出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉
「山西」の意味・読み・例文・類語
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山西
やまにし
志太郡と益頭郡をさす戦国期から江戸期初頭にかけての広域地名。年未詳六月一九日の今川義元書状写(楓軒文書纂巻四〇)に「当国山西壱所号岡田地」とみえ、義元が武田信玄の家臣武田(穴山)信友に山西の岡田(現藤枝市か)を与えている。永禄一一年(一五六八)一二月、駿府に軍を進めた武田信玄は、北条軍が薩
山に陣取ったため、久能山城(現静岡市)に釘づけとなった。こうした状況のもと、翌一二年三月一六日に武田氏は新宮神主に対して駿府浅間神社(静岡浅間神社)の供物を従来のように山西で整えることを許した(「武田家朱印状」静岡浅間神社文書)。同一二年四月下旬甲斐甲府に引揚げた信玄は、五月二三日に岡部雅楽助らに山西の情勢を報告するように要請している(「武田信玄書状」野口寛三氏所蔵文書)。信玄撤退後の駿河は北条氏政と徳川家康の支配下となり、同年七月九日氏政から大藤式部丞に宛行われた駿河の所領のなかに山西の三〇〇貫文が含まれており、うち二〇〇貫文は修善寺領、残りは藁科宮内少輔知行分となっているが、所在地は特定できない(「北条氏政判物」大藤文書)。
山西
さんせい
南北朝時代頃からみえる地域呼称。鰐塚山地の山並を境として西部をさす。当時は諸県郡域の一部をさす山西の呼称に対し、宮崎郡域を中心とした伊東氏の所領をさす山東の呼称もあった。文保二年(一三一八)三月一五日と同月二三日の日付をもつ樺山資久・北郷資忠宛の関東下知状并島津道義譲状案(樺山文書)は南北朝期以降の作と考えられるが、樺山・石寺島津(現三股町)、中郷(現都城市)が「山西」とみえる。応永元年(一三九四)には高木氏についた北郷氏が都城を堅持していたが、「山西弥々苦々敷成行」という状況となり、高木氏は梶山城(現三股町)を開城して花木(現山之口町)に移ったという(「応永記」旧記雑録)。
山西
やまにし
中世には阿蘇社領南郷のうちの現西原村、菊池郡大津町地区一帯の呼称と思われる。正平七年(一三五二)二月吉日の阿蘇社上葺等次第(阿蘇家文書)には「下宮上葺次第」の一宮の屋根の裏の上葺を「山西ヨリ布田 子守 鳥子 瀬田 葺申候」とあり、布田以下の四村が山西に属していた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
さんせい【山西 Shān xī】
中国本土の北部を東西に分け,山東と対称させて用いる語。その基準となる山としては華山(陝西省),崤山(こうざん)(河南省),太行山(太行山脈)などがあり,一定していない。華山と崤山とは相近く,戦国時代その東は六国(りつこく)の地域,西は秦の領土だったため,漢代では山西は後進地域と見られていた。太行山を基準とするのも古いが,その西を今日のように山西省と称するのは明代からである。【日比野 丈夫】
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報