川島芳子(読み)カワシマヨシコ

デジタル大辞泉 「川島芳子」の意味・読み・例文・類語

かわしま‐よしこ〔かはしま‐〕【川島芳子】

[1907~1948]満蒙の独立運動家。清朝王族の粛親王の第14王女。大正2年(1913)、川島浪速なにわ養女となり来日。昭和初め、清朝の再興を画策し上海に渡り、日本軍の工作員として諜報活動に協力。日本の敗戦後、中国で逮捕され国賊として銃殺された。本名愛新覚羅顕㺭あいしんかくらけんし、中国名は金璧輝東洋マタ=ハリ男装の麗人とも呼ばれた。

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20世紀日本人名事典 「川島芳子」の解説

川島 芳子
カワシマ ヨシコ

大正・昭和期の満蒙独立活動家 日中戦争下で活躍した男装のスパイ



生年
明治40(1907)年5月24日(光緒33年4月12日)

没年
昭和23(1948)年3月25日

出生地
北京

本名
愛新覚羅 顕〓

別名
中国名=金 璧輝,東 珍,前名=川島 芳麿

学歴〔年〕
松本高女卒

経歴
清朝王族・粛親王の第14王女として生まれるが、大正2年5歳の時満蒙独立運動の“国士川島浪速の養女となる。9歳で来日。豊島師範附属小から跡見高女、さらに松本高女に移る。その後、断髪、男装し、後の“男装の麗人”の芳子像を形づくる。10年蒙古のパンジャップ将軍の遺児カンジュルジャップと結婚するが、間もなく離婚。昭和2年上海に渡り、日本軍特務機関の田中隆吉少佐と知り合い、“X14号”として日本軍の情報活動に従事。7年満州国建国とともに満州に移り、天津にいた満州国皇帝溥儀の妃・秋鴻連れ出しなどに暗躍。さらに匪賊討伐の司令官となる。20年11月北京で国民党政府に捕えられ、23年3月25日漢奸として銃殺刑に処せられた。“東洋のマタ・ハリ”と呼ばれた。著書に「動乱の蔭に―私の半生記」がある。平成8年銃殺直前の自白書が公開された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「川島芳子」の意味・わかりやすい解説

川島芳子【かわしまよしこ】

日中戦争下のスパイ。中国清朝末の皇族粛(しゅく)親王善耆(ぜんき)の第14王女。金璧輝(きんへきき)とも名乗る。1914年大陸浪人川島浪速(なにわ)の養女となり,日本で教育を受ける。1927年蒙古の将軍パプジエルチャップの次男と結婚,1年余で離婚。離婚後は男装を通し世間の注目を浴びた。清朝の再興を期し,陸軍特務機関の田中隆吉(たかよし)のもとで諜報活動に従事。1931年満州事変が起こると,元宣統帝溥儀(ふぎ)の妃婉容(えんよう)を天津から大連に脱出させ,翌年上海事変勃発の契機となる日本人僧侶襲撃事件を仕組むなど,その工作活動から〈東洋のマタ・ハリ〉と呼ばれた。1948年漢奸として中国で処刑

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「川島芳子」の解説

川島芳子 かわしま-よしこ

1907-1948 昭和時代前期の満蒙独立運動家。
光緒33年4月12日生まれ。粛親王善耆(ぜんき)の第14王女。川島浪速(なにわ)の養女となり,大正2年(1913)来日。昭和のはじめ,清(しん)朝の再興を期して上海にわたる。以後,日本軍に協力して情報活動に従事し,男装の麗人とも東洋のマタハリともいわれた。日本敗戦後,国民政府軍に捕らえられ,昭和23年3月25日銃殺された。42歳。北京出身。松本高女卒。中国名は愛新覚羅顕〓(“王へん”に「子」)(あいしんかくら-けんし)。別名に金璧輝。
【格言など】家あれども帰るを得ず,涙あれども泣く所を得ず(遺書)

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367日誕生日大事典 「川島芳子」の解説

川島 芳子 (かわしま よしこ)

生年月日:1906年4月12日
大正時代;昭和時代の満豪独立活動家
1948年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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