翻訳|imperialism
帝国主義という言葉は多様な意味に使われてきたが,それは次の三つに大別できる。第1は,他民族や他国の領土に対して支配を拡張したり権力を行使する政策やそのような事実そのものを指す。たとえば,侵略戦争,植民地拡張,他国への強権的な権力行使などを意味する。しかし,事実の指摘にとどまらず,第2に帝国主義という概念は,この支配の対外的な拡張を呼び起こす原因や傾向を示すためにも用いられる。植民地拡大を求める人々の意志,国内で過剰になった資本の投資先を海外に求めること,ジンゴイズムjingoism(排外的愛国主義)のような好戦的な愛国主義などが帝国主義と呼ばれたのはその例である。第3に,さらにこの要因を特定して,国内の社会経済構造が対外的な支配の拡張と関連していると考える論者は,国内体制の構造的な特質を帝国主義と規定する。レーニンが後述のように〈資本主義の最高段階〉(独占資本主義状態)として帝国主義を規定したのは,その代表例である。
また,この言葉は日常の政治生活で敵を非難するために用いられたり,多様な使われ方をするために混乱をもたらす場合も多いが,社会科学の用法では,帝国主義は戦争,植民地支配,経済的従属などの国際的な対立や支配がどのような権力の特質によって生じているかを発見し,研究の焦点を定める際の嚮導(きようどう)概念として有用である。とりわけ経済企業の活動も,政治権力の浸透力も世界的規模で展開されるに至った現代の国際的な権力構造を巨視的に分析するうえで意味がある。
帝国主義概念が現代の政治・経済の用語として定着するのは19世紀後半以降である。しかし,この概念が背負っている歴史的意味を鏡として現代的な諸現象が映し出されてきたので,この言葉の歴史的含意を整理しておく必要がある。
帝国主義の起源は古代ローマのインペリウムにさかのぼる。ここでは共和政ローマから帝政への体制の転換と帝国の形成との関連が,後世の人々に強く意識されている。すなわち,共和政の時代には,インペリウムは命令や権力を意味する一般名詞で,とくに法に基づく正当な命令を指した。ところが,ローマがカルタゴなどとの不断の戦争によって地中海に覇権を確立すると共に,インペリウムはローマの他民族の支配を意味するようになった。これと並行して,支配形態も,元老院などの法的手続を経た正当な授権に基づくものより軍事力と富にものをいわせたあからさまなものが増加し,そのような権力行使をもインペリウムと呼ばれるにいたった。このような統治構造の変質が,のちの人々の帝国主義に対するイメージの一つの原型となった。つまり,戦争政策で海外領土が拡張されると共に,共和政制が衰退し,遠方の属州を専制的に支配する軍人と,〈パンとサーカス〉に象徴されるような手段で大衆を操作する政治家とが支配するような統治構造に退行する,という歴史のアナロジーである。
帝国主義概念のもつ第2の含意は,絶対王政期の重商主義帝国の戦争政策と国内の専制的な統治構造とを関係づける歴史像より生まれた。近代の人々が継承した帝国という言葉は,絶対君主制の富と権力を称賛し,その版図を示したものであった。それは,フランスのブルボン王朝が典型的に示すように,国内では壮麗な政治儀式に飾られた国王への権力の集中が行われ,国外では〈陽の没することなき帝国〉と形容される広大な領土の拡大が行われたような統治構造を指す。しかし,J.J.ルソーなどの影響をうけた啓蒙主義者にとっては,不断の戦争政策は,民衆の経済的な負担を増大させ,国内政治体制の改革を遅延させる原因と考えられた。そこで,君主や貴族の専制的な権力行使と重商主義にもとづく植民地の領有は強い批判の対象となっていた。A.スミスなどによる国内の自由主義的な改革と植民地の分離・放棄の主張は,このような重商主義帝国への批判にもとづくものである。この18世紀までの自由主義的な帝国主義批判の視角は,19世紀以降の新しい現象を認識する枠組みとして継承された。
ウィーン会議から第1次大戦にいたる1世紀の間に,帝国主義は政治の論争用語としても社会科学の術語としても定着していく。この100年は,資本主義の不均等な発展によって工業先発国と後発国との分化が進み,鉄道,通信などの近代交通通信体系や戦艦,機関銃などの新兵器体系の形成とによって政治権力の他地域に対する機動性と浸透力が急速に高まった。それは,いわば世界が階層的な秩序に編成されていく移行過程であったといえる。そのために人々は次々に新しい現象に直面したが,それらが帝国主義と呼ばれる場合には,過去の歴史に対するアナロジーのもとで新しい分析が行われることになった。
帝国主義が政界の論争の言葉として登場するのは,19世紀前半のフランスである。まず,1830年代にナポレオン帝国の版図の回復をめざす集団が帝国主義者と呼ばれ,次いで1840年代末よりルイ・ナポレオンの大衆扇動的なリーダーシップと植民地を求めて海外派兵を行う戦争政策とを非難する用語として,帝国主義が使われた。この用法はイギリスでも採り入れられ,当初はルイ・ナポレオンの膨張主義を警戒する意味であったが,やがてB.ディズレーリの植民地を重視し海洋帝国の強大さを誇る政治的レトリックに対する非難の言葉となった。
19世紀中葉のイギリスは,旧来の重商主義を目標とし王と貴族が富と権力を集中する帝国から徐々に脱却し,経済的自由を掲げた中産階級が膨張の重要な担い手の部分になりはじめた。1840年代にはインドにおける植民地の拡大が急速に行われるが,それは伝統的エリート層が支配する東インド会社の経済上の特権が剝奪されていく過程にほかならない。さらに,40年代末よりオーストラリアなど移住植民地への移民が急増して,彼らのうちから,やがて母国イギリスと植民地との政治的な結びつきを強めようとする帝国統合運動が生まれることになった。さらに,アジア,アフリカ,中東など植民地の出先機関で任務についている官僚や民間人の間には,支配地域や勢力圏の拡大をはかる〈前進政策〉が強まった。これらの結果,本国で自由貿易への転換が決定的になった19世紀中葉に,イギリスは世界全域で通商上の覇権を確立するとともに,必要度や現地の政治状況に応じて軍事力を発揮し領土の併合も行っていった。1840年から71年までの領土拡張は,その後の30年間の拡大に匹敵するものである。この膨張は急激に行われたにもかかわらず,本国の政界では緊急の課題とは意識されなかった。また,本国の自由主義的改革の時期と重なっていたために旧来の帝国という言葉のもつ専制政治のイメージに合わないこともあって,1950年代に歴史家によって〈自由貿易帝国主義〉と呼ばれるまで,人々の強い関心を引かなかったのである。
1880年から第1次大戦にいたる期間は,〈帝国主義の時代〉と呼ばれることが多い。ただし,イギリスは19世紀を通じて着々と植民地を拡大し,フランスもアルジェリアなどの植民地化はこの時期以前に着手していることからすれば,1880年の前後で植民地化の速度や形態に大きな断絶があると考えることは不適切であろう。実際,地表面積中で植民地の占める割合は,1800年35%,78年67%,1914年84.4%である。しかしながら,この時期に世界の階層的秩序が人々の目に明瞭になりはじめたことは否定しえない。まず欧米列強では第1に,1880年から1900年までにドイツ,イタリア,ベルギー,アメリカ合衆国,日本などが新たに植民地獲得にのりだし,その地域もアフリカ内陸部,中国,太平洋の島々などを含む世界全域に広がった。さらに第2に,ジンゴイズムが列強内で噴出し,ファショダ事件や米西戦争など植民地をめぐる紛争が列強間の軍事対決や戦争の要因となりはじめた。そして,アフリカや中国に対する先占争奪競争は,軍事的緊張をはらみながら展開されたのである。第3に,イギリス,フランスでは世界支配のイデオロギーが台頭した。すなわち,B.ディズレーリ,R.キップリング,J.F.C.フェリーなどの著作が広く受け入れられるにいたったが,その内容は,帝国主義と植民地支配は,一方でイギリス,フランスなどにとって本国の社会経済秩序を維持するために不可欠であると主張され,他方で植民地化された地域にとっても,文明の恩恵を享受することになると正当化されたのである。さらには社会ダーウィニズム的な人種観や,〈白人の責務〉などの道義的なレトリック,さらに過剰人口の移住先の確保,原料供給地や商品市場の拡大の必要性などが唱えられた。
次に植民地などの周辺地域に焦点をあてると,1880年代以降,多くの地域で資本蓄積が顕著になりはじめた。多くの植民地で,希金属,銅,ダイヤモンド,石油などが採掘され,綿花,ゴム,茶,ヤシ油,コーヒー,ラッカセイなどの輸出用作物がプランテーションで栽培されたが,それはおもに人口の多い植民地から調達された労働力によって担われ,それとともに人口の集中や交通網の整備が行われた。これらは西欧における資本蓄積とは異なり,宗主国の経済的な必要性に従属する場合が多く,しかも,封建制や部族関係などその地域の伝統的な社会構成を温存しつつ進められることから,周辺資本主義型の蓄積と呼ばれている。ここで,資本の流れは19世紀後半のインド経済の例のように,植民地から宗主国に流出する場合も少なくないが,ある植民地での経済発展が見込めるとなると,他の植民地や宗主国から資金が投下された。このヨーロッパからの資本移動の過程で,C.J.ローズに代表される南アフリカ金鉱経営者のスキャンダルや,〈株屋の帝国主義〉と呼ばれたフランス金融界の植民地投資をめぐる疑惑が暴露された。
19世紀末には,植民地経営の実態もヨーロッパに報道されるようになり,それが〈文明の伝播(でんぱ)〉という名目からいかに異なっているかも明らかになりはじめた。たとえばベルギー領コンゴで,ゴムの採集権を独占する会社が住民に採集ノルマを課し,割当に満たない者の手足を切断するという残酷な〈赤いゴム〉に対する告発はその典型である。また,植民地拡大の過程で多くの反乱や植民地戦争が行われた。なかでも,イギリスが大軍を派遣しながらボーア人やズールー族との間で悲惨な戦闘が長期間にわたって繰り広げられたボーア戦争(南アフリカ戦争)は,多くの人々に帝国主義についての疑念を抱かせることになった。この政治的環境から二つの帝国主義批判が生まれた。その第1は母国イギリスの政治経済に焦点をあてたもので,J.A.ホブソンによるものである。彼は雑誌の特派員として南アフリカを訪問し,その戦争の背後には経済的動機,とりわけ大金融業者の暗躍があるとの印象を受けた。そして,帰国後,彼は近年イギリスからの資本輸出が急増している点に着目し,植民地拡大はイギリス国内の過剰資本を投資する先を求める大金融業者と投資階級の特殊利益のためにあり,しかも,帝国主義の全体的な構図を描く能力をもつ司令部は金融業者であるという仮説のもとに《帝国主義論》(1902)を書いた。これは,海外膨張を重大な病理状態と見立て,その病巣はイギリス本国で影響力を増す既得権益の体系であると指摘した点で,多大の意義をもった。しかも,ホブソンは,帝国主義政策を解消するためには,イギリス国内の労働者により多くの価値の配分を行って海外に流出する過剰資本をなくせばよい,という年来の主張(〈過少消費説〉)を《帝国主義論》の中心におき,国際的レベルでの帝国主義批判のベクトルの向きとイギリス国内の公正な分配という改革の方向とを重ねあわせた。このようにホブソンの《帝国主義論》は時流に鋭敏な対応をし,帝国主義の改革の目標を明示したために大きな影響力をもつにいたった。
第2は,ガンディー主義の形成である。M.K.ガンディーは1893年より1914年まで南アフリカで弁護士としてインド人(大多数はクーリーと呼ばれた契約労働移民)の人権を確立する闘争を行った。イギリス帝国の底辺を担わされていた南アフリカでは,当時,人種差別の法令が次々と実施されたが,それに対するガンディーの反対運動は,当初のイギリスの差別政策と本国での自由主義的立法の間の二重思考の矛盾をつくというものから,帝国主義的な価値体系そのものを転換することを目標とするようになった。すなわち,帝国主義イデオロギーに内在する差別意識(白人,清潔,男性的力強さなどに価値をおき,黒人,不浄,女性的やさしさを卑しめる意識)を逆転し,差別された黒人やインド人の側が屈服させられることのない尊厳を身につけ,反対の意志を表出する勇気が必要であると考えるにいたった。そして,帝国支配を拒絶するためのさまざまの抵抗形態をあみ出し,実施しはじめたのである。つまり,ガンディーの帝国主義批判は,その支配を甘受しているインド民衆の意識変革を志向したものであり,それによって帝国主義的支配のコストを高め,ついには支配を放棄させることをねらったものであった。このガンディー主義の運動は,帝国主義が底辺から権力を掘り崩されていく出発点となった。
これらのイギリス帝国をめぐる帝国主義批判と並行して,後発資本主義国である中欧,東欧のマルクス主義者が,新しい視角から〈帝国主義論〉を展開した。その背景には次の二つの変化がある。第1に,20世紀に入ると列強間の軍事的緊張がいっそう高まり,戦争の危機が強く意識されるようになった。ドイツでは〈世界政策〉が提唱されて海軍は軍拡に踏み出し,他の列強にも軍事的色彩の濃いナショナリズムが強まり,それらは,モロッコ事件などを契機にいっそう激化していった。そのために,植民地拡張のみでなく,各国の軍事的膨張主義や戦争政策の原因が何であるか,が問われるようになった。第2に,ドイツなどでは製鉄業を中心とした重化学工業が発展し,そこではイギリス,フランスにみられない巨大企業が成立した。また,大銀行が発展して巨大な製造業との連係を深め,さらにそれらの集団間でもカルテルなどによって協調がはかられるという経済権力の集中化と組織化が進行した。海外においても,ドイツは商品市場,原料供給地,鉄道などの利権,投資市場などの面で先行するイギリス,フランスの権益に割込みをはかったのである。
このような事態に対して,マルクス主義知識人は,銀行の役割,保護関税政策の目的,軍国主義などについて論争を重ねた。とくに,R.ヒルファディングは《金融資本論》(1910)の中で,資本主義国間で進行する権力対立と,資本主義国内の経済的な集中と組織化との間には構造的な関連があり,前者は後者によってもたらされると仮定した理論を提示した。この理論をほぼ踏襲したレーニンは第1次大戦の最中に《帝国主義論》(1916)を書き,資本主義国間の対立は政策決定者の意志で変更することはできず不可避的に破局にいたるという意味をこめて,帝国主義を〈資本主義の最高段階〉と規定した。つまり,産業資本にかわって独占と金融資本が支配を確立し,商品輸出にかわって資本輸出が主たる意義をもち,国際的トラストが世界分割を完了し,諸国家が植民地再分割を争うにいたった資本主義の段階を帝国主義と呼んだ。資本主義列強が膨張主義に駆り立てられ軍事対立にいたる原因は,このような資本主義の構造にもとづくと想定したのである。
このレーニンの帝国主義に対する特殊な規定は,それが執筆された時期の彼の関心から,次のような政治的なねらいをもっていたと考えられる。第1に,世界大戦という破局は,政策上の破綻から生じたのではなく,資本主義体制そのものの破局にほかならないことを示すことである(資本主義が相互の利害を調整する可能性を論じたカウツキーの〈超帝国主義〉への反論)。第2に,帝国主義は資本主義のダイナミズムの帰結だとすることで,開戦の呼び起こしたナショナリズムの波に圧倒されている各列強内の社会主義者たちに対して,自己の属する資本主義体制を変革する糸口を発見すること(〈戦争を内乱へ〉)こそが,彼らが直面する政治目標であると説得することであった(〈祖国防衛主義〉への反論)。第3に,帝国主義段階に達した国々ではブルジョアのナショナリズムの主張は,かつての民主主義の推進者としての役割を失い,既得権益を維持し拡大しようとするイデオロギーとなっているが,帝国主義段階にいたっていないロシア,東欧諸国でのナショナリズムの運動は,変革の重要な政治的モーメントとなることを説明することであった(〈経済主義〉への反論)。このようにレーニンの《帝国主義論》は,資本主義の発展途上にあったロシアの革命家の政治的著作でもあった。
以上のマルクス主義者と同時期に別個の視角から帝国主義を分析したのが,J.A.シュンペーターである。彼は帝国主義的膨張が必ずしも合理的な目標をもたない場合にも支配地域を次々に拡大しようとする傾向があることに着目した。この膨張の自己目的化は,彼によると,第1に,好戦的な規範意識を過去から引きついでいるエリート層が支配し,それと高度の軍事技術や産業基盤が結びついた国々(ドイツと日本)で生じやすい。第2に,軍事機構とそれを支える社会構造は,それがいったんでき上がると当初の目的から離れて戦争のたびに次々と新しい役割を拡大し,軍事技術を開発し,自己増殖していく傾向を指摘した。彼の分析は,帝国主義の社会心理的なメカニズムを掘り下げた点で示唆に富んでいる。また,ホブソンなどは民衆の好戦的愛国主義をあおり立てる大衆新聞が19世紀末より台頭したことを指摘しているし,また,労働者を含む民衆の国内的な不満を対外的な膨張政策によってそらし,国内統合を容易にする手段として植民地や対外危機が利用されていることを指摘した人々も多い。以上の分析はそれぞれに妥当性をもつが,それは植民地の拡大や第1次大戦のような複雑な現象を単一の要因から説明することの困難さを物語っている。
ホブソンやレーニンなどの帝国主義論は,著述そのものを政治的行為と解釈しうるだけでなく,アフリカ分割や世界大戦という未曾有の変動に直面した知識人が解釈を模索した同時代認識として意義をもった。その後,ロシア革命の成功などによるレーニンの名声の高まりとともに,彼の帝国主義の規定はマルクス主義の公式の解釈となった。そのため,テキストブック化したレーニンの帝国主義論と,それに対する批判が繰り返されたが,その争点は,(1)政治経済体制の特質と外交政策の相互関連,(2)政治行動と経済構造の相互関係,(3)帝国主義と軍事主義の存立条件の異同,(4)戦争の原因をどこまで社会経済的構造で説明できるか,の4点であった。しかし,このような先進資本主義国の経済構造に焦点を定めた分析視角は資本主義国(ヨーロッパ)が世界を動かし,しかも,企業がみずからの属する国家の利害にほぼ沿って活動することを前提としてはじめて妥当性をもちうる。また第1次大戦期までの欧米の帝国主義論は,植民地の側の変化についての情報が得られない条件下で執筆されたことも留意すべきであろう。
また,その後の実証的な歴史研究によって,植民地拡大や第1次大戦の過程が細部にわたって検討された結果,資本主義の経済構造に焦点をあてた理論からは説明のつかない現象が次々に発見された。まず,イギリスの植民地拡大の速度や特質が1870-80年代を境に大きく変化したと考えることは不適切であることが明らかになり,また,国内経済の独占化は〈帝国主義の時代〉にあまり進展しなかったことも指摘された。第2に,D.K.フィールドハウスやD.C.M.プラットらの経済的研究では,ヨーロッパからの資本の輸出先の多くはアメリカ合衆国など急速に経済発展した地域であり,新たに植民地化された地域は資本輸出の主対象地域でないことも示された。第3にQ.ライトやD.シンガーらの包括的戦争研究によれば,戦争政策などの攻撃的な外交政策がとられた事例のうち,その決定要因として経済的な要因が重要と考えられるのは,全体の一部分にすぎないことも実証されている。さらに第4に,植民地側の歴史資料が明らかになるにつれて,植民地史研究が急速に進み,たとえばE.ストークスやD.ロウらの研究が示すように,植民地化の過程で,宗主国の政策が現地の事態の展開を統制していない場合が多かったことも明らかになった。つまり,植民地化は宗主国の側から変動のイニシアティブが発揮されただけでなく,出先機関の判断や現地の政治的不安定などの状況変化が重要な意味をもつことが多い。とすれば,宗主国の経済構造から分析可能な領域が限られるのは当然といえよう。
第2次大戦後の世界は大きく変動した。第1に,植民地の大部分は政治的独立をとげたため,帝国主義と植民地の領有とを同一視することはできなくなった。しかも新興独立国の中には漸次,経済官僚と軍部を中心とする統治機構を整備する政府が増えていった。その結果,第2に,かつて植民地であった国々の自決権が増大し,旧宗主国や米ソなどの大国との関係でも,これら中小国がイニシアティブを発揮する余地は拡大した。つまり,ヨーロッパが世界を動かした時代に比べ,世界の政治決定が分権化・分散化したといえる。それに対して,第3に,エクソン,GM,IBMなどのさまざまの巨大な多国籍企業が台頭し,本社がおかれた国の政治経済の利害をこえて活動しはじめた。多国籍企業は海外に直接投資を行って支店網をつくり外国企業を支配し,独自の世界的な経営戦略をもっている。したがって,国際経済上の権力はこれらの企業が握り,時として自国政府の外交の方針と対立することも少なくない。さらに第4に,軍事力の面では冷戦下にあって米ソ両核大国が他とは隔絶した軍備,軍事技術,研究開発能力をもっていた。そして,両国の軍産複合体は軍事衛星などを用いた軍事情報の収集システム,軍事同盟や海外の軍事基地網,軍事援助,武器輸出や軍事技術の移転などを通じて,他の国々に対して支配的な地位を築き上げた。
したがって,現代の世界秩序は,法的には多数の主権国家が平等に分立している状態であり,政治的には中小国や民衆がイニシアティブを発揮する余地が広がっている反面,経済的には巨大な多国籍企業や大国の経済機関などに決定権が集中する傾向があり,軍事的には冷戦下で米ソを頂点とする階層的な世界秩序が形成されてきた。そのため,現代の帝国主義論は新興諸国や民衆の平等化の要請をおしとどめる経済的・軍事的な要因に関心を集中させている。とくに1960年代後半より,新興諸国の経済発展計画の多くが挫折し,深刻な貧困状態が残されていることが明らかになったために,近代化論に対する批判という観点から帝国主義論が展開された。
その第1の争点は,階層的な世界秩序をどのようなモデルによって理論化するかであった。近代化論が,工業国がたどったのと同一の経済発展コースを発展途上国その後を追ってたどるという単線的な発展モデルを前提としているのに対して,1960年代末より,平和研究者や従属論者(従属論)によって,中心対周辺center andperipheryという新しい枠組みが提示された。たとえば,ノルウェーの平和研究者ガルトゥングJohan Galtungは,現代の世界秩序を封建制になぞらえ,工業国と発展途上国の格差が固定化ないし拡大されることをモデル化した。すなわち,工業化をとげた中心国相互では通商,交通,情報,政治交渉,軍事関係などは水平的で多角的なネットワークが形成されるのに対して,周辺国相互の関係はあまり発達せず,中心国と周辺国の中には縦割りの支配・従属関係が形成されると仮定した。彼によれば,中心国は自動車の生産技術や電子技術のような応用範囲の広い技術を多数の人々が学習して,多様な品目を生産・輸出するのに対して,周辺国はバナナの栽培とか銅の採掘など他に応用範囲が限られた技術しかもたず,限られた品目のみしか生産・輸出しえないと仮定する。このモデルは世界の経済的な格差の継続性を理論化しようとした試みであり,レーニンが帝国主義の矛盾と破局に焦点をあてたのに対比することができる。
現代帝国主義論の第2の争点として,発展途上国への武器輸出,発展途上国の軍事政権の台頭などと,工業国と発展途上国の間の経済的な格差との相互関係が問われた。近代化論者の一部が,発展途上国の軍備拡大は経済成長を促進すると主張したのに対して,スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の報告書などは,発展途上国の軍拡は乏しい資源の浪費であるだけでなく,兵器を購入し軍事技術を導入することで大国の軍産複合体を強めていることを指摘した。そして,武器輸出,軍事政権などは,大局的には,不平等を修正しようという発展途上国の民衆の運動や中小国の活動を抑圧する機能を果たしていると規定されている。すなわち,現在の世界の軍事的な階層秩序が,経済的な格差を維持する役割をもつ点が注目されている。
→軍事化 →植民地 →世界政治
執筆者:中村 研一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
帝国主義ということばはきわめて多義的に用いられる。広義かつ一般的には、その語源がローマ皇帝の支配する皇帝国家(インペリウムimperium)に由来することからも明らかなように、政治的、経済的、軍事的、さらには文化的な権力・権威をもってする他民族の領土や国家への侵略と支配、を意味する。近代では19世紀初めナポレオンによる皇帝国家実現の企てに関連して用いられ、ついで1870年代後半イギリスの植民地帝国の拡大強化をめぐる論争のなかで、領土膨張主義ないし植民地主義をさす政治上の用語として普及した。しかし、その後、20世紀への転換期を挟んで帝国主義は、近代資本主義の自由競争段階から独占と金融資本が支配的となる独占段階への移行転化を背景に、列強資本主義諸国による世界市場支配と植民地獲得をめぐる経済上の対立と紛争に関連して用いられるのが一般的な傾向となった。
[吉家清次]
最初に近代資本主義体制を確立して以降、世界の工場、世界の商人、世界の銀行家として、その圧倒的な優位性を享受していたイギリスの地位も、19世紀後半になると、まずドイツ、フランス、ついでアメリカの急速な資本主義的発展によって脅かされつつあった。世界は諸資本主義国間の厳しい競争の時代に入ったのである。この厳しい競争の時代を象徴的に示したのが、1873年から実に23年間の長期にわたってヨーロッパを襲った大不況である。この長期不況への対応策として諸国が採用したのが、外に向かっては自国の支配市場領域としての植民地の獲得であり、内部的には独占的企業結合の推進であった。とくに、なお最強国であったイギリスは、世界市場での優位性を背景に次々と植民地・従属国を獲得し、第一次世界大戦前には本国の100倍もの領土の55の植民地を獲得した。もちろん植民地獲得は平和的にのみ行われたわけではなく、1869年のイギリスのスエズ運河の支配をめぐるフランスとの対立やエジプトへの武力侵入、1884年のイギリスによる「帝国連邦同盟」の結成と、続く南アフリカへの侵略、さらには1898年のアメリカ・スペイン戦争、1899年のイギリスによるブーア戦争など、つねに列強間の世界の分割と再分割をめぐる政治的・軍事的対立と闘争を通して進められたのである。そして第一次世界大戦が、イギリスやフランスなど「持てる国々」とドイツ(やがて日本やロシアも加わる)などの「持たざる国々」との間の世界の植民地・従属国の再分割をめぐる帝国主義戦争として勃発(ぼっぱつ)することになる。
ところで、諸列強の世界支配をめぐる対立激化の根底には、大不況期を背景とする自由競争資本主義の、独占と金融資本が支配する独占資本主義への発展転化がある。不況の長期化が、イギリスの一国資本主義の時代から諸資本主義国による競争的発展に伴う世界市場の生産力過剰化の時代への移行の結果として起こったとするならば、カルテルやトラストといった独占的企業結合が販路を求めての世界市場の分割のための企てとして広がっていく一方で、他方では過剰化した生産と資本の輸出先をめぐる諸列強の世界の再分割のための対立と抗争も激しくなっていく。とりわけこの期の国際経済関係で特徴的となった過剰資本そのものの輸出は、輸出資本の権益の擁護という名目での軍事的侵攻を伴う結果、諸列強による植民地的支配は不可避的な傾向となって広まっていった。こうして時代は、のちに歴史家たちのいう「帝国主義の古典的時代」となったのである。
[吉家清次]
最大の植民地帝国イギリスに生きたJ・A・ホブソンは、経済学の立場から帝国主義の理論的分析を試みた最初の人である。彼は、資本主義の産業不況の原因を富の分配の不平等と富裕階級による過剰投資からくる過少消費に求めたが、その著『帝国主義論』(1902)では、帝国主義の経済的原因を、国内の過剰な商品と資本のための市場を獲得しようとする産業家と金融投資家たちの(武力を伴った)対外政策にあると強調している。彼の帝国主義論は、植民地国家として莫大(ばくだい)な海外投資家階級を擁しているイギリスの現実を踏まえ、イギリス資本主義の寄生的な金利生活者国家への移行を鋭く批判したものであった。同時に彼は、もし所得分配が平等化され、消費が増大すれば、過剰生産と過剰資本したがって帝国主義政策も解消されるはずだと考えた。この理論は、独占資本主義のもとでの帝国主義の不可避性を強調するマルクス主義者たちによって改良主義と厳しく批判されたが、他方、のちにケインズにより、その過少消費説や金利生活者論とともに高く評価された。
[吉家清次]
帝国主義の分析は、ついでドイツ社会民主党に結集するマルクス主義者たちによって試みられた。まず、R・ヒルファーディングは『金融資本論』(1910)を著し、マルクスの『資本論』の理論を資本主義の最新の現実に適用し発展させようとした。彼は、資本主義経済過程に発生する遊休貨幣資本を集中的に動員し、株式会社制度や融資などを通して産業資本に転化している銀行資本を「金融資本」と規定し、この金融資本による産業とカルテルやトラストなどの独占的企業結合体の支配がみられるのが、資本主義の新しい特徴だと指摘した。そして帝国主義とは、高率保護関税、ダンピング、国際カルテル、資本輸出などとともに、金融資本が対外面でとる政策の一環であると説明した。
同様に社会民主党の理論家K・カウツキーは、第一次世界大戦中に発表した諸論文で、帝国主義を、先進工業国を支配する金融資本による独占利潤の獲得を目ざしての後進的農業地域支配のための政策体系であるとみた。ついで彼は、帝国主義戦争の莫大な負担に気づいた資本家たちが、やがて平和的な世界の分割支配のための協定を結ぶだろうとして、「超帝国主義」論を主張した。
彼らの理論は、レーニンの『帝国主義論』(後述)によって、独占資本の役割を過小に評価し、帝国主義を単なる政策体系とのみ考える点で誤っていると批判されたが、株式会社論や金融資本概念などは基本的に受け入れられた。
他方、R・ルクセンブルクは、同じ社会民主党の左派の立場から、『資本蓄積論』(1913)を著し、カウツキーらを批判した。彼女は、資本主義の現実的な資本蓄積の過程が可能となるためには、非資本主義的な地域の搾取と収奪を媒介としなければならないが、このことは、一方で保護関税や軍国主義などの帝国主義的傾向を、他方で非資本主義的領域の絶えざる狭隘(きょうあい)化とを必然的に引き起こすと説く。終局的には資本主義的世界の終焉(しゅうえん)を導くとみる彼女の理論は、帝国主義的対立の厳しさを鋭く指摘するものではあったが、マルクスの再生産=蓄積理論の誤解にたち、帝国主義を資本蓄積という資本主義の一般的性格に解消し、近代帝国主義の本質の解明にはならなかった。しかし、彼女の理論は、近代帝国主義したがって植民地主義の崩壊が進んだ第二次世界大戦後において、A・G・フランクやS・アミンらによる南北問題=発展途上国の自立的経済開発論の立場からの支配‐従属論(新帝国主義論)の先行理論として再評価された。
[吉家清次]
以上のドイツ社会民主党の諸理論を批判的に継承し、マルクス主義の帝国主義分析を集大成したとされるのが、ロシアの革命家レーニンの『資本主義の最高の段階としての帝国主義』(1917。いわゆる『帝国主義論』)である。彼は、帝国主義の基本的特徴を次の5点に求めている。(1)資本主義的市場競争の過程で生産と資本がますます少数の巨大企業に集中し、この高度の集中と集積を基礎にカルテル、シンジケート、トラストといった独占的結合が発展し、自由競争資本主義は独占資本主義に移行した。独占は市場と価格を支配し、独占的高利潤を生み出すと同時に、多様な産業にまたがる大企業を統合する少数の企業結合体(コンビネーション)を形成し、全経済生活で決定的な位置を占めるに至っている。(2)これら独占形成を促すとともに、資金の融資や株式発行さらには役員派遣などを通して巨大産業と巨大銀行との融合・一体化が進み、支配的な資本形態としての金融資本が形成された。金融資本は、生産と資本の支配的部分を占め、独占体の形成を指導し、独占利潤を取得し、経済の全領域にわたる金融寡頭制支配を行っている。(3)金融寡頭制支配は、経済領域にとどまらず、政治の領域にも影響力を及ぼし、同時に国際的にも拡大している。すなわち、独占と金融資本の形成によって生じた過剰資本は、より高い利潤とより有利な投資機会を求めて後進的地域に輸出される。従来の商品輸出と並び、これを越えて独占資本主義の国際経済面の一大特徴となった資本輸出は、排他的で優遇的な取引条件(特恵的な通商条約、鉄道・港湾の排他的占有、有利な条件での証券発行の引受けなど)によって、金融資本の莫大な利潤の主要源泉となっている。(4)こうして世界市場は、国際的な独占体によって分割支配されるに至っている。電気産業や石油産業さらに国際金融資本などにみられる国際カルテル、国際シンジケート、国際トラストなどによる世界の分割協定が、その主要な形態である。(5)そればかりか世界市場の分割は、諸列強国による地球の領土的分割の経済的な基礎となり、植民地支配を発展させた。たとえば1914年では、本国の約100倍の植民地をもつイギリスと、同じく約20倍を支配するフランスを筆頭に、ロシア、ドイツ、アメリカ、日本を加えて六大列強は合計で本国の約4倍の植民地を支配していた。アフリカの90%、南洋諸島のほとんどが列強諸国の植民地となっていた。いまや諸列強の支配領土拡大による権益の強化は、世界の再分割以外によっては不可能となっている。この世界の再分割をめぐる列強国間の抗争こそ、帝国主義の根本であり、帝国主義戦争を不可避としている経済的背景である。この意味で帝国主義は、「資本主義の最高の発展段階」であり、その経済的基礎は独占資本主義である。同時に帝国主義は、国内・国際にまたがっての独占と金融資本による経済的支配と政治的専制のうえに成立している点で、金利生活者的な寄生性と腐朽化が進んだ資本主義の段階をも意味し、歴史的にみて、その進歩的な役割を終えた「死滅しつつある資本主義」とみなければならない。また独占的高利潤は、列強国内の一部の労働者に特権的な地位をもたらす経済的可能性をつくりだし、国際的な労働運動と社会主義運動の(この労働貴族層による)分裂傾向をつくりだす。しかし、帝国主義的な民族抑圧と政治的・経済的支配の強化は、これらの運動を拡大強化しており、その点で帝国主義は「社会主義革命の前夜」となっている。
以上のレーニンの帝国主義論は、それまでの諸理論を批判的に集大成するとともに、第一次世界大戦の根本を資本主義体制の基本動向から分析し、「戦争から内乱へ、そして革命へ」という彼の社会主義革命の戦略をマルクス主義の立場から理論化しようとしたものであったといえよう。そしてその後、(1)第一次世界大戦の過程でロシアに社会主義革命が成功して以後、世界は資本主義体制と社会主義体制との二大体制に分裂、競合の時代に入ったこと、(2)大戦の結果、敗戦国ドイツのみならず戦勝国イギリス、フランスといったヨーロッパ諸国の地位が経済的にも政治的にも大きく後退し、長期にわたって停滞していったこと、(3)他方、資本主義世界の指導国として目覚ましい発展をみせたアメリカも、1929年の恐慌に始まる長期不況に突入し、この不況を契機に世界は植民地圏を軸とする多極的なブロック経済の時代となっていったこと、(4)ついで第二次帝国主義戦争である第二次世界大戦に突入していったこと、そして、(5)第二次世界大戦後、東欧諸国や中国に人民民主主義革命が起こり、社会主義的世界が拡大したこと、など一連の現実を背景に、「資本主義の全般的危機」論や「国家独占資本主義」論といった新しい諸説に補強されながら、このレーニンの帝国主義論の正当性と権威が一段と高まっていった。
[吉家清次]
しかしながら反面、第二次世界大戦後の世界の政治・経済的諸動向は、このレーニンの理論だけでは十分に説明しえない新しい諸問題をも生み出してきた。すなわち、(1)第二次世界大戦を契機に資本主義列強諸国の植民地・従属国が次々と独立し、植民地主義の崩壊、帝国主義の終焉が、世界史の紛れもない潮流となっていったこと、(2)にもかかわらず、戦後の資本主義経済は、戦後の混乱期を急速に脱し、程度の差はあれ歴史上まれなほどの経済成長の時期となったこと、(3)他方、社会主義世界でも独裁的指導者スターリンの死をきっかけに東西対立緩和の気運が生まれ、資本主義体制との平和共存の方向が打ち出されたこと、(4)しかし、資本主義体制の着実な成長に比べて、社会主義体制の経済的成果はかならずしも良好とはいえず、ソ連対東欧、ソ連対中国という対立と分裂化が進んでいったこと、(5)そして戦後独立を達成した旧植民地・従属国が国連などで多数派となり、国際政治・経済面での発言力と影響力を増大していったこと、など一連の動向は、帝国主義を資本主義の不可避的産物と規定し、社会主義革命と資本主義の「死滅」の必然性を強調したレーニン的理論では説明しきれない動きといえよう。
戦後の旧植民地の独立は形式的なものであり、実質的には依然として政治的、経済的、軍事的な従属関係にあり、レーニン的な帝国主義の根本は存続しているとする新植民地主義説も、一部に登場した。しかしこの理論では、石油産出諸国による国際石油資本(メジャー)の支配をはねのけての石油値上げの動きや、領土・資源の恒久主権を強めつつある資源ナショナリズムの動きなどを十分に説明しえないであろう。また、戦後の国際経済関係は、中枢的な先進工業諸国と衛星的発展途上諸国との間の不平等な支配‐従属関係にあり、発展途上国の「自立的国民経済の形成」は、この従属の鎖を断ち切ることから始まるとする新帝国主義論も説かれた。確かに、現在目覚ましく成長を遂げつつある新興工業諸国でさえ、莫大な累積対外債務を抱え、経済困難に直面していた。しかし、この対外債務をめぐる貸し手である先進諸国と借り手である新興工業諸国との利害関係は複雑であり、債務国の立場がつねに従属的であるとはかならずしもいえない。少なくとも第二次世界大戦後の「南北問題」の根本は、民族的独立と自立的な経済発展を達成しようとする改革運動にあり、かつての帝国主義的支配とはまったく反対の動きであるとみるべきであろう。
さらに1950、60年代以降での社会主義体制内部での分裂化傾向と、これを阻止しようとするソ連の東欧圏への政治的・経済的圧力と軍事的介入という問題があり、こうしたソ連の動きをとらえて、中国は、大国主義的で社会帝国主義的行動と厳しく批判した。こうした大国による弱小国への直接・間接の(ときに武力行使を伴った)介入をも帝国主義的行動とみるならば、アメリカのベトナム戦争への介入と同時にソ連のアフガニスタンへの進攻があり、社会経済体制にかかわりなく、政治的、経済的さらに軍事的に有力な大諸国が、その権力を用いて弱小で後進的な国や地域に及ぼす政治的、経済的、軍事的さらには社会的、文化的な多面にわたる支配的影響力の拡大・強化の企てだ、とする新しい帝国主義の特徴づけが可能となるであろう。その意味で、非マルクス経済学の立場から、帝国主義をある歴史的時代に生まれ発展する「時代精神」の現れとみて、その時代精神はむしろ経済社会の変化に取り残された古い勢力によって担われ鼓舞されるとみるJ・シュンペーターの『帝国主義の社会学』(1919)の理論が改めて注目されよう。そこで彼は、当時認められた帝国主義的傾向は、前記のような古い社会勢力に指導された「国家の無際限な拡張という無目的な素質」から生まれた「隔世遺伝的なもの」と分析し、近代資本主義が合理化され発展するにつれて、やがて消滅していく傾向だと結論している。
1990年前後でのソ連社会主義体制の崩壊とアメリカ一国による政治的、軍事的超大国体制の形成、さらにはEU(ヨーロッパ連合)などの超国家的な地域統合化の動きなどをとらえて、現代経済の国際化・世界化に伴う帝国主義の新しい展開形態、すなわち(米ソ二極体制の第二段階に続く)20世紀帝国主義の第三の発展段階と規定して、レーニン的帝国主義理論の有効性を説くむきもあるが、しかし日米欧先進諸国間に加えて東アジアや中国などの新興工業諸国地域を交えての世界市場での激しい経済競争や旧植民地諸国の経済的自立化と政治的発言力の増大などを考えるならば、こうした説は分析の概念枠の無原則的な拡張であり、説得力をもつものではない。多くの歴史家が指摘するように、帝国主義とは、基本的には19世紀から20世紀の二つの世界戦争に至る近現代史の重要ではあるが一つの側面を特徴づける歴史の現実とみるべきものであろう。
[吉家清次]
日本帝国主義の成立の時期については、いくつかの説がある。日本において独占資本主義が確立したのは第一次世界大戦後であり、独占資本主義=帝国主義とみるならば、日本帝国主義の成立は第一次世界大戦後ということになり、そういう説も現に存在する。しかし、日本帝国主義の特徴としてレーニンも指摘した、「軍事力の、あるいは広大な領土の、または他民族、中国その他を略奪する特殊な便宜の独占が、現代の最新の金融資本の独占を、一部は補充し、一部は代位している」という事実に示されているように、独占資本主義の確立以前に帝国主義的他民族支配に乗り出しているという事実があるので、日本帝国主義は、独占資本主義の確立以前に成立したとする諸説が生まれてくる。それらの説も、日清(にっしん)戦争、義和団事件、日露戦争の時期というように分かれている。さらにこのような国内的要因のほかに、19世紀末から20世紀初めにかけて世界史的に帝国主義が成立して、日本の動向が国際的な帝国主義的対立の一環となることで帝国主義的な役割を演じるという事情も、このような説の生まれる根拠になっている。いまのところ学界の多数意見は、この独占資本主義確立以前に日本帝国主義の成立を主張している。
こうして成立した日本帝国主義の特徴の第一は、「独占資本主義の侵略性は、絶対主義的な軍事的封建的帝国主義の軍事的冒険主義によって倍加されている」(三二年テーゼ)点にある。つまり、経済構造上では独占資本主義によって特徴づけられる近代的資本主義的帝国主義の段階に到達しているにもかかわらず、この基礎構造のうえに、半封建的な絶対主義的天皇制が君臨しており、この天皇制の固有の物質的基礎は半封建的小作制度=寄生地主制にあり、日本帝国主義は、この絶対主義的侵略主義=軍事的封建的帝国主義と近代資本主義的帝国主義との二重の契機をもち、いわば二重の帝国主義として特徴づけられる。この二重の帝国主義の理論に賛成できない論者も、日本帝国主義は軍事的封建的な特徴をもつものとする点では一致している。
日本帝国主義の特徴の第二は、英・米帝国主義に金融的に従属した帝国主義であるという点にある。1916年(大正5)における外資の総額は約19億円で、国民所得総額の36億円の52%を占め、政治的には独立しているが、金融的に従属した帝国主義の特徴をもっている。この金融的従属から外交的従属のコース=「外務省外交=霞が関(かすみがせき)外交」とよばれるものも生まれ、一方、それに反対する軍部外交=「三宅坂(みやけざか)外交」も生まれる。
この日本帝国主義は三大基本矛盾をもっていた。第一の基本矛盾は、国内における天皇制・ブルジョアジー・地主と、労働者・農民・都市小市民との矛盾、すなわち国内矛盾である。第二の基本矛盾は、列強帝国主義、ことに米・英帝国主義との矛盾である。第三の基本矛盾は、日本帝国主義と植民地・半植民地の諸民族との矛盾である。1917年ロシア革命が成功して社会主義が出現して以後は、第四の基本矛盾として、日本帝国主義と社会主義との矛盾が加わる。日本帝国主義は、1931年(昭和6)の中国東北=満州侵略以来、1937年の日中戦争を経て太平洋戦争に突入し、1945年8月敗北して、連合国に占領され、その「非軍事化、民主化政策」によって、崩壊させられた。
[犬丸義一]
『J・シュンペーター著、都留重人訳『帝国主義と社会階級』(1956・岩波書店)』▽『小山弘健・浅田光輝著『日本帝国主義史』全3巻(1958~60・青木書店)』▽『井汲卓一他編『現代帝国主義講座』(1963・日本評論社)』▽『井上清著『日本帝国主義の形成』(1968・岩波書店)』▽『江口朴郎著『帝国主義の時代』(1969・岩波書店)』▽『J・A・ホブソン著、矢内原忠雄訳『帝国主義論』(岩波文庫)』▽『R・ヒルファディング著、岡崎次郎訳『金融資本論』上下(岩波文庫)』▽『レーニン著、副島種典訳『帝国主義論』(大月書店・国民文庫)』
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歴史上の膨張主義一般をさす場合もあるが,列強の間で19世紀以来顕著になり,第一次世界大戦に帰結した,その時代を特徴づける帝国の膨張主義およびその後の類似の現象と解するのがふつうである。事実この言葉が用いられ始めたのは1870年代末のイギリスにおいてであった。この現象を批判する社会主義者は膨張主義の経済的基礎を指摘し,それを帝国主義と呼んだ。ホブソンは過剰資本に着目し,カウツキーは農業地域を併合しようとする産業資本主義の渇望に目を向けた。最も名高いのはレーニンの考えである。彼によれば,帝国主義とは,独占段階の資本主義に根ざすものであり,生産と資本の高度の集積を,独占の形成,銀行資本と産業資本の癒着,金融寡頭制の形成にもとづいて資本輸出が特に重要となり,資本家の国際的独占体が世界を分割し,列強による世界分割が完了したという段階にある資本主義のことである。帝国主義は世界再分割を求める闘争の結果,世界戦争を招来するとされた。したがって,帝国主義の反動的性格は従属民族に対する支配に最も明確に現れるとされた。列強国内では革命勢力さえもがそのことを認識しえないという現象が起こるのである。19世紀末から第一次世界大戦までの帝国主義は「古典的」と呼ばれる。
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レーニンは「帝国主義」(1917)において,ホブソン「帝国主義」(1902)の寄生性の概念とヒルファディング「金融資本論」(1910)の組織的独占の概念を継承しつつ,帝国主義とは資本主義の最高の発展段階にほかならないとした。産業独占の展開,金融寡頭制の形成,過剰資本の輸出,国際的独占組織による世界の経済的分割,諸列強による世界の再分割闘争という五つの指標で特徴づけた。これに対して近年には,自由貿易帝国主義論や社会帝国主義論などが提起されている。日本における帝国主義の形成については,過剰資本形成という条件を欠きつつも,日清戦後の東アジアをめぐる帝国主義体制形成に,義和団出兵により日本が積極的に加わったことを指標とする見解が有力である。
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…全属州に及ぶ上級プロコンスル命令権の取得と属州軍の掌握がアウグストゥス以下,元首の権力基盤をなしたからである。後になるとこの語は,このような命令権の行使される領域をも意味するようになって〈ローマ帝国Imperium Romanum〉の表現で用いられ,後世の帝国主義imperialismの語源となった。【鈴木 一州】。…
…一般的に〈帝国主義〉とは,1880年代初頭から第1次大戦に至る時期に,欧米の先進的工業諸国が〈アフリカ分割〉を皮切りにして世界の後進諸地域にその影響力,支配力を拡大していった事象を表す。この帝国主義をもっぱら経済的動機に規定されたものであるとの前提に立ち,初めて体系的な説明を施したのがJ.A.ホブソンの《帝国主義論》(1902)である。…
…
【成立と特質】
明治維新を起点として資本主義経済を基調とする工業化の道を歩みはじめた日本は,1890年代から1900年代にかけて産業革命を遂行し,日露戦争後の1910年ころに資本主義社会の成立をみるに至った。日本資本主義の成立過程の大きな特徴は,自生的には資本家的生産の萌芽が未成熟な段階にあったなかで,すでに帝国主義の時代へ移行しつつあった先進資本主義諸国による圧迫とそれへの依存によって急速に展開し,そのために先進諸国への従属性をもつと同時に,その従属からの自立すなわち〈脱亜入欧〉をめざす明治政府の主導のもとに,朝鮮,中国への軍事的侵略に支えられて進展したことである。このような成立過程の特徴のために,日本資本主義は次に述べるような構造的特質をもつこととなった。…
…イングランドのダービーで自由主義的な新聞経営者の家に生まれ,1880年から87年までオックスフォード大学で主として古典学を学び,卒業後著述活動の傍ら経済学の研究に励んだ。著書は大小50種以上にのぼるが,20世紀の初頭,折しもイギリスで植民地領有熱がさかんであったころに著した《帝国主義論Imperialism:A Study》(1902,4版1948)は,世界に広く知られている。本書は彼が《マンチェスター・ガーディアン》の特派員として99年南アフリカにおもむき,南ア戦争を目撃するなどした体験に刺激されて書かれた。…
…反動期には支持者を失い苦境に立ったが,12年にいたってプラハ協議会を開き,社会民主労働党再建という形で,初めて自分の党を創出した。 第1次大戦の勃発に不意を打たれた彼は,直観的にロシアの敗戦は〈最小の悪〉という方針を出して対処したが,戦争の根源,各国社会民主党が祖国防衛主義をとった根源をつかむべく,帝国主義の研究に没頭した。この研究が《資本主義の最高の段階としての帝国主義》(帝国主義論)に結実した。…
※「帝国主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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