山登検校(初代)(読み)やまとけんぎょう

朝日日本歴史人物事典 「山登検校(初代)」の解説

山登検校(初代)

没年:文久3.2.27(1863.4.14)
生年:天明2.1.12(1782.2.23)
江戸中・後期の山田流箏曲家。名は松和一。文化9(1812)年に検校。師の山田検校より山田姓の継承を命じられたが辞したという。煉薬で美声を保ち,富本節河東節を嗜み,琵琶胡弓も得意とした。『蜘蛛の糸巻』(1846)に「出藍の聞えありて」とある。山田検校の作品集『吾嬬箏譜』再板(1824)に跋文と自作を追加。『増訂撫箏雅譜集』(1853)を刊行。作品に「春日詣」「初若菜」「糸の恋」「西行」「手枕」「新七草」「なでしこ」など。門下に2代目山登検校松逸一,千代田検校,初代佐藤登名美ほか。<参考文献>平野健次監修・解説レコードアルバム『山登検校の代々

(野川美穂子)

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百科事典マイペディア 「山登検校(初代)」の意味・わかりやすい解説

山登検校【やまとけんぎょう】

山田流箏曲家。山田流御三家の家柄の一つである山登家の初代。江戸生れ。名は松和一。本名高木清吉。山田検校の筆頭弟子として早くから頭角現し,山田検校没後は同流の指導的立場にあった。《春日詣(かすがもうで)》《新七草》などを作曲。平曲家でもあった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山登検校(初代)」の解説

山登検校(初代) やまとけんぎょう

1782-1863 江戸時代後期の箏曲(そうきょく)家。
天明2年1月12日生まれ。山田検校の一番弟子。文化9年検校となる。山田流の発展につくし,門人に2代山登検校,千代田検校ら。山田流御三家筆頭の山登家初代家元。文久3年2月27日死去。82歳。江戸出身。本姓は高木。名は松和一(しょうわいち)。著作に「増訂撫箏(ぶそう)雅譜集」。作品に「春日詣」「西行」など。

山登検校(2代) やまとけんぎょう

1815-1876 江戸後期-明治時代の箏曲(そうきょく)家。
文化12年生まれ。山田流。初代の門人で,慶応3年検校。「松の栄(さかえ)」「祝ひ歌」など富本節と箏歌(ことうた)の掛け合い物を作曲した。明治9年6月17日死去。62歳。江戸出身。本姓は山茂(滋,繁)。名は松逸一(しょういついち)。

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367日誕生日大事典 「山登検校(初代)」の解説

山登検校(初代) (やまとけんぎょう)

生年月日:1782年1月12日
江戸時代後期の山田流筝曲家
1863年没

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世界大百科事典(旧版)内の山登検校(初代)の言及

【山登派】より

…失明して山田検校に師事,都名(いちな)を松和一と名のる。1812年(文化9)山登検校となる。山田検校の筆頭弟子として出藍の誉れが高かったが,師の没後,その姓を継がず,終生山登で通した。…

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