川越藩
かわごえはん
武蔵(むさし)国入間(いるま)郡川越(埼玉県川越市)を藩庁とした藩。江戸に近い支城として重視され、幕閣重臣が配置された。城主は1590年(天正18)入封の酒井重忠(しげただ)以後、酒井忠利・忠勝、堀田正盛(ほったまさもり)、松平(大河内(おおこうち))信綱(のぶつな)以下3代、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)、秋元喬知(たかとも)以下4代、松平(越前(えちぜん)家)朝矩(とものり)以下7代、松平(松井)康英(やすひで)以下2代の8家21代を数える。うち松平朝矩以下7代が越前家分家の家門である以外は譜代(ふだい)大名。
領分高は酒井重忠の1万石以来増加し、最大は松平(越前家)斉典(なりつね)のとき1831年(天保2)以降の17万石。城付領は4~5万石で、酒井忠利のときその中核が形成された。1638年(寛永15)大火の翌年入封の松平信綱時代、川越城再建拡張、城下町復興と町制整備、新河岸(しんがし)川舟運の開設、荒川治水、慶安(けいあん)総検地、武蔵野開発と野火止(のびどめ)用水開鑿(かいさく)が行われて藩政が確立した。武蔵野は柳沢吉保時代も開発が行われ、三富(さんとめ)新田が成立した。秋元氏時代は養蚕、織物、柿(かき)、いもなどが奨励されたが、藩財政窮乏が深刻となった。松平斉典の藩政改革は御用達(ごようたし)商人横田家を勘定奉行(かんじょうぶぎょう)格とし藩士に半知借上(かしあげ)を実施、副業指導など農村復興にあたったが、1820年(文政3)武州領の一部が相模(さがみ)に替地となり、海防負担は藩財政を圧迫した。1830年川越・出羽庄内(でわしょうない)・越後(えちご)長岡の三方領知替え命令が出されたが、庄内藩農民の反対闘争で撤回され、翌年2万石加増(計17万石)。1867年(慶応3)松平康英が入封。大政奉還、戊辰(ぼしん)戦争に老中を辞し恭順の意を表したが、近江(おうみ)領を没収された。養子康載(やすとし)は版籍奉還し藩知事就任。1871年(明治4)廃藩、川越県、入間県、熊谷県を経て76年埼玉県に編入。
[大野瑞男]
『『川越市史 第3巻 近世編』(1983・川越市)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
かわごえはん【川越藩】
江戸時代、武蔵(むさし)国入間(いるま)郡川越(現、埼玉県川越市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。ただし、後期の松平氏は越前家分家で親藩(しんぱん)。藩校は博喩堂(はくゆどう)。江戸に近い支城として重視され、幕府重臣が配置された。1590年(天正(てんしょう)18)の徳川家康(とくがわいえやす)関東入国の際、譜代の酒井重忠(しげただ)が1万石で入封(にゅうほう)、立藩した。その後、酒井忠利(ただとし)・忠勝(ただかつ)、堀田正盛(ほったまさもり)に続き、松平信綱(のぶつな)以下3代、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)、秋元喬知(あきもとたかとも)以下4代、松平(越前(えちぜん)家)朝矩(とものり)以下7代、松平(松井)康英(やすひで)以下2代の8家21代が、幕末まで2万石から17万石の間で続いた。歴代藩主は武蔵野開発による新田開発、舟運の開設、また養蚕や絹織物の増産などに取り組んだ。1871年(明治4)の廃藩置県で川越県となり、その後、入間(いるま)県、熊谷(くまがや)県を経て、76年埼玉県に編入された。
出典 講談社藩名・旧国名がわかる事典について 情報
川越藩
かわごえはん
江戸時代,武蔵国入間 (いるま) 郡川越地方 (埼玉県) を領有した藩。慶長 14 (1609) 年,先に在封した酒井氏が2万石で入封,のち4万石となり,松平 (大河内) 氏6万石,柳沢氏7万 2000石,秋元氏5万石 (4代,64年間) と続き,明和4 (1767) 年から越前家支流松平氏が 15万石で在封,慶応2 (1866) 年家門松平 (松井) 氏が8万石で入封し,廃藩置県にいたる。松平 (松井) 氏は江戸城帝鑑間詰。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
かわごえはん【川越藩】
武蔵国(埼玉県)入間郡川越に藩庁を置いた譜代中藩。ただし後期の松平家は越前家分家の親藩。江戸に近い番城として老中などの重臣が配置された。1590年(天正18)酒井重忠が川越城1万石を領したのが藩の起りである。重忠は城下町の諸役を免除し商人の集住を図ったが,1601年(慶長6)上野国厩橋(まやばし)に移った。09年弟忠利が2万石で入封,検地を実施し,仙波喜多院を復興,三芳野天神社を建立した。忠利没後,嫡男の武蔵国深谷城主で老中忠勝が遺領を合わせ8万石で襲封した。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
川越藩
武蔵国、川越(現:埼玉県川越市)を本拠地とした藩。川越城は江戸に近い支城として重視され、藩祖酒井重忠以降、藩主には徳川の重臣が配置された。歴代藩主は武蔵野開発、野火止用水開削、舟運開設や荒川治水事業などを行い、養蚕・絹織物・柿やイモの栽培などを奨励した。
出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
世界大百科事典内の川越藩の言及
【前橋藩】より
…この間,主を失った城下町は衰え,農村も1783年の浅間山大噴火(浅間山)前後から荒廃が進んだ。川越藩でも財政破綻に苦しみ,相模湾警備の任などが加わって借財が幕末50万両を超えた。1840年(天保11)には画策した出羽庄内への転封に失敗,その代償に2万石加増となったが,幕末の藩主直克は改めて前橋城再築を請願し,67年(慶応3)帰城した。…
【松平信綱】より
…すなわち武家諸法度の改訂,参勤交代の制度化,鎖国の完成,牢人問題の処理,寛永の飢饉後の幕政改革に参画した。川越藩政の確立にも大きく寄与し,38年川越大火後の城郭修築拡張,城下町の町割と10ヵ町4門前制整備,喜多院・仙波東照宮再建,新河岸(しんがし)舟運開設,荒川・入間川治水,48年慶安総検地の実施,野火止用水開削と武蔵野開発,勧農政策などに努めた。また出羽庄内藩の幼主酒井忠義の外祖父として後見,藩内紛争を処理,その指示により農政策を建てた結果,同藩の体制は急速に整備された。…
※「川越藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報