広くは1336年(延元1・建武3)足利尊氏(あしかがたかうじ)が「建武式目(けんむしきもく)」を定め幕府を開いたときから、1573年(天正1)将軍足利義昭(よしあき)が織田信長によって追放されたときまでをさす。そのうち1392年(元中9・明徳3)の南北朝合体までをとくに南北朝時代とよび、1467年(応仁1)以降をとくに戦国時代とよぶことも多い。したがって、狭くは室町時代とは1392年以降応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱までということになる。室町幕府という中央政権を基準にして広く解するのが古くからのとらえ方であるが、今日学問的には、南北朝時代および戦国時代のそれぞれの政治・社会経済構造や史的意味の独自性を追求しようとする考え方が強い。「室町」という名称は、1378年(天授4・永和4)足利義満(よしみつ)が京都北小路室町(京都市上京(かみぎょう)区)に新邸、いわゆる「花の御所」を造営し、以後そこが室町殿とよばれて幕府の拠点となったことによる。なお、この時代を将軍家の家名によって足利時代とよぶこともある。南北朝時代、戦国時代についてはその項目に譲り、以下は主として狭義の室町時代について述べる。
[永原慶二]
南北朝合体は実質的には南朝の消滅であり、これによって中央・地方における武士の分裂抗争も名分的よりどころを失い、室町幕府の安定が進展した。地方では守護(しゅご)による国人(こくじん)の被官化が進み、将軍を頂点とする封建的主従制が貫徹していったことによって、統合が強まったのである。将軍義満は1394年(応永1)将軍職を9歳の子の義持(よしもち)に譲って太政(だいじょう)大臣となり、翌95年太政大臣も辞して出家した。これは、武家の頂点にたつとともに、太政大臣として公家(くげ)の最高の地位を占め、さらに法皇に準ずる国政全般の頂点的立場にたとうとする意図に出たものであった。したがって、義満は出家してもなお政権を掌握し続け、99年には、非一族守護のなかで大きな力をもつ大内義弘(おおうちよしひろ)を挑発して討つとともに、比叡山(ひえいざん)が京都市中の酒屋土倉(さかやどそう)に対して保持していた倉役賦課権を没収するなどして、寺社勢力にも威圧を加え、武家、公家、寺社諸支配層に君臨する権力を集中した。ついで、1401年義満は初めて明(みん)に入貢遣使し、以後対外的には「日本国王」を称したが、その前提はこのような国内統合の成功にあった。その後北山第(きたやまだい)を造営し、そこを院の仙洞(せんとう)に擬して政務をとったが、08年に死去した。国家史的には義満によって初めて事実上の武家王権が成立したのである。
義満にかわって政権を行使するようになった義持は父と不和だったため、北山第から三条坊門の新邸に移り、1411年には明使の入京を拒否して国交を絶った。また16~17年に前関東管領(かんれい)上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)が叛乱(はんらん)を起こすと、鎌倉公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)を助けてこれを鎮圧、幕府の安定に努めた。23年、将軍職を子の義量(よしかず)に譲ったが、義量は2年で病死、義持も28年(正長1)に死んだ。
義持は後嗣(こうし)を定めず死んだため、斯波(しば)、細川(ほそかわ)、畠山(はたけやま)らの有力守護大名、および義満・義持の信任厚く、政務に深くかかわっていた醍醐(だいご)寺座主(ざす)三宝院(さんぽういん)門跡の満済らが後嗣について協議したが決められず、結局籤(くじ)によって義持の弟青蓮院義円(しょうれんいんぎえん)を選び、還俗(げんぞく)させて義教(よしのり)とし、これを擁立した。その就任早々、伊勢(いせ)国司北畠満雅(きたばたけみつまさ)が南朝後亀山(ごかめやま)法皇の子を擁して叛乱、それに続いて、代替り徳政を要求する大規模な正長(しょうちょう)の土一揆(つちいっき)が近江(おうみ)、山城(やましろ)、大和(やまと)からその周辺の国々にまでわたって広く蜂起(ほうき)し、翌29年(永享1)には播磨(はりま)の土一揆が守護方軍兵と戦うという危機的事態を迎えた。さらに鎌倉公方(くぼう)持氏の反幕行動も表面化した。義教は幕政面では管領をはじめとする有力守護大名の力を抑えるため、奉行人(ぶぎょうにん)制度を強化し、また守護大名家の庶子や国人を将軍直属の奉公衆(ほうこうしゅう)に編成して軍事力をも強化、将軍権力の専制性を高めた。また北関東や奥羽地方南部の諸将を京都扶持衆(ふちしゅう)として援護し、さらに陸奥篠川(むつささがわ)に配置された足利満直(みつただ)と結んで持氏への対抗力を強めた。
本来幕府のもっとも重要な出先機関として東国支配の任を負っていた鎌倉公方は、守護の任免権などを除いて、大幅な権能を与えられていたが、そのためかえって早くから反幕的行動をとった。持氏の父満兼(みつかね)は応永(おうえい)の乱(1399)に際し大内義弘と呼応して反逆を企てた。このような鎌倉と京都の対立は、1438年持氏がその軍事行動を諫止(かんし)した関東管領上杉憲実(のりざね)を討とうとしたため、憲実が上野(こうずけ)に逃れ幕府に援助を求めることによって破局を迎えた。永享(えいきょう)の乱である。義教は駿河(するが)、信濃(しなの)、越後(えちご)の軍を動かし持氏を追い込め、翌年これを鎌倉で自殺させた。また1440年には、結城氏朝(ゆうきうじとも)ら持氏派の諸将が下総(しもうさ)結城の城に持氏の遺子安王・春王・永寿王を擁して大規模な反幕行動を起こしたが、これも上杉憲実および幕府が動員した大軍によって鎮圧された。
ところが1441年(嘉吉1)播磨・備前(びぜん)・美作(みまさか)の守護赤松満祐(みつすけ)は、結城合戦勝利の祝宴と称して将軍義教を自邸に招き、その場でこれを暗殺した。満祐は、かねて義持・義教に圧迫を加えられていたうえ、義教が一色義貫(いっしきよしつら)らを追討したことから、いずれ自分も誅伐(ちゅうばつ)されると恐れて先回りしたらしい。満祐は領国播磨に下って抗戦したが、幕府は山名持豊(やまなもちとよ)らを送ってこれを倒した(嘉吉(かきつ)の乱)。
しかしこれを契機として、室町幕府権力の弱体化が進行する。義教が殺されると、その直後に、義教に不興を被って河内(かわち)に下っていた畠山持国(もちくに)が兵を率いて入京し、管領細川持之(もちゆき)にとってかわろうとした。細川が一族で讃岐(さぬき)、阿波(あわ)、土佐(とさ)、淡路、備中(びっちゅう)、丹波(たんば)などの守護職(しき)を保持、強大な守護領国制を展開していたのに対し、畠山は能登(のと)、越中(えっちゅう)、河内、紀伊(きい)の守護職を保持したもののやや劣勢で、かねてから幕政の主導権を取り戻そうとしていたのである(翌年持之にかわり管領となる)。持国は将軍代替りによる徳政一揆の蜂起を巧みにとらえ、一揆の圧力を利用しつつ、自己の立場を有利にした。このとき幕府は初め山城一国に適用する徳政令を発布したが、翌月には「天下一同」徳政令を出さなくてはならなかった(嘉吉の徳政令)。
義教の横死によって8歳の子義勝(よしかつ)が擁立されたが、2年後病死したため、その弟義成(よししげ)(のち義政(よしまさ)と改める)が継いだ。義政も年少のため義教の室日野重子(ひのしげこ)が後見として強い発言力をもち、守護勢力を抑えようとした。この間、足利持氏の遺子永寿王を公方として鎌倉に戻し、元服して成氏(しげうじ)と名のらせたが、成氏もまた反幕府に走り、下総古河(こが)に拠(よ)って古河公方とよばれた。そのため義政は、出家していた弟を還俗させて政知(まさとも)とし、これを東下させたものの、伊豆韮山(にらやま)の堀越(ほりこし)にとどまり鎌倉に入れず、堀越公方とよばれた。またこのころは、徳政を要求する土一揆がほとんど毎年のように蜂起した。これに対し、幕府は分一銭(ぶいちせん)と称して、債務者が債務額の10分の1もしくは5分の1を納めれば徳政を認めるとしたり、逆に債権者が分一銭を納めれば徳政をやめる徳政禁制令を発し、財政不足を補填(ほてん)した。義政は浪費家で「一代九度の晴の儀」と評されたように、儀式、観劇(猿楽(さるがく))、観桜、寺社めぐりなど豪華な遊楽にふけり、1461年(寛正2)の未曽有(みぞう)の大飢饉(ききん)・大量餓死のなかでもいっこうに省みようとせず、たまりかねた後花園(ごはなぞの)天皇がこれを詩に託していさめるということさえあった。
義満以来、守護大名の統制手段として、大名家の惣領(そうりょう)決定に将軍が介入することが行われだし、とくに義教・義政の介入はたびたびで、それが大名家の内訌(ないこう)を招いた。畠山持国の後継をめぐる養子政長(まさなが)と実子義就(よしなり)の争いも、義政の介入によってかえって激化した。また、細川勝元(かつもと)が山名持豊(もちとよ)を牽制(けんせい)するために赤松政則(まさのり)に赤松家を再興させようと考え、義政がそれを支持したため、細川対山名の対立も激化した。これに将軍家の継嗣として義政が弟義視(よしみ)を選んだあと、夫人日野富子(とみこ)が義尚(よしひさ)を生んだことから、曲折はあったものの、結局、義政・義尚・細川勝元・畠山政長、対、義視・山名持豊・畠山義就という形で東西両軍に分かれ、さらに斯波家なども分裂し、多数の守護大名・国人がこれに加わる応仁・文明の乱となった。
1467年(応仁1)から77年(文明9)に至る応仁の乱は、京都を焼け野原に化すとともに、地方では守護代・国人が残存する荘園(しょうえん)を最後的に侵食し、また下剋上(げこくじょう)によって守護を倒し、戦国大名への道を歩みだした。大乱終結後数年を経ず、義政は東山(ひがしやま)山荘の造営を開始し、ここに移った。日野富子は夫との不和から別に住んで京都七口(ななくち)関からの関銭徴収を強化し、米投機、金銭貸付などに力を入れた。この間、なお戦いを続ける畠山義就・政長に対し、義政・富子が適切な対応を欠いたことから、1485年には山城国一揆が蜂起して両軍を撤退させ、以後南山城地方に10年余にわたる国一揆の自治が実現した。この事件は応仁・文明の乱によって失墜した幕府の権威をいっそう傷つけたもので、この直後から、加賀の一向(いっこう)一揆蜂起による守護富樫政親(とがしまさちか)の自殺、東方における伊勢長氏(いせながうじ)(北条早雲(ほうじょうそううん))の伊豆韮山(にらやま)奪取などの戦国期入りを象徴する事件が続く。義政の子義尚は1487年(長享1)将軍権威の回復を目ざして近江守護六角高頼(ろっかくたかより)追討の軍を起こしたが、若くして暴飲不節制だったため陣中に死に、ともかくも将軍が幕府の中心にたつ時代はここに終わった。将軍はこれ以後なお1世紀近くも存続するが、細川政元(まさもと)以下それぞれの時期の中央有力者に擁立され、ときには翻弄(ほんろう)され、あるいは殺されることもありながら、形ばかり命脈を保ったのである。
[永原慶二]
室町時代は経済的には発展の顕著な時期である。農業では、用排水技術・肥培技術の進歩と品種の改良・多様化などによって耕地の安定と集約的利用が進んだ。土地生産力の上昇の半面、荘園領主権の弱化から、農民層の手元に残される剰余部分を加地子(かじし)として売買することが行われ、加地子収取権を集積する加地子名主(みょうしゅ)層が成長した。加地子名主層は「百姓」身分に属する有力農民で、惣(そう)とよぶ村落共同体結合の指導層となり、さらに惣村の地域連合を発展させ、自治的権利を強めるとともに、しばしば荘園領主に対する年貢・夫役(ぶやく)の減免を求める闘争や、幕府に対し徳政令を求める土一揆の先頭にたった。
そうした生産力の向上と農民闘争によって、農民の手によって販売される農産物や農産加工品の量が増し、とくに苧麻(ちょま)、荏胡麻(えごま)などをはじめとする農産物・農産加工品の商品化が進んだ。またそれに伴い定期市(いち)が各地に発生し、その主要なものは町場化した。敦賀(つるが)、小浜(おばま)、大津、坂本、淀(よど)、尼崎(あまがさき)、兵庫、堺(さかい)など京都・奈良の外港的性格をもつ港津、また博多、尾道(おのみち)、安濃津(あのつ)、大湊(おおみなと)、品川、三国湊(みくにみなと)、蒲原津(かんばらのつ)なども、列島沿岸航路の発展によって都市的繁栄を遂げた。農村内部における社会分業は、鍛冶(かじ)、紺染め、番匠(ばんしょう)などを主とするにとどまるが、製塩、窯業、製紙、製材など地域の条件に即した特産物生産は各地で進んだ。
中央都市京都は、伝統的な首都という性格に加え、幕府の開設、守護在京制、五山禅院の相次ぐ創建等の事情から人口増加が著しく、全国各地から送り込まれてくる物産のほか、織物、工芸品、焼物、刀剣武具などをはじめとする高級商品の生産が盛んで、多くの職人を分化発展させた。また洛中(らくちゅう)洛外の酒屋(醸造業者)は少なくとも300を超え、多くは土倉という保管業・金融業を兼営した。土倉は第三者からも合銭(ごうせん)とよぶ投資資金を多額に預ったが、庶民よりもむしろ年貢米・荘園支配権を担保としてとれる公家・武家に貸し付けた。室町時代の経済面における特徴の一つは、貨幣流通が急激に発展し、地方の年貢物も和市(わし)とよぶ取引相場によって現地で換算され、銭で納められるようになったこと、中央支配層の経済が貨幣経済化することによって金融関係、為替(かわせ)取引など信用経済が発展したことがあげられる。ただ見逃せない事実として、それら都市的・経済的諸機能の発展および伝統的な穢(けが)れ観念とかかわって、都市の清掃や道つくり、屍牛馬(しぎゅうば)処理などの労働に従事する人々や下級の各種芸能を業とした人々が卑賤(ひせん)視されたことがある。散所(さんじょ)、河原者(かわらもの)、唱門師(しょうもんし)などはその主要なものである。
この間、室町時代を通じて、荘園制の解体がますます進んだ。南北朝時代以来、本所(ほんじょ)領とよばれる武家側地頭(じとう)設置の荘園では半済(はんぜい)が行われ分割が進んだ。それを免れた寺社本所一円地でも請負代官制の一般化によって、荘園領主が直接支配力を現地に及ぼすことは不可能になり、一定の年貢を受け取るだけのケースが多くなった。公領は多く守護領に転化した。しかも応仁・文明の乱によって、残存していた荘園の大半も地方領主の手によって侵食され、中央領主の権利は不知行(ちぎょう)状態に陥った。これにかわって守護領国制と国人の領域支配が進行し、土地の領有形態は荘園制的「職(しき)」の領有から一円的な領域支配へと転換していった。
[永原慶二]
この時代の外交・国際関係は、1368年に朱元璋(しゅげんしょう)が明(みん)を建国し太祖洪武帝(こうぶてい)となることによって新しい局面に入った。すなわち、明帝は周辺諸国家に対し招撫(しょうぶ)入貢を促すための使者を送ったが、その一環として日本にも69年(正平24・応安2)明使がきて、当時九州に勢力をもっていた南朝側の懐良(かねよし)親王に倭寇(わこう)鎮圧と入貢を求めた。このころ朝鮮半島から中国沿岸にかけての倭寇が活発だったため、明も高麗(こうらい)もその抑止を強く求めていたのである。72年(文中1・応安5)明使がふたたび博多に来着、今度は幕府に国書を呈した。義満は使者を送ったが臣礼をとらなかったため拒否された。その後今川了俊(いまがわりょうしゅん)は倭寇が捕らえてきた民衆を高麗に返送するなど、独自の動きをとったため、義満は懐良・了俊の外交行動を抑え、外交権の独占を急がなくてはならなかった。また明が皇帝に臣従し冊封(さくほう)を奉じた場合のみこれを受け付け、商人レベルの交易に対しては海禁政策をとっていることを知ったため、義満は国内統合が一段落した1401年(応永8)明帝に対し臣礼をとって使者を送った。04年には明側からも永楽帝の勘合と「日本国王之印」が届けられ、以後いわゆる勘合貿易が行われるようになった。貿易品としては日本からは硫黄(いおう)、刀剣、扇などを出し、明からは銭貨、生糸、薬種などを入れた。また朝鮮半島でも、倭寇鎮圧にも力を発揮した李成桂(りせいけい)が1392年に高麗を倒して李朝を開いたのに応じ、義満は使者を送って国交を開いたが、朝鮮は明とは違って、互いの間に上下関係はなかった。1419年、朝鮮は対馬(つしま)を倭寇の根拠地とみて襲撃することがあったが、まもなく誤解に基づくことを認識し、以後、対馬の宗(そう)氏や大内、小早川(こばやかわ)など西国の守護・国人とも個別に通交関係をもった。
このころ琉球(りゅうきゅう)ではしだいに統合が進み、中山(ちゅうざん)・南山(なんざん)・北山(ほくざん)の三勢力が形成されていたが、1429年(永享1)中山の尚巴志(しょうはし)が北山、南山を倒して全島の統一に成功し、「日域を以(もっ)て唇歯(しんし)、大明を以て輔車(ほしゃ)」という両属関係を保った。同時にその商人は広く南海方面にまで進出し、日明間の中継貿易に活躍した。日本では対明勘合貿易は義持の代で一時中止、義教の代に復活したが、遣使の回数は概して少なかった。そのうえ16世紀後半にはその主導権が大内、細川などの大名の手に移っていったのに対し、琉球の場合は遣使回数もはるかに多かった。
[永原慶二]
宗教の面では、伝統的に公家と結び付いてきた南都北嶺(なんとほくれい)勢力を抑えるという意味もあって、南禅(なんぜん)・天竜・建仁(けんにん)・東福(とうふく)・万寿(まんじゅ)寺の京都五山(相国(しょうこく)寺の創建により南禅寺は五山の上とされた)に幕府の特別な保護が加えられ、多くの所領が寄進された。五山禅僧は詩文・漢籍に通じ(五山文学)、幕府と結び付いて政治・外交にも関与する一方、幕府も僧録制度を設けて、禅院・禅僧の管轄を強化した。春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が初めて僧録に任じ、以後代々相国寺の鹿苑院(ろくおんいん)住持がこれを兼ねる習わしとなった。
五山禅院が力をもつようになると、真言(しんごん)、天台宗などの地方寺院も禅宗に改宗するものが続き、禅宗は地方に大きく発展した。他方、民衆の間では時宗が広い支持を集めたが、室町中期に蓮如(れんにょ)が出て、近江、越前(えちぜん)などで布教したことから、応仁以降になると、浄土真宗(一向宗)が北陸・東海地方などを中心に民衆の間に広まり、その門徒はしばしば一向一揆を起こすようになった。
文化の面では、建築、庭園、水墨画などに禅風が強い影響をもたらした。これは北山・東山文化の諸面にうかがうことができる。龍安寺(りょうあんじ)の庭園に代表される枯山水は、簡素で象徴性に富み、その代表的なものの一つである。しかし、室町時代の文化のもう一つの重要な特徴は、鎌倉時代までと違って文化が宗教を離れ、生活文化的傾向を強めてきたことである。この時代に大流行した田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)の能は、もともと神事として演ぜられたものであるが、とくに猿楽は、観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)以降しだいに独立的な演劇として発達した。また猿楽の能の合間に演ぜられる狂言は機知と風刺に富んだ娯楽劇となった。卑賤(ひせん)の芸能といわれる各種の下級芸能も、発生的には宗教と無縁でないが、みな娯楽性を強めるようになった。また書院造の建築様式の発達と不可分の立花(りっか)、茶はいっそう端的な生活文化というべきものである。さらにこの時代には和風料理の基本型が確立し、衣服の面では従来は下着にほかならなかった小袖(こそで)が表着(おもてぎ)となり、女性の服装は総じて軽快で生活しやすい型を追求するようになった。
これと並んで室町文化のもう一つの特徴というべきものは、文化の創造・享受の仕方の集団性ということである。南北朝時代以来盛んだった連歌(れんが)は多数の人々が寄合(よりあい)の席で自由に参加できるもので、二条河原落書(にじょうがわらのらくしょ)に「在々所々ノ歌連歌点者ニナラヌ人ソナキ」といわれるように自由で大衆的な方式で楽しまれた。勧進(かんじん)能の形をとった猿楽の上演も、賀茂川原に桟敷(さじき)を設け貴賤の別なく観覧できるという開放性をもっていた。さらに茶会にしても、しばしば闘茶という形で人々が茶の品種の当て比べをするといった集団遊戯性をもっていた。猿楽能、連歌、茶などはいずれも発展過程で芸術として洗練され高められてゆくが、その発生過程では集団性・大衆性を特徴としている。それらはこの時代の村落共同体・都市共同体である惣(そう)の寄合などを社会的基盤として形成されたものといえるであろう。
[永原慶二]
『京都市編『京都の歴史2・3』(1968、71・学芸書林)』▽『小川信著『足利一門守護発展史の研究』(1980・吉川弘文館)』▽『佐藤進一著『足利義満』(1980・平凡社)』▽『永原慶二著『中世内乱期の社会と民衆』(1977・吉川弘文館)』▽『永原慶二著『日本中世の社会と国家』(1982・日本放送出版協会)』▽『今谷明著『室町幕府解体過程の研究』(1985・岩波書店)』▽『今谷明著『守護領国支配機構の研究』(1986・法政大学出版局)』
広義には,1333年(元弘3)鎌倉幕府滅亡のあとをうけて,同年の建武政府の成立から,1573年(天正1)南山城の槙嶋城における室町幕府の崩壊までをいうことが多い。しかしこの見解も,終期に関しては異説もあり,1568年(永禄11)の織田信長上洛までとする意見,1576年の安土築城までとする見方などがある。いずれも次の安土桃山時代ないしは織田・豊臣時代(略して織豊期ともいう)へと続く政治史上の時代区分であるとの認識では一致している。中世後期という場合は,この広義の室町時代を指すのが普通である。織田政権を全国統一を目ざした近世的権力とする見方に立てば,終期は1568年に置くのが妥当であろう。
次に狭義には,1392年(元中9・明徳3)の南北朝合一以降,1493年(明応2)の明応の政変までを室町時代とし,以前を南北朝時代,以後を戦国時代として,広義の室町時代を3分割する見解がある。しかし室町幕府が1336年(延元1・建武3)にはじまるというのは今日学界の通説であり,途中幾度かの紛擾があったとはいえ,ほぼ全国的政権として存在したことは否定すべくもないから,建武政府をも含めて1333年より1493年までを室町時代として,南北朝の対立を相対的に低く見る理解も有力である。この場合は中世後期を室町・戦国の両時代に分けることになる。なお,終期の1493年を応仁・文明の乱が勃発する1467年(応仁1),あるいは同乱の収束する1477年(文明9)に繰り上げる見方もある。
なお,広義の室町時代を使う場合,南北朝期を室町初期,戦国期を室町後期と呼びかえることもある。以上のように,この時代区分としての用語は,広狭さまざまの長さに受け取られ,誤解を生じやすいこともあって,今日学界では中世後期の語で代用することが多くなっている。
政治・経済史を含めた時代区分である〈中世〉の後半に当たり,同時に中世から近世への永い過渡期にも相当する。以前はこの時代を前期封建制の後半期とし,後期封建制(純粋封建制)への準備期ととらえていたが,その後,朝廷,公家,寺社などの王朝本所権力の残存,再編に着目して,公家,武家が相互補完的に人民を支配する権門体制の後半期,幕藩体制成立への過渡期に当たるという説が有力になってきた。ただ15世紀前半に足利義満が公武両権力の頂点に立つに及んで,王朝に対する幕府の権限は圧倒的に優位となり,権門体制説が唱える,天皇が国王の地位にあるとする論点がこの時代になお妥当するか否かは議論が分かれるところである。いずれにせよ,権門体制が応仁の乱で終局的に解体するというのは諸説一致している。
このように,平安後期以来の権門体制がこの時期まで存続するか否かは問題があるが,南北朝後期以来,守護大名の領国把握の進展,幕府の守護による連合政権的性格に着目して,この時期特有の政治体制として〈守護領国制〉なる概念が提唱された。事実,南北朝期は守護職が頻繁に更迭され,内乱を反映して守護の分国掌握は進行しなかったが,15世紀に入ると,おおむね守護職は各大名家で世襲され,在地の有力土豪(国人(こくじん))も家臣団(被官(ひかん))に編成され,守護代,郡代(ぐんだい)による強力な統制下に,地方分権化が展開するようになる。しかし西国や畿内ではなお荘園制が根強く残存し,守護の統治も荘園制の枠内においてしか実現されないとする立場からは,封建制を推進する担い手は守護でなく国人であるとして,〈国人領主制〉という概念が新たに呈示され,かなり有力な説となっている。1368年(正平23・応安1)執事細川頼之が公布した半済(はんぜい)令は,有力寺社公家など,一部荘園領主を温存するとともに,中小荘園領主を切り捨て,守護の直轄領としたので,畿内近国では荘園制が一部再編強化される一方,遠隔地,辺境では守護の大名領国化が進展し,応仁の乱後は守護,守護代層が自立して戦国大名が出現した。畿内では,畠山氏が家督紛争で衰えたのちは,山名氏,細川氏が覇を競い,応仁の乱で山名氏も山陰に逼塞すると,ひとり細川氏が四国,畿内を支配し,1493年将軍廃立を強行して幕府をも実質的に傀儡(かいらい)化した。しかしこの地域は荘園領主および農民の力が強く,強力な領国制を展開できないまま三好氏,松永氏らの台頭を招き,織田信長の入京を前に,戦国大名と呼びうる権力は現れなかった。
→室町幕府
この時代は〈下剋上〉と呼ばれるように庶民の成長と台頭が著しく,支配層の脅威とさえなった日本史上最も躍動的な時期といえる。平安末より始まった二毛作は全国に普及し,運河網の発達,揚水車の発明普及,番水の整備などによる水利灌漑の進展があって,15世紀前半には畿内で三毛作が出現し,朝鮮通信使を驚嘆させるに至った。なお牛馬耕,人糞尿使用,鳥獣駆除などの技術も見逃せない。このような農業技術の改良による生産力の発達は,加地子(かじし)と呼ばれる剰余を農民層に蓄積させ,古い荘園制を支える名(みよう)は解体して,各地に惣(そう)と称される農民の自治的村落共同体が簇生(そうせい)した。中世の農民には武器保有の自由があり,14世紀後半にかけて守護の課役や荘園領主の年貢増徴に抵抗して農民は村落単位に〈荘家の一揆〉を結成し,15世紀に入ると,土倉(どそう)・酒屋など高利貸資本からの加地子得分奪還を目ざして〈徳政一揆〉が戦われ,畿内の農民は京洛の大社寺に閉籠(へいろう)して気勢をあげ,幕府や大名を震撼させた。農民から武士,商人へと転化する者も多く,階層間はきわめて流動的で,殺伐の風潮とともに自由がみなぎった時代でもあった。これら土一揆(つちいつき)の母胎となった惣が横に連合して郡中惣(ぐんちゆうそう),国一揆を結成し,ついには播磨,山城,伊賀のように国内から守護勢力を追放する運動にまで発展している。
在地における富の留保は手工業,商業を発達させた。1445年(文安2)の兵庫北関では船の入港数が1000艘を超え,瀬戸内沿岸各地には陶器,莚,染料,紙,鉄などの主産地が形成され,備後の塩,阿波の藍,備中檀紙,備後表,備前壺,千種鉄などは15世紀に名産として大量に畿内に流入している。前代から発達をとげた刀剣は,玉鋼(たまはがね)と呼ばれる日本独特の良質鋼鉄を素材とし,その鋭利性によって中国に大量に輸出される一方,明からは銭貨が流入して,貨幣経済はいっそう発達した。実に日本は当時世界屈指の武器輸出国であった。なおこの時代将軍足利義満が国内を統一しながら自国通貨によらず明銭を通貨としたのは,中国銭が北アフリカから東南アジア,東アジアと,回教・仏教圏に広く国際通貨として流通していたためである。一大消費都市である京都,奈良,堺を抱える畿内経済の円滑化をはかるために,近江坂本,京都下京には〈米場〉と呼ばれる米穀取引市場が成立し,なお魚介類については山城淀に魚市が,近江粟津と京都六角町には粟津供御人(あわづくごにん)(粟津橋本供御人)による生鮮魚介,塩,塩合物(しおあいもの)を中心とした日常雑貨の一大卸売市場が形成され,供御人はさながら総合商社の販売人のごとく全国を自由通行して売りさばいた。また石清水八幡の荘園から運上された荏胡麻(えごま)は山城大山崎油座で製油され,灯油として全国に独占販売され,各地の夜に光明をもたらし,文化の発展に寄与した。これらの商工業には座が結成され,山科家,興福寺,石清水社などの荘園領主が本所として権益を握っていたが,彼ら権門は決して古代的勢力の残存なのではなく,畿内の経済発展段階に適応した柔軟な中世的権力であり,流通を促進した積極的保護者と評価すべきである。
都市は京都が武家,公家,寺社の集住する権門都市として栄え,人口数十万に達したと推定されるが,反面朝鮮使節の観察しているように乞食などの下層民も多く,1461年(寛正2)の大飢饉には,洛中のみで餓死8万人を数えたという。奈良は大和一国を支配する興福寺の門前町として京都に次ぎ,堺,兵庫,博多は貿易都市として繁栄した。地方には守護の分国支配の拠点となった守護所が国ごとにあって都市が成立,さらに郡には郡代が城郭を構築し,戦国期に至って城下町に転化したものが多い。備後尾道,讃岐宇多津などは守護所と同時に港湾機能を兼ね備えた港町で,殷賑(いんしん)を極めた。東国では鎌倉が武家の町として最大であったが,15世紀半ば,鎌倉公方(くぼう)が下総古河(こが)に逃亡して以降荒廃し,新たに相模小田原,武蔵の江戸,河越などが城下町として簇生する。15世紀後半,蓮如の布教活動によって一向一揆が強大化すると,山城の山科,越前の吉崎,摂津の石山,近江の堅田などの寺内町が北陸,畿内に形成され,環濠と土塁によって民衆の居住域を囲繞(いによう)するという,わが国に特異な城壁都市が初めて登場した。河内高屋城や小田原はこの寺内町の様式を導入した戦国大名の都市であった。京都,堺などでは戦国期に町組などの都市自治体が結成され,町衆(まちしゆう)による町政運営が行われた。
以上のような都市の発展を支え,可能にしたのは建築・木工業の技術改良である。棟梁-番匠という職人組織(大工座)が大社寺を中心に形成され,14世紀末には大鋸(おが)と呼ばれる巨大な2人挽きの縦引鋸が発明され,大規模な製材が初めて可能になった。近江葛川など山村を中心に板商売が興ったのも,大鋸の貢献が大きい。素材は先述の玉鋼で,背後に製鉄技術の優秀さがある。畿内を中心とする大量の木材需要を満たすため,阿波,土佐南岸の海部,甲浦,安田などの港からは連日数百石積の榑船(くれぶね)が兵庫に入港し,建築材以外の薪材は淡路および讃岐北岸の各地から小型船によって山城の木津,淀へ運ばれている。なお陸上交通は,関所の濫設がたしかに阻害要因となったが,各分国では守護が伝馬制を創始し,やがて戦国大名の駅制へと発展した。
金融については,延暦寺や五山の禅院,熊野社などの有力寺社が日吉上分米(ひえじようぶんまい),祠堂銭,熊野講銭などと称する門信徒の零細資金をかき集め,合銭(あいぜに)と呼んで土倉・酒屋などの高利貸資本に出資するというメカニズムが成立していた。貨幣経済に巻き込まれた在地領主,農民は留保していた加地子(かじし)をはき出すはめになり,徳政一揆が頻発したのである。このように,巨大な寺社勢力や一部公家が流通過程を掌握し,武家すらもその機構に頼らざるをえないという状況が,この時代の大きな特徴であった。武士の荘園侵略に目を奪われて,一方的にこの時期の趨勢を見誤ってはならない。
身分制の面では,下人,所従は相対的に希薄化したが,辺境ではなお労働力不足で,人身売買は依然として一部に行われ,謡曲《隅田川》や《閑吟集》などにみられる人買伝承にそれは反映している。女性史については,この時期はいわゆる嫁取婚の時代に入り,女性を支配する家父長の権限が強化されつつあった。販売業や家内労働など,女性の社会的進出が活発化していたにもかかわらず,宮座などの村落結合の場から女性は締め出され,やがては女性を道具視する政略婚の盛行をみ,女性史は冬の時代に突入する。庶民の台頭と同時に女性蔑視が進行するという,古典ギリシア世界の現象が再現していることに注意すべきである(高群逸枝《女性の歴史》)。散所,河原者の皮革業,造園業への貢献も著しく,将軍義政は彼らを保護さえしているが,一般人の差別視も徐々に深化していった。
上層社会,すなわち公家,武家,寺社などの権門と民衆に分けて叙述する。1398年(応永5)義満が営んだ北山第(金閣)に象徴される初期の権門の文化を北山文化,応仁の乱後義政が造営した東山山荘にちなむ後期の芸術を東山文化と呼ぶ。いずれも王朝に系譜を引く公家文化を上層武家社会が融合,吸収して成立したもので,前者は学芸としての五山文学(詩文),堂上連歌,茶寄合,能楽,日明貿易を介しての唐物趣味などに代表される。美術面では折衷様仏堂建築,禅院の方丈建築と庭園,水墨画が高度な発達をとげた。軍記《太平記》は武家の一大叙事詩であるとともに,権門一般や庶民の側からの社会批判をも投影している。北山文化の主たる舞台は五山の禅院であり,その担い手は天章周文に代表されるような東班衆(とうばんしゆう)の禅僧であった。一方東山文化の方は,前者を基調としながらも,将軍義政の近習である奉公衆(ほうこうしゆう)や同朋衆(どうぼうしゆう)が参加し,山水(せんずい)河原者や猿楽者のような下層民をも差別なく登用した義政の同仁思想から,庶民性が濃厚に反映することになった。東山文化の造形としては書院造,茶室建築,床飾が発生し,狩野派に代表される装飾画,能面,茶釜,茶碗などの工芸も,幽玄を基調とする独特の美意識に裏打ちされて発達した。そうしたことから,近世以降の和様生活様式が,東山時代に淵源をもつという見方が有力である。
さて民衆の側では,仮名文字がようやく庶民層に普及し,領主に対する経済的要求の手段である嗷訴(ごうそ)の申状を農民自身が執筆するようになり,文字は貴族の独占物ではなくなった。喫茶の民間普及はこの時代に著しく,村落の宮座では茶寄合や地下(じげ)の連歌会が行われ,都市では寺社の門前などに一服一銭(いつぷくいつせん)の茶売人が住人や参詣人に湯茶をひさいだ。このような民衆文化の舞台となったのは,村落結合の場である宮座が行われた鎮守社の長床(ながとこ)であるが,惣村の神社建築は惣結合の象徴として,この時期意匠的に最も発達した。すなわち拝殿や幣殿が本殿に連接する建法が生じ,比翼春日造や比翼入母屋造など連棟建築が登場し,屋根の意匠は唐破風(からはふ),千鳥破風が合成されて,仏堂建築の保守化に比し,きわめて自由闊達な展開をとげ,近世の城郭建築にも大きな影響を与えたのである。この時期の彫刻界が不振であったのに比して,神社建築の細部意匠には,蟇股(かえるまた),手挟(たばさみ),脇障子,持送(もちおくり)などに庶民性の豊かな造形が施されている。
芸能関係では,大和,丹波,近江など畿内近国の農村において,南北朝内乱期に猿楽(さるがく),田楽,延年風流(ふりゆう)などの民間芸能を母胎として能と狂言が生み出された。能は主題を古典世界から取り,舞踊と歌謡を織り込んだ演劇として発展,上層社会に迎えられ,やがて世界に誇る洗練された象徴劇に到達する。それに対し狂言は現実世界をテーマとして民衆の側からする権門への批判,滑稽,諧謔を含み,風刺劇として成立したまさに民衆文化の遺産であるといえよう。《田植草紙》や御伽草子,《閑吟集》,小歌なども,民衆の間に普及した文芸として見落とせない。都市においては奈良,京都を中心に,権門による禁圧にもかかわらず熱狂的な風流踊(ふりゆうおどり)がしばしば催され,仮装などに町衆の趣向がこらされ,初めは弾圧に回った公武の支配者たちが,後には見物に殺到する事態さえ現出した。京都祇園会の山鉾も,応仁の乱で中絶したのを町衆の富力によって再興し,祇園社の神事としての性格が,まったく町衆自身の祭礼へと一変した。祭礼費用いっさいは土倉・酒屋の出銭や町衆負担の地口銭により充当され,舞踊や音曲の伝授には一部の公卿も協力し,文字どおり町をあげての芸能となったのである。
応仁の乱によって,一時的に京都が戦火に被災するや,公家,僧侶は争って地方の守護,国人の居館へと流寓し,大名たちも京下りの文化人を優遇したから,戦国期には京都の公家文化が大いに地方に伝播した。有名な雪舟の水墨画は,周防の大内氏や石見の益田氏らの庇護に支えられて大成されたのである。このように,室町期は文化面でも下剋上の風潮が横溢し,貴族文化をも摂取・融合して洗練された高度の遺産を後代に伝えた時代であるといえよう。
→中世社会
執筆者:今谷 明
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足利時代とも。時代区分の一つ。南北朝合一がなった1392年(明徳3・元中9)から,室町幕府が織田信長によって滅ぼされた1573年(天正元)までの2世紀弱をさすことが多い。1467年(応仁元)の応仁・文明の乱以降,幕府が衰微して各地に戦国大名が割拠した時期を,戦国時代として区別することもよく行われる。また鎌倉幕府が滅亡した1333年(元弘3)ないし建武政権が崩壊した36年(建武3・延元元)に始期をおき,南北朝期を含めることもある。足利氏が京都室町に幕府をおいた時期にあたるのでこの名がある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…南北朝・室町時代の社会構成上の概念。鎌倉幕府の中央集権的体制が崩れ,室町幕府の守護によってその領国に地域的封建制が形成されたとする形態を称する。…
※「室町時代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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