精選版 日本国語大辞典 「常磐津節」の意味・読み・例文・類語
ときわず‐ぶし ときはづ‥【常磐津節】
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浄瑠璃(じょうるり)の流派名。常磐津文字太夫(もじたゆう)を始祖とする。富本(とみもと)、清元(きよもと)とともに豊後(ぶんご)三流の一つ。1739年(元文4)宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の浄瑠璃(豊後節)は幕府から禁止され、江戸に残った高弟の文字太夫は1747年(延享4)新しい流派を名のり、再出発にあたって関東と名づけたところ奉行(ぶぎょう)所から差し止められ、初め常盤津のち常磐津と改め一流を樹立した。
[林喜代弘・守谷幸則]
常磐津は創流以来内部抗争が絶えず、小文字(こもじ)太夫(1716―1764)が翌1748年(寛延1)に独立して富本節をおこし、以後両派の闘争時代が続いた。他方、1768年(明和5)初世文字太夫の立(たて)三味線であった初世佐々木市蔵(?―1768)の没後、後継者に岸沢式佐(しきさ)(2世古式部(こしきぶ))を起用したことから、門人の志妻(しづま)太夫(?―1773?)と造酒(みき)太夫(?―1783)は豊名賀(とよなか)を、若太夫(生没年不詳)は富士岡を名のり佐々木派と組んで離反独立したが、豊名賀派は1783年(天明3)常磐津に帰参し、富士岡派は一代で消滅した。その決着後、2世文字太夫の晩年には、実弟の2世兼(かね)太夫(1755―1802)が家元相続の争いから、1799年(寛政11)に離脱して吾妻国(あづまくに)太夫を名のり一派をたてたが、一代で終わった。なお1791年には鳥羽屋里長(とばやりちょう)が富本に転じている。
幕末期の1857年(安政4)にまたもや一大紛擾(ふんじょう)がもちあがった。大評判をとった『三世相錦繍文章(さんぜそうにしきぶんしょう)』にまつわる功名争い、それに加えて三味線方の太夫に対する報酬配分の不満も募り、4世文字太夫(豊後大掾)と4世岸沢古式部が不和となり、1860年(万延1)岸沢派は独立し、作曲者である古式部は自ら太夫に転向して出演した。しかし1882年(明治15)7世小文字太夫(後の常磐津林中(りんちゅう))の時代を迎え両派の和解が成立、翌年その記念の曲として『釣女(つりおんな)』、1884年に『松島』がつくられた。7世小文字太夫は1886年家元家より離縁となったため林中と改名、1896年より9世市川団十郎に招かれて出勤、名人とうたわれ常磐津節の隆盛に力を発揮、一時代をつくった。その林中の没後にふたたび常磐津、岸沢両家の対立が再燃し、7世岸沢式佐と仲助の兄弟は「新派」を名のったが、1927年(昭和2)常磐津協会設立にあたりようやく解消した。明治以後の動きをみると、浄瑠璃の巧妙さでは名人とうたわれた林中にひけをとらなかった6世文字太夫が小音で声がたたなかったことから、林中の門弟3世松尾(まつお)太夫(1875―1947)が明治末年から劇場に出演し、大正・昭和初期にかけてレコード吹き込みも多く、業績を残した。そしてその子の常磐津三東勢(みとせ)太夫(1907―1983)と千東勢(ちとせ)太夫(1916―1978)、三味線方の菊三郎(1897―1976)らは劇場や放送で活躍し、第二次世界大戦後の常磐津界を支えた。1981年(昭和56)4月には、8世家元文字太夫を代表として二十数名が重要無形文化財常磐津節の総合指定を受けている。
[林喜代弘・守谷幸則]
常磐津節初期創流のころには豊後掾の芸風を踏襲し、持ち味のくふうは凝らしても、大差のない似通った曲節であったと思われる。しかし歌舞伎(かぶき)劇の舞踊地としての新生面の開拓に専念するにつれて、従前の豊後節から徐々に脱皮を試み、重厚壮麗な時代物の世界に優れた実力を発揮し、明和(めいわ)期(1764~1772)には『蜘蛛(くも)の糸』、天明(てんめい)期(1781~1789)には『関の扉(せきのと)』『古山姥(ふるやまんば)』『戻駕(もどりかご)』などの代表曲が生まれた。文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~1830)には変化(へんげ)舞踊の流行に伴い、風俗描写の小品舞踊曲がつくられ、長唄(ながうた)との交流もあり、なかでも掛合い形式の『角兵衛(かくべえ)』が佳品で、いまなお単独曲として流行している。さらに天保(てんぽう)~安政(あんせい)期(1830~1860)に入って、しゃれたおかしみの作品『乗合船(のりあいぶね)』『三世相』の「十万億土」や「堕地獄(だじごく)」のほか、『将門(まさかど)』『新山姥』などの傑作もつくられた。幕末から明治にかけては義太夫種ものが常磐津化されたほか、能狂言を題材に取り入れた『釣女(つりおんな)』『紅葉狩(もみじがり)』があり、坪内逍遙(しょうよう)作の『お夏狂乱』は時代の流れの特色を反映している。
常磐津は豊後三流のなかでも舞踊の伴奏に適したテンポとリズムが終始保たれ、発声も際だった技巧を用いず、ごく自然であり、むしろ声自体に味をきかせるところにその本領があるといえよう。
[林喜代弘・守谷幸則]
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豊後節系浄瑠璃の一つ。常盤津節と書いたこともある。江戸中期の幕府による豊後節の弾圧後,弟子の常磐津文字太夫が1747年(延享4)に語り始めた。歌舞伎音楽の一つで,中棹(ちゅうざお)三味線を使い,三味線2人,浄瑠璃3人の2挺3枚を原則とする。演奏家には常磐津・岸沢の2姓がある。浄瑠璃の発声は自然で,言葉の自然な抑揚を重視し,清元節にくらべ語りの性格が強い。1曲のなかでのテンポはほぼ一定しているが,曲の終結部分で急激にテンポを早くする傾向がある。旋律法には義太夫節の影響も多い。代表作に「将門」「関の扉(せきのと)」「戻駕(もどりかご)」「蜘蛛の糸」などがあり,市井の風俗を描いた「乗合船」「屋敷娘」「年増」,義太夫狂言をとりいれた「梅川」「お三輪」や,大作「三世相錦繍文章(さんぜそうにしきぶんしょう)」もよく知られる。
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… また京の都太夫一中の弟子宮古路豊後掾の曲節は江戸で豊後節として流行したが,風紀を乱すとして1731年(享保16)と36年(元文1)に自宅の稽古を禁止され,39年には一部劇場以外厳禁された。その後,門弟宮古路文字太夫が常磐津節を広め,富本豊前掾が富本節を語ったが,同系の清元延寿太夫も1814年(文化11)に清元節の流派を立てた。これを豊後三流という。…
…なかでも浄瑠璃は江戸時代の初期に,人形と結びついた人形浄瑠璃の音楽と,歌舞伎と結びついた歌舞伎の音楽とに分かれて発展した。前者の代表は義太夫節であり,後者の代表は常磐津節(ときわづぶし),清元節などである。歌のほうは,三味線組歌を最古の三味線芸術歌曲とし,これから京坂地方の三味線歌曲である地歌が発達した。…
※「常磐津節」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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