精選版 日本国語大辞典 「岡本かの子」の意味・読み・例文・類語
おかもと‐かのこ【岡本かの子】
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小説家、歌人。明治22年3月1日、東京に生まれる。跡見女学校入学のころより『文章世界』『読売新聞』文芸欄などに短歌、詩を投稿。第二次『新思潮』に属する次兄雪之助(大貫晶川(おおぬきしょうせん))とその友人谷崎潤一郎の影響を受ける。同女学校卒業後、1906年(明治39)与謝野鉄幹(よさのてっかん)、晶子(あきこ)の新詩社に加わり、『明星(みょうじょう)』から浪漫(ろうまん)派歌人として出発、同誌廃刊後は『スバル』同人となる。
東京美術学校の画学生岡本一平を知り、1910年結婚。翌年長男太郎誕生。平塚らいてうに誘われ青鞜社(せいとうしゃ)に参加。同社より木版手刷りの処女歌集『かろきねたみ』(1912)を上梓(じょうし)。一平が『朝日新聞』に漫画連載を始め、経済的な安定を得るが、夫妻間の自我の葛藤(かっとう)で家庭は危機に瀕(ひん)し、14年(大正3)前半、かの子は強度の神経衰弱で入院、療養生活を送る。以後宗教に救いを求め、親鸞(しんらん)のほか仏教各派を研究、独自の生命哲学に赴いた。第二歌集『愛のなやみ』(1918)刊行。以後10年ほどは仏教思想家、歌人として活躍、また戯曲や小説の試作を始める。第三歌集『浴身』(1925)。29年(昭和4)12月『わが最終歌集』を刊行後、一家でパリに遊学。ロンドン、ベルリンにも長期滞在した。32年、絵画修業中の太郎をパリに残し、アメリカ経由で帰国した。
以後も仏教関係の仕事に多忙であったが、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)をモデルにした小説『鶴(つる)は病みき』(1936)を川端康成(やすなり)の推薦で『文学界』に発表、文壇にデビューした。ついで『母子叙情』(1937)は大きな反響をよび、さらに『花は勁(つよ)し』『過去世』『金魚撩乱(りょうらん)』(ともに1937)、『老妓抄(ろうぎしょう)』(1938)、『家霊(かれい)』(1939)など死に至る短期間に代表作の数々を発表した。1938年(昭和13)12月油壺(あぶらつぼ)の宿で脳充血に倒れ、翌年2月18日没。死後『河明り』『生々流転』(1939)、『女体開顕』(1940)などの遺稿が発表された。濃密な感覚の惑溺(わくでき)と鋭く醒(さ)めた人間洞察とが交錯し、渾沌(こんとん)がやがて芳醇(ほうじゅん)なあふれる生命力に包み込まれる独特な作品世界は、伝説的な生涯の彷徨(ほうこう)の総決算を思わせる。
[田中美代子]
『『岡本かの子全集』15巻・補巻1・別巻2(1974~78・冬樹社)』▽『岡本太郎・岡本一平著『岡本かの子の世界』(1976・冬樹社)』
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