島田正吾(読み)シマダ ショウゴ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「島田正吾」の解説

島田 正吾
シマダ ショウゴ


職業
俳優

本名
服部 喜久太郎(ハットリ キクタロウ)

生年月日
明治38年 12月13日

出生地
神奈川県 横浜市保土ケ谷

学歴
明星商〔大正12年〕卒

経歴
横浜に生まれるが、父の仕事の都合で関西に移る。大正12年17歳の時に大阪の明星商を卒業して上京、沢田正二郎主宰の新国劇に入り、入座2日目に「井伊大老の死」の駕籠かき役で初舞台を踏む。13年青年部、昭和2年には幹部に進み、4年沢田が急逝すると若干22歳ながら辰巳柳太郎と共に後継者に抜擢される。以来、“辰巳の剛”と“島田の柔”、“天才肌の辰巳”“学究肌の島田”と比較され異なる個性を持つ終生のライバルとなった辰巳とともに二枚看板として活躍。入念な役作りで神経の行き届いた内省的な演技と、重厚で品格のある舞台姿が持ち味で、「人生劇場」「修善寺物語」「殺陣師段平」「沓掛時次郎」「王将」などの作品を次々と上演、中でも長谷川伸作品の股旅物、「関の弥太っぺ」の弥太郎、「瞼の母」の番場忠太郎、「一本刀土俵入」の駒形茂兵衛などを生涯の当たり役とし、劇団の第2次黄金時代を築いた。戦後は北条秀司「霧の音」、竹山道雄ビルマの竪琴」などの文芸作品や「松川事件」といった社会的な作品も手がけ、それまでの義理人情芝居と迫力の殺陣を売り物とした男性路線の新国劇に新生面を開く傍ら、劇団の十八番作品の映画化にも出演。この間、29年に劇団が一度倒産、その後再建したが苦しい経営が続き、62年創立70周年を機に解散した。その後は脚本・演出すべてを手がけるひとり芝居をライフワークとし、平成3年新国劇の十八番であった「白野弁十郎」(シラノ・ド・ベルジュラックの翻案)を公演。4年同作のパリ公演を行い、フランス政府から芸術文化勲章シュバリエ章を受章。以後毎年5月に新橋演舞場で「瞼の母」「王将」などの十八番作品を演じ、最後の舞台となった14年96歳の「夜もすがら検校」まで12年間12作品を上演、最晩年まで“たったひとりの新国劇”の灯を護り続けた。14年8月脳こうそくで倒れた後も“白寿(99歳)でのひとり芝居”を目標に療養に努めたが、16年98歳で亡くなった。映画には昭和26年山田五十鈴と共演した「夏祭三度笠」で初主演。他に「武蔵小次郎」「鞍馬天狗・青面夜叉」「叛乱」「消えた中隊」「大利根夜霧」「六人の暗殺者」「日本のいちばん長い日」「八甲田山」「日本の黒幕」、テレビ「勝海舟」「あにき」「十時半睡事件帖」「ひらり」などに出演、7年には歌舞伎に初挑戦し、「建礼門院」の後白河法皇を演じた。自伝に「ふり蛙」がある。

受賞
芸術選奨文部大臣賞〔昭和49年〕 紫綬褒章〔昭和44年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和51年〕,フランス芸術文化勲章シュバリエ章〔平成4年〕 毎日演劇賞〔昭和33年〕,長谷川伸賞(第17回)〔昭和57年〕,松尾芸能賞(演劇特別賞 第4回)〔昭和58年〕,菊田一夫演劇賞(第9回)〔昭和59年〕,菊池寛賞(第40回)〔平成4年〕,NHK放送文化賞(第46回 平6年度)〔平成7年〕,坪内逍遙大賞(第2回)〔平成7年〕,東京都文化賞〔平成10年〕,真山青果賞(大賞 第18回)〔平成10年〕,松尾芸能賞特別顕彰(第20回)〔平成11年〕,大山康晴賞(個人部門 第6回)〔平成11年〕「王将」,浅草芸能大賞(第17回 平12年度)〔平成13年〕,東京都名誉都民〔平成13年〕

没年月日
平成16年 11月26日 (2004年)

伝記
芝居の神様―島田正吾・新国劇一代再会の手帖―また逢いたい男たち男たちの詩新国劇元気のでてくることばたち!一流の極意―斉藤栄三郎『TV訪問』対談集冬の薔薇ふり蛙―新国劇70年あれこれ 吉川 潮 著関 容子 著牛尾 治朗 著真鍋 秀夫 著村上 信夫 著斉藤 栄三郎 編秋山 ちえ子 著島田 正吾 著(発行元 新潮社幻戯書房致知出版社元就出版社近代文芸社双葉社三月書房朝日新聞社 ’07’07’06’05’99’94’94’88発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「島田正吾」の意味・わかりやすい解説

島田正吾
しまだしょうご
(1905―2004)

俳優。横浜市保土ケ谷(ほどがや)生まれ。本名服部(はっとり)喜久太郎。大阪の明星商業卒業後の1923年(大正12)新国劇の沢田正二郎門下に入り、たちまち頭角を現して1927年(昭和2)には幹部に昇進。1929年3月の沢田の急逝後その後継者に抜擢(ばってき)され、同年『白野弁十郎(しらのべんじゅうろう)』『沓掛(くつかけ)時次郎』を演じて好評を博し、辰巳(たつみ)柳太郎とともに新国劇の中心となった。『関(せき)の弥太(やた)っぺ』『瞼(まぶた)の母』などの股旅(またたび)物を得意とする一方、『霧の音』『ビルマの竪琴(たてごと)』などの現代劇にも、独特の台詞(せりふ)回しによる渋味のある重厚な芸風を示してきたが、1987年、新国劇創立70周年を契機に劇団は倒産消滅。盟友辰巳も1989年(平成1)没した。その後は一人芝居を続けるほか、テレビ、歌舞伎の舞台でも活躍した。毎日演劇賞(1958)、芸術選奨文部大臣賞(1974)、勲四等旭日小綬章(きょくじつしょうじゅしょう)(1976)、フランス政府よりフランス芸術文化勲章シュバリエ章(1992)、菊池寛賞(同)、東京都文化賞(1998)、真山青果大賞(同)などを受けた。

[藤田 洋]

『島田正吾著『芝居ひとすじ』(1996・岩波書店)』『島田正吾著『ふり蛙 新国劇七十年あれこれ』(朝日文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島田正吾」の意味・わかりやすい解説

島田正吾
しまだしょうご

[生]1905.12.13. 神奈川,横浜
[没]2004.11.26. 東京,目黒
俳優。本名服部喜久太郎。 1923年新国劇に入る。沢田正二郎の急逝後,後進で対照的な芸風の辰巳柳太郎と協力して新国劇をもりたてた。リアルで堅実な演技で,また旅物を得意とし,『瞼の母』の忠太郎や『殺陣師 (たてし) 段平』などあたり役は多い。 1987年の解散後は広く商業演劇で活躍する一方,1991年には『シラノ・ド・ベルジュラック』の翻案一人芝居である『白野弁十郎』をパリで公演。 1969年紫綬褒章,1974年芸術選奨文部大臣賞,1992年フランスのレジオン・ドヌール勲章を受けた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島田正吾」の解説

島田正吾 しまだ-しょうご

1905-2004 昭和-平成時代の俳優。
明治38年12月13日生まれ。大正12年沢田正二郎の内弟子となり,師の没後辰巳柳太郎とともに新国劇の看板スターとなった。剣劇のほか「霧の音」「ビルマの竪琴」のような新作も手がけ,映画にも出演。昭和62年新国劇解散後も舞台,テレビで活躍。平成3年から一人芝居を上演。4年菊池寛賞,10年東京都文化賞。平成16年11月26日死去。98歳。神奈川県出身。明星商業卒。本名は服部喜久太郎。

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367日誕生日大事典 「島田正吾」の解説

島田 正吾 (しまだ しょうご)

生年月日:1905年12月13日
昭和時代;平成時代の俳優
2004年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の島田正吾の言及

【新国劇】より

…24年に金井,田中らが沢田の相手役として活躍していた女優の久松喜世子(きよこ)(1886‐1977)と対立して退団,翌年には渡瀬淳子が離れたが,高田保脚色《白野弁十郎》(《シラノ・ド・ベルジュラック》の翻案・脚色),真山青果《桃中軒雲右衛門(とうちゆうけんくもえもん)》などで大衆劇の新境地を開き,前進を続けた。しかし,29年3月4日に沢田が急死,劇団は一時,危機に見舞われるが,若い島田正吾(1905‐ )と辰巳柳太郎(たつみりゆうたろう)(1905‐89)の抜擢が功を奏して人気を呼び,引き続き劇界に確固たる地位を占めた。第2次世界大戦中は吉川英治原作の《宮本武蔵》などで切り抜け,戦後は北条秀司(ほうじようひでじ)(1902‐96)の《王将》《霧の音》などの名作を得て人気を保ってきたが,創立50周年を迎えたころから,大幹部の島田,辰巳の高齢化,若手の脱退で衰退にむかい,79年9月,株式会社新国劇は倒産。…

【関の弥太っぺ】より

…1929年(昭和4),総帥の沢田正二郎が急死して危機にあった新国劇のために長谷川伸が書き下ろした戯曲で,8月,帝国劇場で初演され好評を博した。主人公の関の弥太郎は,のちに島田正吾の当り役になった。長谷川伸に心酔していた講釈師服部伸(1880‐1974。…

※「島田正吾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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