山や水といった個々具体的な表現素材を駆使して構成される,全体としては理想的な山水の画。いわゆる風景画とは異なる。
中国絵画に占めるその位置はきわめて大きく,現存作品の大半が山水画といっても過言ではないほどである。ただ古代中国絵画の場合,いずれの地域の絵画もそうであるように,人物画がその中心をなす。山水画が本格的に興隆し始めるのは,六朝時代からであり,完全に独立した分野となるのは,呉道玄(道子),李思訓・李昭道父子,あるいは王維らが出現する盛唐時代,さらに山水画のみを専門とする画家が一個の画家として認められるようになるのは,中唐から晩唐時代にまで下る。
山水画が今日におけるような地歩を築きあげるようになった契機は,それに続く五代・宋の時代にある。伝統的に絵画以上に高い評価を受けてきた書・文学が唐の滅亡と五代の戦乱のなかで,わずかな例外を除いて,ともに見るべき成果を生みださなかったのに対して,絵画においては唐末五代から宋時代にかけて一貫して巨匠が輩出し,後に六朝の書,唐の詩,宋の画と称されるようになる中国絵画の黄金時代が開かれる。その軸となったのが山水画であり,山水画の英雄時代を開いた巨匠が華北の荆浩,江南の董源である。彼らは唐末五代の戦乱の中,それぞれの地方性を踏まえた大様式を築きあげ,荆浩に学んだ李成,董源の弟子巨然らが引き続いて北宋における総合の時代を導きだす,先駆としての役割を果たした。この数十年ほどの間に確立した南北の対立と総合の図式,空間構成を重視する華北山水画と造形素材それ自体の効果もあわせて追究する江南山水画の対立と総合の図式が,以後の中国山水画史の展開を規定する基本的な枠組みとなる。
ただ,北宋時代は唐代と同様,華北山水画が主流をなした時代であり,李成に学んだ范寛,郭煕らが出て三遠法を駆使した精緻な空間表現を達成し,江南山水画を圧倒した。江南山水画が再評価されるようになるのは北宋も後期以後,紙や墨などの素材のもつ滲みなどの効果に鋭い感受性を示した米芾(べいふつ)・米友仁父子によってであるが,華北山水画と江南山水画のこういった再対立・再総合の機運は十分熟さないまま,南宋と金とが中国を二分して形づくられる,山水画における南北の複雑な対立状況が出現する。北宋絵画の正統を受け継ぐと自負する金には王庭筠らの文人画家,南宋には四大家と称される李唐,劉松年,馬遠,夏珪ら,北宋画院の伝統を継承する画院画家が現れ,それぞれの絵画史の基調を作りあげた。この百数十年間は,政治的要因によって強いられた南北対立の時代であると同時に,対立する南北のそれぞれに絵画史的な意味での南北対立が見られる複雑な時代でもあった。例えば,南宋四大家が北宋山水画の大観的な空間表現を単純化し,より限定された表現素材の組合せによるものに変えていったのに対して,造形素材の効果を重視する方向は北宋山水画の空間構成を一部で継承しつつ,なお牧谿,玉澗らの禅余画家によって探究されていったのである。
続く元の時代は,その意味で,自己の伝統を伝統として自覚し再把握すべき時期であった。300年以上も前の五代・北宋初の画家董源,巨然に範を求め,山水表現と造形素材それ自体のもつ効果とを拮抗させて作りだす美的可能性をある極限にまで高めた元末四大家,黄公望,呉鎮,倪瓚(げいさん),王蒙や,百数十年にわたる南宋・金対立時代を飛びこえて北宋の李成,郭煕らの達成した精緻な空間表現に回帰しようと試みた,曹知白(1272-1355),朱徳潤ら元代李・郭派に属する画家たちはもちろん,南宋画院の流れをくむ画家たちにとってもそれは同様である。いやむしろ,元代からさらに明代中期までは,北宋華北山水画から南宋院体画風をも含めたより幅広い伝統によった,元の四大家以外の系統の画家たちの方が山水画壇の中でより大きな位置を占める一方,明代も中期以後になって,元の四大家につながる画家たちが勢力を増してくる。前者はその代表とされる戴進が杭州出身であったため,明代に入って浙派と称され,後者は沈周(しんしゆう)を始めとして主に蘇州出身の画家によって形成されたため,呉派と呼ばれ,あわせて明代絵画史を画する二大潮流をなした。明末に至って董其昌は禅の宗派にたとえて,浙派を唐の宗室画家の李思訓・李昭道父子に始まる北宗(ほくしゆう),呉派を盛唐の詩人でもあり文人画家でもある王維に始まる南宗(なんしゆう)とする南北二宗論を展開し,董源,巨然から米芾,米友仁,元の四大家を経て呉派文人画に至る,南宗画の正統を継承すると自負する自己の史的位置を,山水画の始源にまでさかのぼって確立しようとした。しかしながら,明末の時点ではすでに浙派に対する呉派文人画の勝利は決定的であり,華北と江南という地方性,文人画家か宮廷画家かといった階層性,そこから生じる表現上の相違などが複雑に交錯した,中国山水画における南北の対立と総合の図式は,華北と江南という枠組みが江南の中の浙派と呉派の対立というように集約され,さらに一方が他方に対して勝利を告げた明末のその時点で実質的に解消していたといってよい。
唐以来の伝統的中国山水画の最後の高みは,呉派文人画が切り開いた構成家と色彩家の総合への方向を完成させた清初の四王呉惲(ごうん)である。石濤,八大山人らの山水画はむしろ揚州八怪が出現する清中期以後,山水画に代わって中国絵画の中心を占めるようになる花卉(かき)雑画との関連において考察されるべきものであろう。近代に入って西洋画のみならず日本画の影響もこうむる中で,1000年をはるかにこえる中国山水画の伝統がどのように継承されて新たな創造が成し遂げられてゆくのかは,中国絵画の今後を左右する最も重要な動向の一つである。
→院体画 →水墨画 →文人画
執筆者:小川 裕充
中国では人間をとりまく自然,さらには宇宙全体のあらゆる秩序の根源を,陰と陽の結合と離反によるものとし,万物の生成から死滅,そして再生にいたるさまざまな変化の法則を,〈道〉として確立したとき,中国における古典的自然観が成立した。星辰の運行,年月の推移,四季の変化といった大きな周期の中に,人間の生活は小宇宙としての小さな周期をもつものとして位置づけられ,つねに大自然のもつ根源的な力に対する畏敬の念をもち続けることになる。このような天・地・人の関係について,老子や荘子は,人間の道は自然の道とする自然と人間との融合を説いたのである。つまり人間のうちなるものに目をむけ,人間社会の中にあって自然に没入するといった神仙思想を成立させ,具体的には道士たちが山中に隠遁生活を営んだのであった。これが自然と人間の精神の同質性,あるいは類似性という中国古典思想の根本であり,後世,詩画による山水への逃避,人間世界を超えた理想郷を胸中に現出させたところの山水臥遊の精神に受けつがれるのである。
このような神仙生活の場に登場したのが鬼神であり,山や川,沼や池はもとより,天地にはそれぞれの神が宿る。ところが孔子によれば〈君子は鬼神を敬して遠ざけ〉てしまう。儒教がさかんになると鬼神は否定され,山水は《論語》にいう〈知者は水を楽しみ,仁者は山を楽しむ〉ことになり,さらにまた〈精明をみがく〉ものとして倫理的規範にまで止揚されるのである。儒教の隆盛は勧戒画としての人物画を登場させ,鬼神の否定は逆に鬼神の住みかとしての山水を尊重し〈山水画〉を絵画の主流にさせたのである。北宋時代の山水画家郭熙が撰した画論《林泉高致》に山水画の評価について〈行ってみたくなる,眺望をめでてみたくなる,そこで清遊してみたくなる,そして最後はそこに居住し,骨を埋めて悔いない〉ほどの理想郷が描かれるにいたって,最高の山水画になるというのである。詩画による山水への逃避,俗中にいながら人間世界を超えるところに,山水画は生命をもつ,とされたのであった。
さらに宗炳(そうへい)(375-443)は《画山水序》で〈臥して而してこれに遊ばん〉として琴を弾じ〈衆山をして皆響かしめんと欲し〉,王維が《山水訣(さんすいけつ)》に説いた〈山水臥遊〉の精神を踏襲するものであった。山水は対象のあるなしはもとより,主観,客観の区別なく自由な妙境として成立したのである。郭煕はまた山水画の構成として〈高遠,平遠,深遠〉を三遠法として説き,空間の無限性を表現する方法として視点が対象の中に没入,事物の内面をとらえることが可能となり,ここに東洋独自の空間構成が成立するのである。絵画にあって峻険・深谿は北宗画,雲峰・霞汀は南宗画として表現された。日本の山水も両者の延長線上に位置づけられ,奈良朝の唐絵(からえ)から中世のやまと絵,そして水墨漢画と展開したが,山水は泉水となり〈遠き山は群青をぬりたるごとく〉山岳はもはや築山と化し麓には霞がたなびき,稜線には疎林が影絵のように浮かんだのであった。近世文人画における山水も,南宗画の日本的受容を示している。
執筆者:衛藤 駿
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東洋画の画題の一つ。広義には風景画のこと。人物画、花鳥画とともにもっとも多く描かれた。山水、樹木、岩石など自然の景観を描くもので、景物としては人物、楼閣、風俗、鳥獣などをも含み、四季と組み合わされることがある。中国湖南省の洞庭湖(どうていこ)や浙江(せっこう)省の西湖(せいこ)周辺の景勝に取材した「瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)」や「西湖図」なども広くは山水画に含まれるが、普通、山水画とよぶ場合には、単にそうした特定の地を写し出すのみならず、個々の名勝を超えた自然の普遍的な姿を表現しようとしたものが多い。
[榊原 悟]
早くも漢代には、神仙図などの部分として山水が宗教的な象徴の意味を込めて描かれていたが、続く六朝(りくちょう)時代になってその基本理念が確立した。宗炳(そうへい)の『画山水序』がそれで、彼は晩年、遊歴した名山をすべて壁に描き、坐臥(ざが)してこれに向かったといわれ、彼によって山水臥遊の心境の表現を目ざした中国山水画の基本方向が決定づけられた。唐代の呉道玄(ごどうげん)や李思訓(りしくん)・李昭道(しょうどう)父子による「山水の変」いわゆる山水画の革新を経て、やがて北宋(ほくそう)時代になると山水画は全盛を迎え、一時代を画するに至る。李成(りせい)、范寛(はんかん)、許道寧(きょどうねい)、燕文貴(えんぶんき)、董源(とうげん)、巨然(きょねん)らは、咫尺(しせき)に千里の望を収め、山水自然の無窮の広がりを画面に写し取ることに成功する。さらに郭煕(かくき)によって平遠・高遠・深遠の三遠法がくふうされ、これによって自己完結した理想的かつ総合的な山水表現が達成されることになる。続く南宋時代には、詩情の表出を主眼に、対象を限定し、余白との呼応によって自然の広がりと変化を暗示する朝廷の画院画家、馬遠(ばえん)や夏珪(かけい)の辺角構図、残山剰水(ざんざんじょうすい)形式が流行した。一方この時代には、牧谿(もっけい)、玉澗(ぎょくかん)らの画僧も活躍し、作品も鎌倉時代以降日本に伝えられ大いに珍重された。
元代には四大家といわれる呉鎮(ごちん)、黄公望(こうこうぼう)、倪瓚(げいさん)、王蒙(おうもう)らが出て文人山水画を台頭させ、それぞれ個性的な画風を完成する。続く明(みん)代には画院の流れをくむ浙派(せっぱ)と元の四大家の流れをくむ沈周(ちんしゅう)、文徴明(ぶんちょうめい)らの呉派とがあったが、のち董其昌(とうきしょう)の出現によって後者の文人画の系統の優位性が説かれ、四王呉惲(しおうごうん)(王時敏(おうじびん)、王鑑(おうかん)、王翬(おうき)、王原祁(おうげんき)、呉歴(ごれき)、惲格(うんかく))らの活躍とともに、以後は文人画としての南宗画(なんしゅうが)風が盛んとなった。
[榊原 悟]
飛鳥(あすか)時代から山水画の画題はあり、各時代に中国山水画の様式的影響を受けながら制作されてきたが、これとは別に日本固有の四季絵や名所絵の伝統にのっとり、日本の四季の風物を描き込んだ大和絵(やまとえ)の、いわゆる山水屏風(せんずいびょうぶ)も数多く制作されたと推定される。しかし山水画がとりわけ盛行をみるのは、鎌倉時代以後、宋元の水墨山水画が輸入されてからのことで、とくに室町期の五山叢林(そうりん)を中心とする禅宗社会では、山水画は詩画軸という独得の形式によって大いに享受された。周文、雪舟、雪村、三阿弥(さんあみ)(能阿弥、芸阿弥、相阿弥)や小栗宗湛(おぐりそうたん)らはいずれも山水画に本領を発揮、ことに雪舟は、実景描写に腐心することによって、中国画の模倣から脱し、独自の日本的山水画を描くことに成功した。
狩野正信(かのうまさのぶ)、元信(もとのぶ)以降、永徳を経て、桃山時代になると、山水画も他の花鳥画や人物画などと同様著しく装飾的になり、やがて江戸初期の狩野探幽(たんゆう)によって、大和絵との融合から、平明で瀟洒(しょうしゃ)な、まさしく日本画とも称さるべき山水画様式が達成された。また江戸中期以降、池大雅(いけのたいが)、与謝蕪村(よさぶそん)らの南画家が出て、中国明清(みんしん)の南宗画風を学んで鮮新な山水画の世界を開拓した。さらに円山応挙(まるやまおうきょ)は写生を唱え、写実と装飾とを調和させた独自の山水画を描いている。またこの時代は実景描写への関心も大いに高まり、各地の名所、景勝を訪れ、これに取材した「真景図」も数多く制作された。渡辺崋山(かざん)の『四州真景図巻』などがその代表的作例で、これはある意味では、自然の普遍的な姿を表現しようとする山水画の解体とも、また一面では山水画の近世的変質とも称さるべきであり、この「真景図」は、やがてきたるべき近代的「風景画」への第一歩ともなった。そしてここに山水画は、真に創造的な歴史的使命を終えることになる。
[榊原 悟]
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中国,日本の絵画の一部門。自然の風景を題材とするが,近代の風景画と異なり,自然に精神的意義を付加する中国的自然観を反映した絵画。盛唐~元中期の黄金時代には,技法の発達と様式の多様化を生み出し,墨法が進歩して水墨山水画を成立させ,形似に対する写意を唱えた。宋末元初の画僧の主客合一の傑作は,中国山水画が究極的に到達した至高の境地である。
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…すでに明治の後期にそのような動きはあったが,そうした系統の写真家として,1923年に日本で最初の写真芸術論というべき《光と其諧調》を発表した福原信三,野島康三,中山岩太を代表としてあげることができる。日本のアマチュア写真家も西欧と同様に絵画的主題からの影響はまぬがれなかったが,しかしなじみ深い山水画をはじめとする文化的・風土的背景の影響は,日本の地方色として著しい特徴となっている。このため明治期の多くの写真には独特の抒情性が見られ,この主題を助長するために〈ピグメントpigment法〉という写真に顔料を用いる技法が流行した。…
…それに対して現代,つまり張彦遠の同時代の絵画は,錯乱して趣がなく汚いという。その非難の対象となったものは,墨を口に含んで吹きつけて雲を描く吹雲という技法や山水画家の用いる潑墨といった技法で,その理由は線がないということであった。実際このころ,巷間で破墨とか潑墨とか呼ばれる技法が流行したようで,それらは山水樹石を主題としてとりあげ,用墨を重視して用筆すなわち線描を軽視ないしは否定するような傾向があった。…
… 宋代の美術界で主導的な地位を占めたのは絵画であった。六朝の書,唐の詩,宋の画と評されるように,中国絵画史のなかで最高の評価を得た宋代の絵画を特徴づける要因として水墨画の手法のめざましい発達,主導的な題材の道釈人物画から山水画への移行,画家と鑑賞者の両者にみられる文人意識の増大という三つの現象を指摘できる。人物画の分野では唐代に頂点に達した大画面形式の道釈人物は北宋前期の職業的な画家たちによって継承されたものの,形式化し衰退していく傾向をみせたが,北宋末の李公麟が文人趣味にあう白描画風の人物画を再興し,この分野に鑑賞絵画としての新生命を吹き込み,南宋期の禅機画盛行の出発点となった。…
…風景を主なる表現対象とした絵画をいう。絵画もしくは浮彫等の背景に風景を表現することは早くにエジプト,クレタ,アッシリアなどの美術に見られるが,風景のための風景画の独立は西洋ではルネサンス期に初めて成立するに対し,中国ではすでに六朝時代に山水画が描かれ,隋唐より日本へも伝来(例,正倉院御物の琵琶の桿撥(かんぱち)画)し,やまと絵へと摂取されていく。これは西洋の美術が人体表現を主眼とするに対し,中国や日本では人物画も古くよりあるが,自然の崇敬愛好が早くから文学を介して美術の主題とされたことに基づく。…
…この系譜はかなり無茶なもので,李思訓は輪郭線でこまかくかたどって着色を施すいわゆる青緑(金碧)山水を描き,南宋画院はむしろ余白をうまく利用した構図と簡潔で洗練された筆墨法に特色があり,浙派となるとたしかに南宋画院の画風を受け継いでいるものの,そのほかに浙江地方に伝わった粗放な水墨画の伝統や,元代にまず文人画の側から興った復古運動,とくに北宋の李成・郭熙様式に基づく元代李郭様式の影響も強く,系譜自体には一貫性がなく,董其昌らの系譜づけによって浙派の具体的な実相はかえって曖昧になったといえる。 浙派の特色は人物画や花鳥画により顕著にあらわれるが,南宗画の深層に江南の山水画の伝統があったように,北宗画も華北の厳しい風景描写を抜きにしては考えられない。中国の山水画は黄河流域の風景描写を基にして発展を開始したといってよい。…
…ことに成祖長陵の稜恩殿は,当代を代表する建築である。
[絵画]
明代の絵画は,山水画を中心として展開したが,その山水画は,およそ15世紀後半を境として,前後2期に分かれ,前半には浙派が,後半には呉派が流行した。浙派の名は,後にその祖と目された戴進が銭塘(浙江省杭州)の出身であったことから名づけられたものだが,初期には浙江省,福建省出身の画家達がその中心をなしていた。…
※「山水画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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