改訂新版 世界大百科事典 「尾西織物」の意味・わかりやすい解説
尾西織物 (びさいおりもの)
愛知県の一宮市,津島市を中心とする尾張西部地方は古くから織物業が発達したが,この地域で生産される織物をいう。1764年(明和1)京都西陣から桟留縞(さんとめじま)製織技術が,中島郡起(おこし)村(一宮市の旧尾西市起町)に伝えられ,20年余りのち,京都から菅大臣縞の技法が伝えられた。1829年(文政12)に加賀金沢の商人が,〈尾州桟留縞は諸国流行の品〉と述べるほどに好評を得て特産物化した。さらに文政の末年には絹綿交織(けんめんこうしよく)の結城縞が生産され,30年(天保1)以降から明治初年まで中心的な産物であった。44年(弘化1)には中島郡・海部郡42ヵ村368戸で1429桁の織機があり,問屋職・問屋仲買職・織屋職・賃稼などに至る広範な分業に支えられ,織屋のなかにはマニュファクチュアとみられる生産形態をもつものもあった。
明治末年からの毛織物業への転換は大正期に入って本格化し,第1次大戦後の1921年には転換を完了し,23年の毛織物生産額は2645万3000円で,この地方の総生産額の7割を示すに至り,日本最大の毛織物生産地帯となった。1912年ごろから力織機の導入が始まり,20年の中島郡における使用比率は51.2%,24年には90%台を示し,また大正期の着尺セル生産は28年から洋服用セルへと転換していった。1926年の中島郡毛織物業者の織機台数は10台未満54.2%,10~50台41.9%,50台以上3.9%となっている。第2次大戦後は10台未満の台数による毛織物業者が急増した。現在は,旧尾西市を中心とするこの地域は,零細規模工場中心の単一機業地帯となっており,繊維不況の影響を受けやすい。
執筆者:林 英夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報