精選版 日本国語大辞典 「小石元俊」の意味・読み・例文・類語
こいし‐げんしゅん【小石元俊】
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江戸後期の関西蘭医(らんい)学の開拓者。父は本姓林野(はやしの)、もと若狭(わかさ)小浜(おばま)藩国家老小石李伯(りはく)。山城(やましろ)国桂(かつら)村(京都市西京区桂)の生まれ。名は道、字(あざな)は有素(ゆうそ)、大愚、碧霞(へきか)山人と号す。元俊は通称。1750年(寛延3)父に従い大坂に移り、淡輪元潜(たんのわげんせん)(1729―1808)、さらに永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん)について漢洋医学を修め、慈雲(飲光(おんこう))に参禅した。1764年(宝暦14)父の没後、数年間西国を歴遊して帰坂。1777年(安永6)京都に移り、開業のかたわら、皆川淇園(きえん)につき文技を磨き、『元衍(げんえん)』60巻を著し、陰陽五行説が実学に益のないことを強調した。1783年(天明3)伏見(ふしみ)で解剖実検を試みただけに『解体新書』に触発され、1786年江戸へ行き、前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢(おおつきげんたく)、石川玄常(1744―1815)らと論議を重ね、翌1787年帰京。火災にあい、1788~1796年大坂で開業(「衛生館」とよぶ)。1790年(寛政2)、間重富(はざましげとみ)とともに支援して橋本宗吉を大槻玄沢に学ばせ、オランダ語訳読の協力者とした。京都に移ったのちは著述に専念したが、1799、1800年江戸に行き、1801年(享和1)京都に医学館究理堂を設立、「実験」を旨として教育した。人物は豪快誠実、多くの医学者、文人と親交を結んだ。文化(ぶんか)5年12月25日没。墓所は京都市北区大徳寺町大徳寺塔頭(たっちゅう)孤篷庵(こほうあん)。著作に『元衍』『元衍略義』『学医要論』『有因心語』『衛生堂医訣(いけつ)』などがある。
[末中哲夫]
『山本四郎著『小石元俊』(1967/新装版・1989・吉川弘文館)』▽『京都府医師会医学史編纂室編『京都の医学史』(1980・思文閣出版)』
(山本四郎)
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