精選版 日本国語大辞典 「岩瀬忠震」の意味・読み・例文・類語
いわせ‐ただなり【岩瀬忠震】
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江戸末期の幕臣、外交家。幕臣設楽貞丈(しだらさだとも)の三男。岩瀬忠正の養子。通称篤三郎、修理(しゅり)。蟾州(せんしゅう)、鴎所(おうしょ)と号し、伊賀守(いがのかみ)、肥後守に任ず。幕臣中の俊傑と目された忠震は老中阿部正弘(まさひろ)に登用され、部屋住の身で1853年(嘉永6)徒頭(かちがしら)となり、翌年ペリーの再来日に際し目付に任ぜられ、海防・外交の第一線にたって開国政策を推進した。56年(安政3)アメリカ使節ハリスの来日にあたっては、開港・通商のやみがたきを説き、下田奉行(ぶぎょう)井上清直(きよなお)とともに全権に任ぜられて日米修好通商条約の締結に尽力した。条約勅許を得るために老中堀田正睦(まさよし)に随行、上洛(じょうらく)したが果たさず、ついに勅許を待たず58年調印した。ついで外国奉行に就任、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間にも同様の条約を結んだ(安政(あんせい)五か国条約)。将軍継嗣(けいし)問題では、一橋(ひとつばし)派の中心人物として行動したため、大老井伊直弼(いいなおすけ)に忌まれ、五か国条約調印直後作事(さくじ)奉行に落とされ、翌年さらに免職、蟄居(ちっきょ)を命ぜられたが、直弼も忠震の外交における功績は高く評価した。勝海舟らの人材を登用し、開明派官僚の第一人者と目された。江戸・向島(むこうじま)の別邸に退き、文久(ぶんきゅう)元年7月16日病没した。44歳。
[多田 実]
『川崎三郎著『幕末三俊』(1897・春陽堂)』▽『福地源一郎著『幕末政治家』(1900・民友社)』
(井上勲)
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1818~61.7.11
幕末期の幕臣。父は設楽貞丈(しだらさだとも)。岩瀬家の養子。肥後守。老中阿部正弘に抜擢されて1854年(安政元)目付となる。海防掛などを兼務し,台場築造・大筒大船製造・軍制改正にあたる。56年7月ハリスが来日すると,交渉全権となる。58年老中堀田正睦(まさよし)と上京したが,条約勅許を得られないまま,日米修好通商条約に調印。新設の外国奉行となり,蘭・露・英・仏各国との通商条約調印の全権。一橋派だったため同年作事奉行に左遷され,翌59年差控となる。
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