1871年(明治4)11月から1873年9月にかけて、約1年10か月、米欧12か国を歴訪した、出発時46名よりなる使節団。特命全権大使は右大臣岩倉具視(いわくらともみ)で、副使は参議木戸孝允(きどたかよし)、大蔵卿(おおくらきょう)大久保利通(おおくぼとしみち)、工部大輔(こうぶたいふ)伊藤博文(いとうひろぶみ)、外務少輔山口尚芳(やまぐちなおよし)。使節団の目的は、(1)幕末条約締盟国への国書の捧呈(ほうてい)、(2)条約改正予備交渉、(3)米欧各国の制度・文物の調査研究であったが、(2)には失敗、もっぱら(3)に専心した。使節団の特徴には、〔1〕大使・副使に明治政府の薩長(さっちょう)の実力者が加わり、理事官(各省の専門官)にはその息のかかった者が多い、〔2〕書記官に旧幕臣が参加し、旧幕時代の国際的な文化蓄積を活用している、〔3〕平均年齢は約30歳で若さと弾力性に富んでいる、〔4〕米欧各国で政治、経済、産業、軍事、社会、文化、思想、宗教などあらゆる分野の制度・文物を詳細に見聞している、等々をあげうる。その公式報告書が『特命全権大使米欧回覧実記』(全100巻、5編5冊、1878年刊)である。
使節団の帰国(ただし、大久保と木戸はそれ以前に帰国)後、この外遊派は「征韓」論に反対、明治六年の政変(10月)後は、大久保主導のもとに内務省を中心に大久保政権が成立し、米欧回覧の成果をその政策に生かそうとした。従来は条約改正の失敗ということからこの使節団の評価と位置づけは低かったが、『米欧回覧実記』をはじめとする研究の進展で、この使節団の近代日本に及ぼす影響が再検討され始めている。なお、この使節団には、金子堅太郎(かねこけんたろう)、団琢磨(だんたくま)、津田梅子ら42名の留学生が随行し、各国に留学した。
[田中 彰]
『久米邦武編、田中彰校注・解説『特命全権大使米欧回覧実記』全5冊(1977~82・岩波文庫)』
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…71年の廃藩置県で華族は政治的特権を失った。また,海外へ洋行する者も多く,同年の岩倉使節団に同行した留学生には多数の華族が含まれていた。この使節団はヨーロッパの貴族制にも関心を払い,これは帰国後の岩倉具視や木戸孝允らの対華族策となった。…
…明治維新後,政府は主権国家の名実を得るために不平等条項の改正交渉を行ったが,既得権の放棄を欲しない列国は,交渉に応ぜず,法権回復は日清戦争後の1899年,関税自主権回復は日露戦争後の1911年であった。
[岩倉使節団の交渉]
条約改正の予告期に当たる1871年(明治4),〈万国対峙〉を目的のひとつとして廃藩置県が行われた。その後,政府は条約改正の予備交渉とその前提となる近代的法治国家への改編準備のため岩倉使節団を米欧回覧に派遣した。…
…そのためには,欧米列強の実態を認識し,これをモデルとするさまざまな改革に着手する必要があった。廃藩置県後に岩倉具視を正使として,新政府の中心人物である大久保利通,木戸孝允らが副使として出発した岩倉使節団は,不平等条約の改正交渉と欧米列強の実情を見聞することを使命とした。これ以後,政府は,徴兵令,地租改正,殖産興業,学制をはじめ,政治,軍事,経済などあらゆる部門での改革を推進した。…
…明治維新を経て71年(明治4)末,岩倉具視を全権大使とする大規模な使節団が欧米に派遣され,73年5月にイタリアを訪問している。岩倉使節団は《米欧回覧実記》を残しており,そこでリソルジメントに触れているが,おそらくこれが日本での最初のリソルジメント論であろう。同書でリソルジメントの中心人物とされているのはガリバルディで,カブールやマッツィーニの名は出てこない。…
※「岩倉使節団」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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