鎌倉幕府にならい諸機関が設置されたが,室町幕府では将軍補佐の重職として管領(かんれい)がおかれ,評定(ひょうじょう)・引付(ひきつけ)は初期に衰退して将軍親裁の御前沙汰(ごぜんざた)にかわった。将軍は直轄軍の奉公衆と直轄領の御料所をもち,京都を支配して土倉(どそう)・酒屋に財源を求めたが,京都支配のうえで政所(まんどころ)・侍所(さむらいどころ)が重要な機関となった。地方には鎌倉府・九州探題,諸国に守護がおかれた。幕府は一門中心の守護配置策をとり,南北朝内乱の過程で強権を付与して幕府支配体制の根幹とした。義満は明徳・応永の両乱で強豪守護の勢力を削減,南北朝合一をはたして国内を統一し,朝廷勢力を圧倒して公武統一政権を樹立。中国の明との国交を開き日本国王の称号を得た。しかし守護は任国を領国化して分権的傾向を強めた。将軍は守護統制のため守護の在京を義務づけ,有力守護を幕府の要職に任じ幕政を担当させた。義満の死により有力守護の支持で義持(よしもち)が擁立されると,幕政は管領を中心に有力守護層の合議により運営された。6代義教(よしのり)は専制化を志向,将軍の親裁権を強化するとともに守護大名抑圧策を断行したが,その反動で嘉吉の乱に倒れた。義教が行った守護家家督への介入は守護家の内紛をあおり,かえって幕府の諸国支配を困難とし,守護勢力間の均衡関係を崩して応仁・文明の乱勃発の原因となった。乱ののち守護は在国化して,幕府に結集せず,将軍は守護に対する統制力を失った。将軍義尚(よしひさ)および義稙(よしたね)は奉公衆を基盤として権威回復をはかるが,明応の政変で幕府の実権は細川氏に掌握された。以後,義澄(よしずみ)・義晴・義輝が細川氏などに擁立されたが,各地に割拠する戦国大名に全国支配をさえぎられ,義輝は松永久秀に殺された。義栄(よしひで)ののち,織田信長に擁立された15代義昭も,1573年(天正元)信長と不和となって京都を追われ,室町幕府は滅びた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…南北朝・室町時代の社会構成上の概念。鎌倉幕府の中央集権的体制が崩れ,室町幕府の守護によってその領国に地域的封建制が形成されたとする形態を称する。室町幕府はいわばこのような権力である守護大名の連合政権であると理解する説である。…
…後醍醐天皇の討幕運動は,この天皇と治天の君の再統合を図ったものということもできる。
[鎌倉・室町幕府と天皇]
1185年(文治1),源頼朝は〈日本国総追捕使,日本国総地頭〉に任命され,全国の軍事警察権を一手に掌握し,武士勢力を直接,間接に支配するに至った。頼朝はさらに奥州征伐を前にして征夷大将軍の任命を奏請したが,後白河上皇はこれを許さず,上皇の没後,ようやくこれに任ぜられた。…
※「室町幕府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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