精選版 日本国語大辞典 「帆船」の意味・読み・例文・類語
ほ‐ぶね【帆船】
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風力を利用して帆で走る船。帆前船(ほまえせん)、帆掛(ほか)け船(ぶね)、帆走船(はんそうせん)ともいう。
[茂在寅男]
帆船の法律上の定義は、法律の目的に応じて規定されており、それぞれに内容には微妙な差違がある。すなわち船舶法施行細則第1条においては「主トシテ帆ヲ以(もっ)テ運航スル装置ヲ有スル船舶ハ機関ヲ有スルモノト雖(いえど)モ之(これ)ヲ帆船ト看做(みな)ス」と規定されている。また海上衝突予防法(1983年4月5日改正)第3条においては「この法律において『帆船』とは、帆のみを用いて推進する船舶及び機関のほか帆を用いて推進する船舶であって帆のみを用いて推進しているものをいう」と規定されている。
[茂在寅男]
人間が船を帆によって推進するようになったのはいつごろからであるかということは確実にはいえない。しかし船が風下に流されるという事実の認識から、最初は幅の広い植物の葉などを広げ、これに風を受けて風下に船を進めるという着想は、当然船が世に現れてまもなくあったものと思われる。少なくとも船の前に使われた筏(いかだ)も帆をつけて走ったことは証明されている。中国では、紀元前2000年ごろには帆を使っていたとされている。古代甲骨文字の一つに「凡」の字があるが、これは形から帆を表し、船首尾線に対して直角方向に立てた2本のマストの間に面をつくる形の帆が原形であるという。この形の帆はパプア・ニューギニアなどで現在も使用されている。材質は、記録では前漢(前202~後8)時代に莚(むしろ)が使われていたとある。これが布に発達して航行用とされるのは紀元後4世紀ごろからで、「帆」の字で表されるようになった。その読みはいずれにしてもfanであったことから帆船ということばが生まれた。莚帆から布帆に至る段階において、網代帆(あじろぼ)が使われた。これは薄く削った竹を斜めに編んで帆としたものである。場合によってはそれを二枚あわせて、その間にササの葉や莚を挟み込み、扇のように折り畳んで帆柱から帆を下ろすことができるようにしたものもあった。7世紀以後の遣唐使船などは、長期にわたってこの網代帆を使用していたことが知られている。
[茂在寅男]
帆の形は、大別して横帆(おうはん)と縦帆(じゅうはん)とに分けられる。マスト(帆柱)を船首尾線上に立て、同線と直角になるように張る帆が横帆で、日本の伝統的な帆掛け船すなわち大和(やまと)型帆船はこの方式である。これは追い風に都合がよく、逆風のときは帆を下ろし、櫓櫂(ろかい)で漕(こ)いで船を進めることが必要である。また船首尾線方向にマストから後方に向かって張る帆が縦帆で、帆走ヨットの大部分がこの方式である。これは逆風の場合にも、帆の操作だけで船を風上の方へ進めることができる点に長所がある。帆船の形態の発達は、基本的には横帆と縦帆の組合せ方によったともいえる。
[茂在寅男]
絵として完全な帆船の姿を残している太古の船は、紀元前2000年前後のエジプトのナイル川の帆船を描いた壁画によってようすがわかる。船体の中央より前の方にA字形に組み合わせたマストを立ててステー(支索)によって前後に支え、これにヤード(帆桁(ほげた))で支えた一枚の横帆を張ったものである。その絵には船首に測深棒を持ったパイロット(水先案内人)、船尾には櫂で舵(かじ)をとっている舵取りが描かれている。また航洋帆船としては、前1500年ごろのハトシェプスト女王時代のものが、テーベの神殿の壁画として残っている。その全長は21.5メートルと推定され、これによってプント(北ソマリア)へ五隻の船団をもって貿易のための航海をしたと碑文に書かれている。さらにギリシアで発掘された「黒絵の酒杯」に描かれた前700年ごろのガレー船などで、西洋における古代帆船のようすが知られる。
東洋では中国におけるジャンクと称する帆船が、紀元前からその形態を確立して広く使われた。西洋の古代帆船の大部分が横帆方式であったのに対し、中国のジャンクは基本的に縦帆方式で発達した。その船体構造は、船首尾線に対して直角に垂直板を固定的に何枚か設置して隔壁をつくり、これによって浸水に対する安全とともに船体の横強度を強めた点に特徴がある。またキール(竜骨)の有無については、従来平底でキールのないもののみが知られていたが、河川用ジャンクは平底が大部分であるものの、航洋ジャンクは宋(そう)、元(げん)時代においてすでにキールの役目をする縦通材が船底中央に設置されていたことが、1973年に福建省泉州沖から発掘された古船によって確認された。現在のジャンクも航洋船(主として南中国のもの)はこの方式のものが多い。
日本においては、古墳壁画などによって古墳時代以前の船のようすがわかるが、帆船としての船絵は少ない。しかし福岡県珍敷塚(めずらしづか)古墳壁画や、同所近くの鳥塚古墳の壁画などには、帆と思われるものが描かれている。そのほか実際には櫂も帆も描かれていない船絵の壁画が多くみられるが、そのなかには双胴船(カタマラン船)が相当あり、これらは基本的に帆船であったであろうと推定される。
[茂在寅男]
実質的な帆船の大きな発達は、15世紀のポルトガルのエンリケ航海王子以来開始されたといえる。彼はインドへの新航路発見を一生の仕事と考え、これについてあらゆる努力をしたが、そのなかの一つに帆船の改良があった。それまでの帆船は、追い風のときには横帆をあげることによってよく走ったが、逆風になった場合には帆を下ろして櫂で漕がなければならなかったために、船体を大型にすることができなかった。しかしエンリケは、当時地中海の東部レバント地方で漁船が使用していた三角帆すなわち縦帆の有効性に着目し、これを航洋船に取り入れることによって、逆風に対しても櫂を使わずに、帆の操作のみによって船を進めることが可能であることを確認した。これによって3本マストに縦帆を張ったキャラベル船を大型につくることに成功した。
しかしその後、縦帆(南方型)船が逆風には都合がよいが、追い風のときに効率が悪いことを知り、3本マストのいちばん前にだけ横帆(北方型)を張り、また同時に横帆も、帆桁をマストを支点として回転できるようにして船首尾線に対して自由な角度に張れるようにし、効率のよい大型帆船へと改良を加えていった。エンリケの時代から約200年間で、十数人乗り程度の小型船が100トンほどのものにまで大型化することができた。これによって、いわゆる大航海時代の実現をみるに至った。
しかし、帆船としての目覚ましい活躍期は、アメリカのフルトンが1807年にハドソン川において初めて蒸気船を走らせ、交通革命を開始した後で、「帆船の黄金時代」とよばれた時期であった。
19世紀に入るとともにアメリカの発展は目覚ましく、それに伴い交通量が激増した。そのため、それまで大型船と考えられていた400トン程度の船が1840年ごろには1000トンを超し、1850年には2500トン級にまで大型化した。さらに1848年カリフォルニアに金鉱が発見されてゴールド・ラッシュが起こり、アメリカ東西間における人や物資の運搬が、陸上輸送よりは、ホーン岬の南を回っても海上輸送のほうが勝ったことから、ここに一つの大型快速帆船競争がおきた。このアメリカの快速帆船はホーン・クリッパーとよばれた。
一方、オーストラリアでも1851年に金鉱が発見され、イギリスの快速帆船の出現を刺激した。これは、イギリス船によるオーストラリア往復輸送が多くなったためである。その復路、オーストラリアから羊毛を大量に運んだことからウール・クリッパーとよばれた。さらに自由貿易主義の発展によって、中国から新茶をイギリスへ輸送するためのティー・クリッパーとよばれた船で、一刻を争う快速輸送競争が大規模に行われるようになった。
以上の競争のために、船体も帆装も大きな変化をおこした。まず船首の形状は、クリッパー型船首という帆船に最適の形が生み出された。横から見ると上部が長く前方に突き出した形で水切りをよくし、バウスプリット(槍(やり)出し――船首から斜め前方に突き出している円材)も、船の大きさに対して帆を張る面積を大きくするためにもっとも有効な形につくられた。
[茂在寅男]
船体材質については、最初木造だったものが木鉄構造船となり、最後には鉄船が多くなった。マストやヤードについても木から鉄にかわった。
帆装については、16世紀におけるシップ型帆船から発達してバーク型になり、一方キャラベル船から発達してバーケンティン型が生まれた。また、それまで一枚だったトップスルとトゲルンスルを上下二枚にし、トゲルンスルの上にロイアルをあげるのは当然のこととなった。それに各帆の横には、袖(そで)になる形でスタンスルという追加の帆を張り、船の両側外部下には、水面近くまでウォータースルという帆を追加した。また速力を増すため、ロイアルの上にスカイスルを追加、さらにその上にムーンスルと名づけた小横帆を追加した。こうして、帆船ながら22ノット(時速40.7キロメートル)のレコードを樹立した船(1853。ソブレイン・オブ・ザ・シーズ号)もあった。
しかし、1869年のスエズ運河の開通によって、この帆船黄金時代には終止符が打たれ、航洋船は日程どおり航海できる汽船にその座を譲った。これは1914年にパナマ運河が開通したことによって決定的なものとなった。
その後においては、沿岸用の小型輸送船のほか、スポーツ用のヨットなどに帆船の名残(なごり)をとどめることとなったが、航海に関する基本的な事項を学べることと、自然から学ぶロマンが帆船によってこそ得られるという観点から、各国とも練習船(日本では日本丸、海王丸など)として大型帆船をもつようになって今日に至っている。
さらに、自然力を利用する帆船にもう一度注目して、1978年度(昭和53)から日本舶用機器開発協会が開発を進めた新しいタイプの「省エネルギー船」の一つとして建造した、帆走貨物船が成功を収めていることも無視できない。1986年現在、日産丸(699総トン、2098排水トン、全長77メートル)など2000排水トン級の内航船が多いが、2万トン級の船も建造中である。
[茂在寅男]
は、たらいの真ん中にマストを立てた場合であるが、これは帆をどのように張ろうともたらいは単に風下に流されるだけである。しかし のように船の場合は、船首尾方向にだけ動きやすいようにできている。これを横方向へは全然動けずに、前後方向にだけしか動けないと仮定して理論を考えると考えやすい。そしてその中央にマストを立てた場合を考えたのが である。帆を風に対して直角に張れば、船がどちらを向いているかによって、その船の動きが図のようになることが理解されよう。この場合に帆の張り方を のようにすると船は前進するのであるが、その理論をベクトルを使って (1)′(2)′、 で説明する。 の場合は、かならず風が帆の裏側から入って帆を前の方へ膨らます形でなければならず、 の(3)や(4)の形では前進しない。もし帆が平板であるとすると、風の方向と船首方向との二等分線上に帆の面がくるようにすれば前進力は最大に得られることになる。しかし実際には帆の形は平板ではないので若干の相違はある。 -(2)について説明すると、ベクトル図は -(1)になる(角度の関係は -(2)′)。風の全力をaで示すと、帆の面に直角なcと帆の方向bの二つに分けられる。bは単に流れ去るだけで、cによって帆は裏から表の方へ押される。このcの力を -(2)ではわかりやすくするために若干大きく示したが、これは船首方向へのdと、横方向へのeの二つの力に分けられる。 で示したように、船は前後方向に動きやすく、左右に動きにくくできているので、dによって船首方向に向かって進むのである。eの力で横流れするのを防ぐために、帆船では水に深く入るキールやセンターボードをつける。
[茂在寅男]
まず法規のうえからみれば、帆船といえどもその船体構造などについては、基本的に一般船舶に要求される船体構造と設備などに関する規程のすべてを満足しなければならない。そのうえで、帆船には帆船独特の規程(たとえば船舶設備規程145条など)が若干加わることになるが、その詳細については管海官庁の指示によるとされる部分が多い。ここでは、帆船特有の特徴ある甲板とマストについてのみ解説することとする。
[茂在寅男]
キールとともに、船の前後方向の力すなわち縦強度の主力となる意味ももち、船首から船尾まで段差のない全通甲板がその中心的役割を果たす。また同時に、雨水や波浪に対して水密方式になっている。甲板は、木甲板と鋼甲板とに大別される。木甲板は、木または鋼材のビーム(梁(はり))の上、または鋼甲板の上面に木材(チーク材)を張る方式のもので、乗組員にとって接触感覚がよいこと、防熱効果が高いことなどの利点があるが、材料が高価であるため近年は鋼甲板のままのものが多くなった。また帆船時代に出現した数層になっている甲板や、フォックスルデッキ(船首楼甲板)、ウェルデッキ(井戸型甲板)、プープデッキ(船尾楼甲板)など部分的に分けてつくられている甲板は、現在の汽船においてもそれらの原型を踏襲しているものが多い。
[茂在寅男]
初期におけるマストは、1本の木で1本のマストとしたが、船体の大型化が進むにしたがってマストを1本の木ですますことは困難になってきた。そこで何本かの木を束にして鉄帯で締め付けて1本にしたマストが、キャラック船(15~16世紀に地中海沿岸で用いられた大型武装帆船で、ガレオン船の一種)時代から現れた。その次の段階として、縦に3本ほどの短いマストを継ぎ合わせて長いマストをつくりあげる方式が採用され、現在に至っている。その継ぎ合わせ方としては、ロアーマスト(最下部)の上部前方に次のマストの足がくるようにしてトップマスト(中間部)を継ぎ足し、さらにその前方に次のマストの足がくるようにしてゲルンマスト(最上部)を継ぎ足す。また風の力はかならずマストの後方から前方へ押す形になるので、これに対する強度を増すために、マスト全体を若干後方に上部が傾く形でこれを立てる。このためステーも、マストの両側へ、マストより後方に何本もの索でこれを引き止める形をとるが、前方へは各マストごとに1本ずつのステーを船体中央部にとるのにとどまる。以上のことはバウスプリットについてもいえる。
[茂在寅男]
『茂在寅男著『船と航海』(1972・ポプラ社)』▽『山口良次著『帆船』(1972・毎日新聞社)』▽『田中航著『帆船の時代』(1976・毎日新聞社)』▽『篠原陽一著『帆船の社会史』(1983・高文堂出版社)』▽『荒川博著『帆船への招待』(1986・海文堂)』
ハトシェプスト女王の船
レバント地方の船
ラテン式キャラベル船
キャラック船
ガレオン船
クリッパー船
帆船の構造
帆船の艤装例
帆船のおもな帆装形式
帆船の帆走原理〔図A〕
帆船の帆走原理〔図B〕
帆船の帆走原理〔図C〕
帆船の帆走原理〔図D〕
帆船の帆走原理〔図E〕
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出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
…古代エジプトやバビロニアでは,すでに運河が造られ,帆を用いる船が使われていた。海という通路と風という自然の力を使う帆船は,古代オリエント社会でもっとも便利な交通手段であった。紀元前600年ごろ,地中海には帆と櫂(かい)を使った軍船(ガレー船)が往来した。…
…これは古代以来の伝統をもつ軍用船であるが,商船としても用いられた。重い商品は帆船で輸送された。最近の研究では香料のほかに塩,ブドウ酒,穀物,皮革など日常生活に必要な品物が大量に輸送されていたことが指摘されている。…
…すでに遣唐使の記録から推察されるように,7世紀には中国や朝鮮半島には当時の日本よりはるかに優れた大型船建造の技術があった。しかしそれはおそらくサンパンを基本とする北方系の箱形構造船であり,前述のアラブ船の影響を受けて,より航洋性の高い南方中国系の帆船ができ上がるのは8~9世紀のことではないだろうか。次の宋代になると書かれた記録があり,また1973年に福建省で12世紀と推定される実物が発見されたので船型,構造がかなりよくわかってきた。…
※「帆船」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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