江戸における私娼(ししよう)街の俗称。岡は岡目八目などの岡と同じく,傍ら,局外の意。江戸幕府は公娼制をとり,私娼は厳禁のたてまえであったが,おひざもとの江戸でも,初期の湯女(ゆな)や元禄(1688-1704)ごろの踊子をはじめ多くの私娼が出現した。それらは,ときに幕府の取締りを受けて消滅もしたが,やがて土地や形態を変えて復活した。宝暦~天明(1751-89)ころは最も盛んで,江戸中に約70ヵ所の私娼街があった。それらの私娼街を,公認の吉原以外の遊所ということで岡場所と総称するようになったのも,このころに始まる。同じころ,京都,大坂でも私娼街がふえたが,岡場所とは呼ばず,大坂では島,外町(そとまち)といった。岡場所の各個についてみれば,100人以上の女性を抱えた小遊郭といえるものから,街娼の居住地区として周辺に出没する場所までが含まれており,規模や遊興形式などは多様であった。遊興費でいえば,銀7匁5分から銭50文の街娼まで,10倍以上の差があった。所在地域としては,三田,麻布,市ヶ谷,本郷,浅草,本所,深川など広範囲にわたり,同一地域内に数ヵ所の岡場所があることも多かった。なお,当時も品川,新宿,板橋,千住の四宿(ししゆく)を岡場所に含めているが,これらは飯盛(めしもり)女として半公認の地区であったから,他の場所とは区別して考えるべきである。寛政・天保改革における取締りでも四宿は対象外であった。岡場所が繁栄したのは,公認の吉原がもっていた格式,旧弊,高価,地理的な不便さなどの条件に対し,安価で簡便なところが客にうけたためである。吉原のように源氏名を用いず,おの字名(〈およし〉など)であったのも,親近感を与えたといえる。多くの岡場所のなかから深川が特出し,寛政期(1789-1801)には娼婦に代わって芸者が勢力を得て,辰巳(たつみ)芸者の名を高めるに至って,花柳街に一つの画期をもたらした。
→私娼
執筆者:原島 陽一
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江戸における私娼(ししょう)街の通称。公娼遊廓(ゆうかく)制を敷いた江戸幕府にとって、私娼はすべて違法な秘密売春のはずであるが、幕府の対策が不徹底であったことにも一因があり、その根絶は容易でなかった。ことに宝暦(ほうれき)(1751~64)前後からは江戸市中の各所に私娼街が出現し、それらを公認の吉原に対比して岡場所とよんだ。今日知られている岡場所は約70か所あるが、街娼出没地も含まれていて、規模などには格差が認められる。岡場所の繁栄は、潜在的な需要に応じたものといえるが、吉原に比べて近くて安いという条件が有効に作用したことも見逃せない。深川、根津などは、のちに吉原と並ぶ歓楽街に発展した。
[原島陽一]
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…一般には〈いなかことば〉の意味であるが,江戸時代には遊郭で遊女らの用いた特殊なことばづかい,および遊郭内での隠語的語彙(ごい)をさし,くるわことば,里なまり,遊里語ともいう。江戸吉原に行われたものがもっとも有名であるが,京都,大坂や岡場所でも用いられた。特殊なことばづかいを,吉原の例で示せば〈ありんす(あります)〉〈ざんす(ございます)〉などである。…
…商人のうちに平旅籠屋19軒,食売旅籠(めしうりはたご)92軒,水茶屋64軒があった。食売旅籠は食売女(飯盛女)を置くことが許されたものであり,当時品川宿には飯盛女500人を置くことが公認されていたが,それをはるかに上回る女性が接客に当たり,内藤新宿とならぶ江戸の岡場所となっていた。品川宿は町場化によって商業都市としても成長し,この地方の在郷町として発展した。…
※「岡場所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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