さん‐とう【山東】
[五] 日本の関東のこと。
※蕉堅藁(1403)送列侍者「親書読罷遽還
レ家、戎馬山東路転

」
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デジタル大辞泉
「山東」の意味・読み・例文・類語
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山東
さんとう
南北朝期からみえる日向国内の地域呼称。主として鰐塚山地から東側の地域をさし、日向灘沿岸部では加江田(現宮崎市)以北の地域をよぶ。島津氏久譜(旧記雑録)にみえる南北朝期初頭に南朝方に属した肝付兼重が三俣高城(現高城町)に居住した時に「山東・穆佐・高城」を確保していたという記載が時期的には早いが、永和二年(一三七六)一〇月二四日の今川了俊事書案(禰寝文書)に島津氏と九州探題今川了俊が争った際、了俊が「日向国山東」の国人を九州探題方の国人一揆へ組織しようとしたとあるのが文書としての初見である。康暦元年(一三七九)とみられる閏四月三日の今川了俊書状案(同文書)によると、都城合戦で島津氏久と対峙しつつある了俊は山東の国人衆に自身の指示を伝達するように一揆中に伝え、国人衆が現地に派遣された今川満範に同行することを求めている。同二年とみられる一〇月一六日の今川満範書状写(同文書)では、都城合戦に加わる山東の伊東勢と一揆中が区別されており、永徳元年(一三八一)とみられる六月一七日の名和慈冬書状写(同文書)には「山東伊東・土持の勢」とみえる。さらに年未詳六月二九日の名和慈冬書状(同文書)には大隅の禰寝氏が山東勢および一揆勢力と連携することが記されており、山東勢とは伊東氏・土持氏らを中心とした勢力であった。
応永元年(一三九四)島津元久の軍勢は都城に向かい、野々美谷城(現都城市)を確保する相良氏を攻めるとともに今川氏と一揆勢を退け、今川貞兼は山東に退去して曾井(現宮崎市)に陣を構えるに至った(「島津元久譜」旧記雑録、「西藩野史」)。同二年とみられる九月一五日の安楽清綱書状(禰寝文書)には、今川了俊に与力した勢力が山東で伊東下野太郎を味方にすれば全体が統合されると記されており、伊東氏の動向が山東の勢力図を左右するに至っている。一方、探題方の国人の勢力が衰えるなか、同三年一一月七日に島津元久は山東に闕所が出しだい、鹿屋周防介に三〇町を給分として宛行うことを約束している(「島津元久宛行状」旧記雑録)。当時、島津氏の勢力拡張が進み、同四年島津伊久が薩摩国入来院清色城(現鹿児島県入来町)の渋谷氏を攻撃するにあたっては、山東から伊東・土持・宮崎・跡江・木脇・清武・曾井・佐々・宇津・岡富・県・盛長・八代・財部・飯田・石塚・岩千野・白糸・綾・池尻・穆佐・加江田諸氏の軍勢が加わっており、山東は鰐塚山地以北で県(現延岡市)に至る地域をさす呼称となっている(「応永記」「島津伊久譜」旧記雑録)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
山東
さんとう
滋賀県北東部,米原市中南部の旧町域。伊吹山地の南部,鈴鹿山脈の北部に位置する。 1955年東黒田村,柏原村,大原村の3村が合体し町制。 2005年伊吹町,米原町と合体して米原市となった。中心地区の柏原は江戸時代中山道の宿場町として発達した。中世,京極氏の居住地で,清滝寺京極家墓所があり,北畠具行の墓とともに国の史跡に指定。米作,林業が主で,伊吹もぐさを特産。天野川橋一帯は国の特別天然記念物「長岡のゲンジボタルおよびその発生地」として知られる。長岡は伊吹山への登山基地。
山東
さんとう
兵庫県中部,朝来市東部の旧町域。円山川の支流粟鹿川流域にあり,北東は京都府に接する。 1954年梁瀬町,粟鹿村,与布土村が合体して発足。町名は合併前の3町村が古くから山東三村と呼ばれていたことによる。 2005年生野町,和田山町,朝来町の3町と合体して朝来市となった。中心集落の梁瀬は京街道,丹波街道が交わる交通の要地で,古くから織物業,酒造業が発達。ほかにメリヤス工業などがある。粟鹿はソバの産地。周辺では酪農が行なわれる。南部は朝来群山県立自然公園に属する。
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さんとう【山東 Shān dōng】
中国本土の北部を東西に分け,山西と対照させて用いる語。その基準となる山は,古くから華山(陝西省),崤山(こうざん)(河南省)と太行山(太行山脈)の三つがある。戦国時代には崤山が秦と六国との境界だったので,その東を秦の方から山東といった。漢代では華山を東西の境界とするのが普通だったらしい。太行山が基準とされたのも古いが,その山の東という意味で今日の山東省が成立したのは明代からである。【日比野 丈夫】
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報