日本大百科全書(ニッポニカ) 「市川厚一」の意味・わかりやすい解説
市川厚一
いちかわこういち
(1888―1948)
病理学者、畜産学者。茨城県生まれ。1913年(大正2)東北帝国大学農科大学(札幌農学校を改称、北海道大学農学部の前身)畜産科を卒業。東京帝国大学医学部病理学教室で山極勝三郎(やまぎわかつさぶろう)教授の実験助手となり、ウサギの耳にコールタールを反復して塗る発癌(はつがん)実験に従事した。200~500日間全経過を観察、ついに世界で初めて人工的に皮膚癌をつくることに成功し、1915年(大正4)山極・市川の連名で第一報を公表した。この研究で1919年、山極とともに帝国学士院賞を受賞。1925年北海道帝国大学農学部教授となり畜産学科に比較病理学講座を創設、家畜病理学について多くの業績をあげた。発癌実験に成功したころ「北極」と号した市川は「世捨人三五の糧(かて)に生くるとも鏡下に見ゆるものは錦繍(きんしゅう)」と歌ったが、「三五の糧」とは、月に15円の借金をして苦学していたからである。
[本田一二]