小倉(読み)オグラ

デジタル大辞泉 「小倉」の意味・読み・例文・類語

おぐら【小倉】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「小倉」姓の人物
小倉金之助おぐらきんのすけ
小倉進平おぐらしんぺい
小倉正恒おぐらまさつね
小倉遊亀おぐらゆき

こくら【小倉】

北九州市小倉北区小倉南区の総称。もと小笠原氏の城下町。明治33年(1900)市制、昭和38年(1963)北九州市の設置により区制、昭和49年(1974)2区に分かれる。
小倉おり」の略。

おぐら〔をぐら〕【小倉】

小倉あん」の略。
小倉汁粉」の略。

おぐら【小倉】[地名]

京都市右京区の小倉山付近一帯の古称。

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精選版 日本国語大辞典 「小倉」の意味・読み・例文・類語

こくら【小倉】

  1. [ 1 ]
    1. [ 一 ] 福岡県北九州市の地名。響灘に面する。小笠原氏一五万石の旧城下町。古来、水陸交通の要所にあたり、明治中期以後は軍都として栄え、九州北部の商業中心地ともなる。明治三三年(一九〇〇)市制。昭和三八年(一九六三)北九州市小倉区となり、同四九年に小倉北区・小倉南区に分区。
    2. [ 二 ] 明治四年(一八七一)の廃藩置県により、豊前国に成立した県。同九年(一八七六)北部が福岡県に、南部が大分県に編入された。
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙
    1. こくらおり(小倉織)」の略。
      1. [初出の実例]「小倉(コクラ)の男帯に細目布のはしつぎ左の脇腹にむすびとめ」(出典:浮世草子・男色大鑑(1687)六)
    2. こくらまつり(小倉祭)」の略。〔俳諧・毛吹草(1638)〕

おぐらをぐら【小倉】

  1. [ 1 ]
    1. [ 一 ] 京都市右京区の地名。古くは嵐山の北方、小倉山付近一帯をいった。
    2. [ 二 ]おぐらやま(小倉山)」の略。
    3. [ 三 ] 京都府宇治市の地名。かつての巨椋(おぐら)池東南岸にあたり、大和街道が通じる。
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙
    1. おぐらあん(小倉餡)」の略。
    2. おぐらかん(小倉羹)」の略。
    3. おぐらじるこ(小倉汁粉)」の略。〔明治世相百話(1936)〕

おぐらをぐら【小倉・小椋】

  1. 姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「小倉」の解説

小倉
こくら

関門海峡の南岸、むらさき川の河口付近に位置する。小倉津とも記され、本州赤間関あかまがせき(現山口県下関市)と結ぶ九州の玄関口的な性格の故か、戦場ないしその拠点として登場することが多い。観応三年(一三五二)二月日の下総親胤軍忠状(門司文書/南北朝遺文(九州編)三)によると、前年末から同年初頭にかけて親胤は厚東氏らと関門海峡でたびたび干戈を交えたが、その戦場・軍勢の拠点として「小倉津」がみえる。貞治三年(一三六四)末頃には九州探題斯波氏経方と宮方が「香月・上津役并到津・高月・小倉」で合戦したという(同四年四月日「門司親尚軍忠状」同文書/南北朝遺文(九州編)四)。応安八年(一三七五)に「大工豊前小蔵 藤原顕宗」(同年二月一八日大宝寺鐘銘)、応永五年(一三九八)にも「大工小倉沙弥安宗」とみえ(同年閏四月五日鷲淵村薬師堂鐘銘)、正平二〇年(一三六五)四月銘の芝津しばつ神社(現小倉南区)の梵鐘、同二一年一二月銘の誓願せいがん(現滋賀県浅井町)の梵鐘、井出浦西光いでうらさいこう(現小倉南区)にあったとされる至徳二年(一三八五)八月銘の梵鐘は(以上「古鐘銘集成」)、いずれも血縁的関係にある小倉鋳物師の手によるとする説もあり、小倉には鋳物師集団が住していたと考えられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「小倉」の意味・わかりやすい解説

小倉 (こくら)

福岡県北部,北九州市中部の地区名。1900年市制。63年門司,戸畑,八幡,若松の4市と合体して北九州市を形成,小倉区となり,74年に小倉北区,小倉南区に分かれた。企救(きく),貫(ぬき),福智の断層山地が広がり,その間を北流する紫川の三角州に中心市街が位置する。山陽新幹線,JR鹿児島本線,日豊本線,国道3号,10号線,九州自動車道に続く北九州高速道路(北九州都市高速)など,九州の陸上交通の幹線のほとんどが集まり,関門海峡をはさんで本州と連絡する交通の要地である。明治中期から近代工業が興って北九州工業地帯の一部を形成するとともに,その商業中心地となり,第2次大戦までは軍都としても発展した。小倉北区(人口18万1936。2010)は新北九州市の政治・経済・文化の中心地で,《朝日新聞》《毎日新聞》《読売新聞》の各西部本社,放送局,九州歯科大学,市立図書館(現,市立中央図書館),市立歴史博物館(現,八幡東区の市立いのちのたび博物館)などがある。小倉南区(人口21万4793。2010)には北九州大学(現,北九州市立大学),北九州工業高等専門学校,カルスト地形の平尾台(天),菅生ノ滝,小倉競馬場,新北九州空港などがある。
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豊前国の城下町。九州の咽喉を扼(やく)する位置にあり,九州と上方,下関を結ぶ交通の要衝でもあった。戦国末期に高橋鑑種(あきたね)がここに端城小倉城を築き,その周辺に町場を作っていたが,小倉の本格的な城下町としての発展は関ヶ原の戦後に細川忠興が入部してからである。1602年(慶長7)忠興は紫川の西畔の小倉城の跡地に新しく城を築き,城下町の建設に当たった。町は紫川を挟み,西方板櫃(いたびつ)川との間の西曲輪(にしくるわ)および東の砂津川までの間の東曲輪とからなっていた。西曲輪の内城付近には直臣の武家屋敷がおかれ,とくに二の丸付近には大身の武士の屋敷が集められた。そして以前からあった諸(もろ)町(のち室町),俵町,片側町などが拡充され,また新しく田町,鍛冶町,西紺屋町,大門(だいもん)町などが作られた。24年(寛永1)の西曲輪には商家67軒,手間稼長屋居住者280人を数えた。東曲輪では紫川河口付近にあった漁村高浜を東方1kmの長浜に移し,その跡に碁盤目状の道路を配し,京町,米(こめ)町,大坂町,堺町,鳥町,船場町などの諸町を立てた。こうして東西2km,南北1.3kmの城下町域が確定し,約2500軒の家が立ち並んだ(1627年ころ)。32年細川氏の後をうけた小笠原氏は東曲輪の拡充・整備につとめ,周縁部には下級武士の屋敷および寺院を置いた。18世紀初頭の最盛期には両曲輪の町数78町,町家数2800軒,人口1万8000人に達した。町には長崎路の宿場として長崎奉行や九州の各大名の本陣もおかれ,武士,商人,そして文人,学者の往来が繁かった。町役人としては総年寄(1名),大年寄(東西両町各1名)が士分格を与えられ,町政を総括し,その下に小年寄(各町1名)および組頭がおかれた。藩側では町奉行が町政を担当した。正徳期(1711-16)より西曲輪を西町と中町に二分し,西・中・東の各町に2名宛ての年寄を任命し月番(月行司)制を採った(後,年行司制となる)。

 小倉の最大の名産は小倉織である。紺糸や白糸の縞模様が特徴で,袴地や帯地に愛好された。また絹糸を使った小倉縮もあり,その本縮は小笠原氏の献上品となった。このほか,大道(だいどう)の〈火うち金〉も名産品として名高い。1617年(元和3)西曲輪鋳物師(いもじ)町に勧請された祇園社(八坂神社)の祇園会は京都の祇園祭を模したもので,今日も盛大である。また65年(寛文5)中国僧即非(そくひ)禅師を開祖として創建された広寿山福聚寺は小倉黄檗(おうばく)美術の中心である。1732年(享保17)の大飢饉とちょうどそのころから始まった経済構造の変化によって小倉は衰微の方向に向かい,1845年(弘化2)には人口も1万余に減少した。66年(慶応2)の小倉戦争は小倉に壊滅的打撃を与えた。8月の長州軍の攻撃を受け藩は自ら小倉城を焼いて田川郡香春(かわら)に撤退,町人の多くも城下を脱出し,長く長州軍の占領下におかれた。小倉の新しい発展の契機は皮肉にも明治政府による西海道鎮台の設置であった。小倉は以後,軍都として発展する。
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百科事典マイペディア 「小倉」の意味・わかりやすい解説

小倉【こくら】

地厚な綿織物の一種。撚り糸を引きそろえて平織,綾織,繻子(しゅす)織にする。紡績絹糸による絹小倉もある。黒,紺,霜降などが多く,丈夫なので学生服作業服,男帯,袴(はかま)などにする。もとは福岡県小倉市(現北九州市小倉北区,小倉南区)で織られていたが,近年は岡山県,愛知県などが主産地である。
→関連項目日田彦山線

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和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典 「小倉」の解説

おぐら【小倉】

①「小倉あん」の略。⇒小倉あん
②「小倉汁粉」の略。⇒小倉汁粉

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