山村(読み)サンソン

デジタル大辞泉 「山村」の意味・読み・例文・類語

さん‐そん【山村】

山間の村。
[類語]村落農村漁村集落

やまむら【山村】

姓氏の一。
[補説]「山村」姓の人物
山村才助やまむらさいすけ
山村暮鳥やまむらぼちょう

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精選版 日本国語大辞典 「山村」の意味・読み・例文・類語

さん‐そん【山村】

  1. 〘 名詞 〙 山の中にある村。山間の村。山辺の村。
    1. [初出の実例]「山村窄裡一幽栖、秋暮不堪心易迷」(出典:本朝無題詩(1162‐64頃)七・山村暮秋〈釈蓮禅〉)
    2. 「たとへ城下に遠き山村(サンソン)田家たりとも」(出典:授業編(1783)四)
    3. [その他の文献]〔杜甫‐返照詩〕

やまむら【山村】

  1. 姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「山村」の解説

山村
かずらやまむら

[現在地名]裾野市葛山

千福せんぷく村の北、佐野さの川の西岸に位置する(一部は東岸)。同川を挟んで東は御宿みしゆく村。村の西部は愛鷹あしたか山東麓の丘陵・山地で、これを水源とする大久保おおくぼ川が東西に細長い村域を貫流して佐野川に注いでいる。なお佐野川は当地辺りから上流ではみや川ともよぶ。室町幕府将軍奉公衆葛山氏の本領で、地内には同氏築城と伝える葛山城跡や葛山館跡がある。

葛山氏が現在の裾野市域にいたことを明示する史料は、「満済准后日記」正長元年(一四二八)一二月二七日条にみえる当時大森氏が知行していた佐野郷を本領主の葛山氏に安堵したとの記事である。しかし嘉元三年(一三〇五)成立の「雑談集」(錫杖事)では将軍源実朝側近の葛山景倫(願性)を「駿河ノ鮎沢ノ一門也」としていることから、鎌倉時代に御家人・得宗被官として活躍した葛山氏(「鎌倉殿中問答記録」にみえる六郎左衛門尉など)もまた当地の出身である可能性は高い。また「太平記」(巻三七畠山入道々誓謀叛事付楊国忠事)に葛山備中守が伊豆に所領を有したとみえること、康暦二年(一三八〇)六月八日の鎌倉公方足利氏満御判御教書(円覚寺文書)に「大森・葛山関務」とあり、葛山氏担当の関がみえることは、葛山氏が一貫して当地にいたことをうかがわせる数少ない史料である。


山村
やまむら

[現在地名]猿島町山

逆井さかさい村東南に所在。北・東を西仁連にしにれ川が流れ、飯沼新田いいぬましんでんに連なる。南・西は飯沼新田の枝ヤト。飯沼新田に臨む柿の沢かきのさわ貝塚一帯から縄文土器片・石斧・石鏃が出土。香取裏かとりうら遺跡は弥生時代。山上やまかみ坪には塚山つかやま古墳群がある。

落民士帳(忍田家文書)によれば結城家の家臣であった忍田丹後・中山伝十郎・青木八郎が当地に土着しているが、忍田丹後はのち大坂夏の陣に出陣して戦死したと伝え、山西やまにし坪に丹後たんご塚と碑がある。江戸初期は下総関宿藩領で、「寛文朱印留」に村名がみえ、猿島郡上郷に属したが、享保一〇年(一七二五)飯沼新田開発の関係から天領替となる。また一部は旗本知行地となり、明治に至った。万治三年(一六六〇)の検地帳(忍田家文書)によると本高三七三・七一六石、古新田高八七・九六四石であったが、飯沼新田開発によって当村持添の山村新田六二一・九二五石が成立(飯湖新発記)し、村高は倍増した。


山村
やまむら

[現在地名]鼎町山村

現鼎町の北側を流れるまつ川に沿って東西に細長く伸びた村。松川の沖積地と小段丘上に位置する。

天正三年(一五七五)の武田勝頼宛行状(小笠原文書)に「山村之郷」とあるのが文献上の初見である。

<資料は省略されています>

この文書によって松尾の小笠原信嶺が飯田郷の坂西ばんざい氏を滅ぼした恩賞として武田勝頼から山村之郷を宛行われたことがわかる。また坂西氏が勝負平しようぶだいら(現飯田市上飯田)で小笠原氏によって滅ぼされたという伝承と符合する。


山村
ならやまむら

[現在地名]一戸町楢山

小倉おぐら岳に発する小井田こいだ川に沿う山村で、小井田川は西流して一戸村で馬淵まべち川に合流する。西は岩館いわだて村・一戸村、東は九戸郡に接する。慶長五年(一六〇〇)九月二三日の楢山帯刀佐宛の南部利直知行宛行状(盛岡南部文書)に「一戸之内楢山村」とみえる。正保国絵図に一〇八石余とある。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に「杉山村」とみえ、蔵入高一五石余、七ヵ年平均の免は一ツ三分六厘。元禄十郡郷帳による〆高は田方六三石余・畑方一一九石余。


山村
やまむら

[現在地名]宇佐市山

両戒りようかい村の北にあり、東は立石たてし村、西は岩崎いわさき村。村の西部は平地で、東部には標高一〇三メートル、霊山と崇められる円錐形のくり山がある。天正一五年(一五八七)六月三日の宮成公基所領坪付(宮成文書)封戸ふべ郷の一所として「山村拘」がみえ、また「当時令進止村」の一であった。近世の領主の変遷は小向野こむくの村に同じ。小倉藩元和人畜改帳によると高四三九石余、人数一五四、百姓一二(うち庄屋二)・名子一六・牢人二、牛一八・馬一一。手永惣庄屋山村与右衛門が居住。与右衛門は村人の約六割を家人とし、牛馬も一三疋を所持していた。


山村
さんむら

[現在地名]徳之島町山

轟木とうどうるき村の北東に位置し、集落は入江(山港)に臨む。西に天城あまぎ岳があり、みなと川が流れる。入江の北に汐飛屋しおとびや、南口に金間かなま崎がある。山里さんさと(上ン晴とも)港川みなとがわ内千川うちかわあぜ集落があり、山城やまぐしく車泊くんまんどう中間屋敷なーまやしき上汐場うえしおばなどの地名がある。しぎや間切井之川いのーのうち。正保琉球国絵図に村名の記載はないが、「しよひやの崎」「かなま崎」が記される。「三州御治世要覧」では東間切一二ヵ村のうちに「山村」とある。


山村
ならやまむら

[現在地名]秋田市楢山大元ならやまおおもと町・同太田おおた町・同金照きんしよう町・同城南じようなん町・南通宮田みなみどおりみやた・大字楢山

太平たいへい川下流右岸、北は久保田くぼた城下の楢山、西は河辺郡牛島うしじま(現秋田市)に境する。城下の楢山に対して「在郷ざいご楢山」とよばれる。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「なら山村 牛島村」とみえる。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に二五六石、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「楢山村 四十六軒(中略)川辺郡桜村との川境、同郡松崎村との川境也」とあり、支郷に妙田みようでん村・富士山ふじやま村が記される。


山村
ならやまむら

[現在地名]大江町楢山

月布つきぬの川中流北岸にあり、河岸段丘と山地からなり、集落は山麓に沿う。東は大久保おおくぼ村、月布川の南は十八才じゆうはつさい村分で、小倉おぐら山など山地となる。初め最上氏領で、元和八年(一六二二)幕府領となり、寛永元年(一六二四)郷替えにより左沢藩領、同八年幕府領庄内藩預地、翌九年庄内藩領、慶安二年(一六四九)松山藩領となる。天明五年(一七八五)から三年間幕府領となったが、同八年再び松山藩領となり幕末に至る。


山村
やまむら

内部に田中たなか村・宇学うがく(近世の小角村)実沢さねざわ村などを含んだ中世の村。弘安一〇年(一二八七)三月一三日の関東下知状(朴沢文書)に「宮城郡山村」とみえ、同三年一一月二八日宿所(鎌倉か)炎上の際、下文などの証文を焼失してしまった高柳宗信は、当村などの地頭職安堵を幕府に申請し認められている。これに先立つ文永二年(一二六五)五月七日、宗信の父忠行は山村、猪沢ししさわ(比定地未詳)、暑預沢(現宮城郡宮城町に含まれる芋沢か)などを宮熊丸(宗信)に、当村のうちの在家・名田を宗信舎兄行政に譲っている。弘安四年より同一〇年までに宗信は領家に七回年貢を進納しているが、現地の管理は代官郡司太郎が行ったと思われる。


山村
やまむら

[現在地名]勝沼町山

鬢櫛びんぐし川を境に休息きゆうそく村の北に位置し、北はおも川を挟んで熊野くまの(現塩山市)。両河川は村の西端で合流する。村内は上・中・下の三組に分れていた(延享四年「村明細帳」辻圭三家文書)。永禄三年(一五六〇)正月二〇日と付箋にある年月日未詳の武田信玄判物(大善寺文書)に「二貫四百文 於曾・山村・夏秋三処仁而」とある。慶長古高帳では高四八七石余、幕府領。寛永一〇年(一六三三)旗本高木領、同一一年に旗本水野領がそれぞれ設定され二給となる(「寛政重修諸家譜」、「貞享二年采地簿」臆乗鈔、元禄郷帳)


山村
やまむら

[現在地名]芳井町山村

井山いやま村の西にあり、境域は南北に長い(東西二〇町余・南北一八〇町余)。西部は備後国安那やすな山野やまの(現広島県福山市)上鴫かみしぎ村・東三原ひがしみはら村などと接し、北は大竹おおたけ(現川上郡川上町)など。東三原村とは標高差五〇〇メートルの急峻な千峰せんぽう谷で分れ、この断層谷が高山市こうやまいちへの交通路をなす。

寛永備中国絵図では山崎家治先知とあり、高三一五石余。以降の領主の変遷は簗瀬やなせ村に同じと思われる。正保郷帳では枝村に宮路村・津加村・大道谷・音路村・高瀬たかせ村が載る。延宝五年(一六七七)の検地帳(後月郡誌)では古検反別五八町二反余とあり、田方一五町三反余・分米一三〇石余、畑方七五町七反余・分米三二一石余、屋敷二町五反余・分米二五石余で、栗年貢銀一〇匁(四斗分)・柿年貢銀二匁四分(串柿三連分)を上納、ほかに茶三二二株・楮一万四千七九株・漆一三六本があった。


山村
やまむら

[現在地名]岩出町山

やま峠の南東に広がる村。北部は山地で、麓を淡島街道、西側を大坂街道が通る。東は相谷あいだに村、北は境谷さかいだに村。「続風土記」は「村居二箇所に分れ、東山村・西山村といふ、西の方名草ノ郡山口ノ荘中筋村に接し大抵雄ノ山越の官道を以て界とす、葛城の山麓にして土地高きより山村の名あり」と記す。弘仁三年(八一二)に設置された南海道の萩原はぎわら駅を、当地に比定する説もある。


山村
やまむら

[現在地名]倉敷市児島由加こじまゆが児島白尾こじましろお、玉野市永井ながい

田之口たのくち村の北東に位置。瑜伽山蓮台れんだい寺を中心に発達した村で、東はたき(現玉野市)と接する。枝村に白尾・瑜伽寺ゆがじ上峠かみとうげの三村があり、白尾は諸史料に一村として扱われ独立性が高かった。正保郷帳では高五七七石余。貞享二年(一六八五)以来、田之口村などの隣村とたびたび山論が起こっている(撮要録)


山村
たもやまむら

[現在地名]村山市山・楯岡北町たておかきたまち一―二丁目

大旦おおだん川上流に位置し、楯岡村の北東部に接する。存覚の「袖日記」によると、浄土真宗長井門徒の系譜は親鸞の直弟子信海に始まり、その弟子信明は「タモ山」に住したとある。最上氏領から元和八年(一六二二)山形藩領、寛永二〇年(一六四三)以降幕府領。同一三年の保科氏領知目録の高一千二一四石余。正保郷帳では田方九五一石余・畑方二六三石余。用水は東部山麓の大小の溜池によったが、最も大規模で重要なのは、天正年間(一五七三―九二)築造と伝える大倉おおくら溜池であった。明治二二年(一八八九)の合併により村名を大倉村としたのはこの溜池に由来する。江戸時代には楯岡宿および宮崎みやざき宿・六田ろくた宿(現東根市)の助郷役を勤めた。


山村
かかやまむら

[現在地名]村岡町耀山

高井たかい村の南東にある。集落は蘇武そぶ岳の南西麓、湯舟ゆぶね川右岸に注ぐ支流の北側緩傾斜地に発達し、北は寺河内てらがわうち村。東方の金山きんざん峠を越えて、気多けた羽尻はじり(現日高町)に至る山道が通じていた。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「かゝ山村」とみえ、当地には彦左衛門殿・二郎ひやうへ殿などが住していた。集落背後の山上に中世の砦跡があり、この砦と前出の彦左衛門殿以下の人物との関連が指摘されている。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)では高一一一石余。


山村
やまむら

[現在地名]新城市豊栄とよさか

杉山すぎやま村の北西、今出平こんでびら村の北に接する。近世を通じて新城藩領。慶長九年(一六〇四)の検地帳では、田一五町三反余で一九五石余、畑・屋敷七町六反余で九〇石余の計二八六石余である。享保一〇年(一七二五)の書上(雁峯山入会古文書)では田一八町・畑八町二反、高三一九石余。戸数五九、人口二四五、牛馬三九匹である。

村域南部の丘陵上に遺跡があり、縄文中期からの加曾利E式・水神平式土器を出土し、また弥生土器、土師器・須恵器も含む縄文から古墳時代にかけての複合遺跡である。


山村
やまむら

[現在地名]奈良市山町

くぼしよう村北方にある。「続日本紀」養老七年(七二三)一〇月一七日条に「危村やまむら橋」、「日本霊異記」に「神亀四年歳次丁卯九月中 聖武天皇与群臣猟於添上郡山村之山」とみえ、永久四年(一一一六)八月の東大寺請文案(京都大学蔵東大寺文書)に「添上郡山村庄」とあり、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「同負所山村庄坪付 添上郡山村所四至東限山、南限山、西限大鳥池、北限山京南二条八里一坪七反百八十歩」と記す。また「大乗院雑事記」永正元年(一五〇四)九月二一日条に「夕方古市没落焼払(中略)山村・鹿野薗・窪城焼払了」とみえる。


山村
やまむら

[現在地名]四日市市山村町

朝明あさけ川の北岸、朝日あさひ丘陵に接してあり、西方は伊坂いさか村。「神鳳鈔」に「内宮山村御厨三石」と出る。江戸時代は初め桑名藩領、文政六年(一八二三)以降おし(現行田市)藩領、天保一三年(一八四二)幕府領、その後再び忍藩領。宝永八年(一七一一)の村指出帳(徳川林政史蔵)によれば人口一五一、うち本百姓家持一二一・名子水呑三〇、戸数二八、馬七を数える。新田は本高に含まれる分として「卯巳午起」が田方一反七畝余、畑方が三反四畝弱。高のほかの新田として「戌寅之起」田方八畝二七歩、畑方一町一反余あった。また「耕作料金」として山田屋彦左衛門なる人物から八両三分を借金し、一両につき一ヵ月銀八分の利息を支払っている。


山村
あしのやまむら

[現在地名]亀岡市田野ひえだのあしやま

牛松うしまつ山と朝日あさひ山との山間を通る篠山街道(山陰道)を西行し渇坂かつえざかを登った峠にある山村。また佐伯さいき村より牛松山の北側、桜天神さくらてんじん道を山内やまうち川に沿って西へ行けば、当村に至る。当地はさして高い峠ではないが、亀岡盆地と本梅ほんめ盆地との分水嶺にあたり、東方の亀岡盆地へ流れる山内川の源流地となっている。この峠の辺りは芦山村・猪倉いのくら村・東加舎ひがしかや村三ヵ村が入り組む。


山村
やまむら

[現在地名]大宮市山など

大和田片柳おおわだかたやなぎ支台南部の台地面上にあり、村の東と西の一部に低地が入込んでいる。北・東・南の大部分が片柳村に囲まれ、同村を挟んで南方の見沼の沖積地に当村持添の東山村新田がある。見沼領に属する(風土記稿)。田園簿では田二〇石余・畑三四石余。江戸時代を通じて幕府領であったと考えられる(田園簿・国立史料館本元禄郷帳・改革組合取調書など)


山村
もみやまむら

[現在地名]君津市かみ

はら村の東に位置する。嘉暦元年(一三二六)一二月二〇日の東盛義所領等注進状(金沢文庫文書)に「籾山」とみえ、盛義の所領として田八町と畠一八町小があった。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高九九石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では旗本小宮領、家数二五。旧高旧領取調帳でも同領。文政元年(一八一八)には原村と当村大宮おおみや寺の寺地につきぬき井戸の掘立を企てている(岡部家文書)。同一二年の農間商渡世取調書上(立川家文書)によると家数二三・人数一一五。


山村
やまむら

[現在地名]敦賀市山・雨谷あまだに

御名ごみよう村の南、黒河くろこ川の谷口に位置し黒河川扇状地の扇頂をなす。小村におしのへ・雨谷(尼谷)の二村がある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では粟生野郷に属し、正保郷帳で「山村・尼谷共ニ」とみえ、田方四六六石余・畠方一二石余。寛文八年(一六六八)小浜藩領より加知山藩領となる。元禄郷帳では「山」と「尼谷」は分村し、高四一一石余と六八石余。天保郷帳で再び山村に合村し、村高は五九五石余と増大。山谷の土地のため百穀成熟せず、慶応年中(一八六五―六八)には六町五反の耕地が荒廃、人戸も一九軒の減少をみたという(滋賀県物産誌)


山村
もみやまむら

[現在地名]旭村樅山もみやま

飯沼いいぬま街道沿いにあり、東は滝浜たきはま村。樅山村とも記す。中世は鹿島氏一族の徳宿氏の勢力下に置かれ、領主徳宿氏は樅山神社へ祭祀料として毎年二〇文を奉納したといわれる。文明一八年(一四八六)三月一二日、江戸通長の侵入により徳宿とくしゆく(現鉾田町)は陥落したが、以後、室町末期まで、周辺諸勢力の興亡の地となり、一定の領主は存在しなかった。天正一九年(一五九一)佐竹氏の南下に伴い、一族の東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「百二拾石壱斗二升 もミ山」とある。


山村
もみやまむら

[現在地名]津山市籾保もみほ

南は勝部かつべ村、西は紫保井しぼい村。東南条とうなんじよう郡に属する。元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。正保郷帳によると田方一〇一石余・畑方三〇石、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では二〇四石余、うち改出高四三石余・開高二九石余。「東作誌」では三二戸・一四八人、天保九年(一八三八)の津山藩領郡村記録では三四戸・一六九人、嘉永五年(一八五二)の御仕置五人組帳(津山郷土博物館蔵)では三六戸・一九三人。明治五年(一八七二)紫保井村と合併して籾保村となる。

村医仁木隆助は備中の儒者林季渓を招き、万延元年(一八六〇)籾山黌を創設した。


山村
やまむら

[現在地名]松阪市笹川ささがわ町 山村

西野にしの村の南にある。南は寺井てらい村と接する。「神鳳鈔」に「内宮山村御薗十丁、六斗」とあり、中世前期には伊勢神宮領となっていた。御守屋記録(松阪市史編さん室蔵)文明五年(一四七三)九月の山村氏神事之条に山村の八王子・天王両社が記されている。明治二年(一八六九)大指出帳(徳川林政史蔵)にも「社領高四石六斗七升三合 天王・八王子領」とある。寛永一一年(一六三四)の飯高郡之内新田新畑之帳や慶安二年(一六四九)の山村御検地帳(ともに徳川林政史蔵)により村勢が知られる。


山村
やまむら

[現在地名]永平寺町山

じよう(四七三・八メートル)の北西麓に位置し、西を永平寺川が流れ、北は東古市ひがしふるいち村。慶長六年(一六〇一)九月九日付山川菊松宛の結城秀康知行宛行状(山川家文書)に「志比領 山村」とみえる。同一一年頃の越前国絵図では志比下しひしも之庄内に含まれたと思われる。正保郷帳によると田方六四石余・畠方一一石。


山村
ねじやまむら

[現在地名]別府市東山ひがしやま 東山二区ひがしやまにく

山野口やまのぐち村の北、小挟間おばさま川上流の由布ゆふ岳・鶴見つるみ岳南麓の高原に位置し、府内・日田往還が通る。江戸時代の領主の変遷は東畑ひがしはた村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に捏山村とみえ、高二一石余、家数一・人数一五、牛一・馬一。


山村
かずらやまむら

[現在地名]鏡村葛山

増原ましわら村東南の谷間に集落があり、郷村帳類では上利じようり(現高知市)のうちに含まれる。「土佐州郡志」には領家りようけ郷一四村のうちとして葛山村がみえ「当増原南、東限上利、西限梅木登石山、南限領家、北限乃川以南、東西十町余南北六町余、(中略)其土黒」と記される。


山村
ならやまむら

[現在地名]下田村楢山

五十嵐いからし川左岸の河岸段丘上にあり、北は笹岡ささおか新田村。正保国絵図では高一四〇石余。正保(一六四四―四八)初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では七一石二斗余・家一三戸。


山村
くずやまむら

[現在地名]上宝村葛山

高原たかはら川中流右岸に位置する山間小村で、東方に枝村かんじきねがある。元禄飛騨国検地反歩帳によると高原郷に属し、高一四石余、田二畝余・畑五町六反余。「飛騨国中案内」では免二割八分四厘余、家数一四はみな百姓。天明八年(一七八八)村明細帳によると、畑一七石余・反別六町五反余、新田として畑二石余・反別一町五反余、家数一四、男二七・女二五、牛一四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山村」の意味・わかりやすい解説

山村
さんそん

山地にある、林業に依存することの多い村落。立地条件と生業の種類から、他の類型の村落と区別されるのであるが、いずれも相対的な基準であるため、一義的な規定はできない。そこで、農林統計においては、(1)市町村単位に経済地帯の区分を行い、耕地率10%以下、林野率80%以上、林業兼業農家率10%以上の地域を山村とする、(2)旧市町村単位に、林野率80%以上の地域を山地村とする、(3)集落単位に、総戸数に対する林家率70%以上の集落を山村集落とする、などの規定が行われてきた。また、山村振興法(昭和40年法律64号)では、旧市町村を単位に、林野率、人口密度を基準に山村の定義を行い、「林野面積の占める比率が高く、交通条件および経済的・文化的諸条件に恵まれず、産業の開発の程度が低く、かつ、住民の生活文化水準が劣っている山間地その他の地域」を、山村振興対策を講ずる対象地域(振興山村)として指定している。

 山村を一般的な村落社会から区別するものは、土地利用のうえで山林が多く、産業のうえで林業に依存するということにあるだけに、林業の特質によって山村の特徴も形成され、またその類型も生み出される。すなわち、国有林と公有林・私有林との比率などの山林の所有形態の差によって、また、人工造林の進展程度に示される林業生産の発展の差によって、さらには林業経営や林業労働の形態の異なるのに応じて、山村にはさまざまな類型がみられる。さらに、林業生産の消長は山村の盛衰そのものを規定することにもなる。もちろん、林業に依存するといっても、山村住民は林業にだけ従事しているわけではなく、農業をはじめ、山地の条件を生かした生産やその他の賃労働などに従事している。しかし、山村の農業は、標高の高い傾斜地にあることから、寒冷な気候に適した作物に限られ、畑作の比重が高く、耕地面積も狭くならざるをえない。したがって林業生産が停滞した場合、山村住民の所得の向上には困難が多くなる。

 山村の置かれている立地条件から、山村集落は規模も小さく、散在・散居形態のものが多い。都市から離れて各種の社会的施設の利用の便益に乏しいうえに、疎散性が強いことから、医療機関の利用をはじめとして、生活環境条件の整備には困難が多い。そこで、山村の生活条件の改善を目ざして、山村振興法が制定され、山村住民の生産・生活に関連する各種の基盤整備などを進める施策が行われてきた。しかし、山村地域では、経済成長が進むにつれ、人口流出が進み、山村の多くが過疎化し、あるいは激しい人口の高齢化を生じるに至っている。わが国の地形的な特質から、山林は、国土の保全や水源の涵養(かんよう)に大きな役割を果たしており、山村はそのような山林の維持にとって軽視することのできない存在である。その意味で、山村の多くが過疎化しつつある現状は、きわめて重大な問題といわなければならない。

[蓮見音彦]

地理的特色

山村は、標高が高く、河谷斜面が急で、耕地の土壌は浅く、気温が急低下し、雪や雨が多くて、耕種農業が制約される。農業は経営規模が零細で生産性が低く、自給を主とし、養蚕や畜類飼育、植林(木材生産)をあわせて、経済の安定・発展を図っている。また、自然風景に優れ、古来、山岳信仰の対象とされ、温泉の湧出(ゆうしゅつ)や古い民家や民謡・伝統的遺習が残存していて、観光地として注目を集めている所もある。しかし、山村は交通条件に劣り、労働力や生産物の市場化に恵まれないので、都市地域への人口流出が少なくなく、過疎化に悩む山村が多い。その防止対策の研究が平地村に比べてより盛んなのも山村の特色といえよう。

[浅香幸雄]

『山村振興調査会編『日本の山村問題Ⅰ・Ⅱ』(1967、69・東京大学出版会)』『山村振興調査会編『山村の変貌と開発』(1971・古今書院)』『三井田圭右著『山村の人口維持機能』(1979・大明堂)』

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百科事典マイペディア 「山村」の意味・わかりやすい解説

山村【さんそん】

平野村に対して山地の村落をいう。生活に対する地形や自然の制約が大きい。おもな生産様式として用材生産,製炭,木工,狩猟などの山林資源の利用と,山腹斜面での耕作,高冷地農業,焼畑などの農業とが複合されて行われる。林業経営は地元農民を林業労働者として雇う場合が多い。集落形態は,山腹斜面には散村が,谷底部には集村が多く,平地との交易のため谷口集落が発達する。隔絶されて,特有な民家形式,特殊な生活様式,方言などを残している所が少なくない。日本では町村単位の統計で耕地面積に対する山林原野の面積比率が75%を越えるものは純然たる山村とみなすことができる。一般に生産面でも社会生活の面でも停滞的で,無医村,教育の不便,生活水準の低さなどの僻地(へきち)の問題をかかえ,出稼ぎ,離村も多く,最近の過疎問題も多くは山村地帯に発生している。→過疎・過密
→関連項目農村

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山村」の意味・わかりやすい解説

山村
さんそん
mountain village

山地に発達している集落。生活は林業と自給的な農業に依存するものが多く,「林業村」とか「林村」とも呼ぶ。居住地は山腹の斜面や山と山との間の河谷に沿って点在し,集落の規模も小さい。耕地の大部分は畑や谷津田で,しかも急傾斜面を階段耕作によって利用しているところが多い。一般に他地域と隔絶され,年中行事や風習などに古い姿を残している。庄川上流の富山県の五箇山 (ごかやま) 郷や岐阜県の白川郷などは典型。しかし,第2次世界大戦後の電源開発に伴うダムの建設や林道開発によって大きく変貌したところが多い。また高度成長によって過疎の傾向が強く,農民が離村して荒廃した集落も少くない。

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普及版 字通 「山村」の読み・字形・画数・意味

【山村】さんそん

山ざと。

字通「山」の項目を見る

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