東は海に臨み、西は下野国、北は陸奥国、南は下総国。「常陸国風土記」は国成立以前、相摸の
国の成立は大化改新後の国郡制実施による。「日本書紀」景行紀の日本武尊東征説話に「常陸」の名がみえるのは、後世の編纂時に当てたものであろう。同書天智天皇七年の条に、蘇我赤兄大臣の女「
大化の国郡制では、大化(六四五―六五〇)以前の新治・筑波・茨城・
国府は現石岡市に置かれ、近くには京都の神祇官に相当するものとして国府の宮(のちの常陸総社)が建てられ、国分(僧)寺と国分尼寺の官寺が建立された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
廃藩置県前の旧国名。大化改新(645)後まもないころに成立した国。現在の茨城県域の北・東部にあたり、関東地方でも北東部に位置する。東は太平洋、西は下野(しもつけ)・下総(しもうさ)両国、北は陸奥(むつ)国に接する。国域の北半分は久慈(くじ)川・那珂(なか)川流域の平地と、阿武隈(あぶくま)山地南部・八溝(やみぞ)山地を中心とする山地で、南半分は霞(かすみ)ヶ浦・北浦に代表される農漁村地帯である。初め常道国(ひたみちのくに)といい、のち常陸国となる。国名の由来は『常陸国風土記(ふどき)』によれば、直通(ひたみち)説と、衣袖漬(ころもでのひたち)説とがあるが、東北地方が道奥(みちのく)といわれたときは常道とよばれ、陸奥とよばれると常陸となる。道の奥にじかに接する国という意味で国名がおこったと考えられる。大化改新までは新治(にいはり)、筑波(つくば)、茨城(むばらき)、那賀(なか)、久慈、多珂(たか)に分かれていたが、改新後の国郡制の施行によって常陸国となり、国内は新治、筑波、白壁(しらかべ)(真壁(まかべ))、河内(かうち)、行方(なめかた)、香島(かしま)(鹿島)、信太(しだ)、茨城、那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の11郡となった。
古代にあって常陸国は、東北経略の基地として重要視され、奈良時代以降、武功に優れたり、陸奥の情勢に通じた有能な人物が国司に任命され、826年(天長3)には上総(かずさ)・上野(こうずけ)両国とともに親王任国となった。このころ国司として下向してきた源氏・平氏・藤原氏の分流は、土着して未開地を開発し、下人や農民などを従えて土豪として成長した。10世紀なかばに乱を起こした平将門(まさかど)はその一人である。将門の乱後、平国香(くにか)の子孫が大掾(だいじょう)氏を称して繁栄し、また源義光(よしみつ)の子孫佐竹(さたけ)氏も勢力を有した。
平安末期には郡域の変更、郡の私称が行われたが、北半部は佐竹氏が、南半部は常陸平氏一族の支配下となる。鎌倉期になると、これが、源氏の流れをくむ佐竹氏、藤原氏の流れをくむ笠間(かさま)・小田・関・田中・宍戸(ししど)・伊佐氏、平氏の流れをくむ常陸大掾・吉田・石川・真壁・小栗・下妻(しもつま)氏の3勢力となる。
南北朝の前期には北部の瓜連(うりづら)城などを中心に、後期には南部の小田・関・大宝城などで、北朝方の佐竹・烟田(かまた)・行方・鹿島諸氏と、南朝方の那珂・小田・関・下妻・真壁・笠間諸氏が交戦したが、やがて佐竹氏が進出した。佐竹氏は豊臣(とよとみ)秀吉の小田原征伐のときには、秀吉に味方して国の大半を領有した。
関ヶ原の戦い後、佐竹氏は秋田へ国替になり、その後には徳川家康の実子が配され、1609年(慶長14)には御三家(ごさんけ)水戸藩が成立した。水戸藩では2代藩主光圀(みつくに)が『大日本史』編纂(へんさん)のため、全国から多くの学者を招いたが、これが18世紀末からふたたび盛んとなり、水戸学を形成して注目された。国内はおおむね北部が水戸藩領でまとまり、西部が小藩領と天領・旗本領、南部が天領・旗本領とに細分されていた。総石高(こくだか)と村数は元禄(げんろく)期90万3778石余、1677村、天保(てんぽう)期100万5707石余、1723村である。特産物には、結城紬(ゆうきつむぎ)をはじめ西ノ内(にしのうち)紙、水府煙草(すいふたばこ)、久慈のこんにゃくなどが全国的に知られた。明治維新の際、水戸藩のほか、笠間、下館(しもだて)、下妻、土浦(つちうら)など13藩があったが、新治県、茨城県に統合され、1875年(明治8)さらに茨城県に統一された。
[佐久間好雄]
『中山信名編、栗田寛補『新編常陸国誌』(復刻・1981・常陸書房)』▽『塙作楽編『常陸の歴史』(1977・講談社)』
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東海道の国。現在の茨城県の大部分。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では新治(にいはり)・真壁・筑波(つくば)・河内・信太(しだ)・茨城・行方(なめかた)・鹿島・那珂・久慈・多珂の11郡からなる。国府・国分寺・国分尼寺は茨城郡(現,石岡市)におかれた。一宮は鹿島神宮(現,鹿嶋市)。「和名抄」所載田数は4万92町余。「延喜式」では調庸は布・帛・絁(あしぎぬ)など,中男作物として紅花・茜(あかね)や鰒(あわび)などを定める。「常陸国風土記」によると,もと新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の6国造が存し,孝徳朝に評(ひょう)となり,陸奥国石城(いわき)郡も当初は当国に含まれた。国名は往来が陸路のみの直通(ひたみち)であることに由来するという。826年(天長3)以降は親王任国。承平・天慶の乱では国府が平将門に襲撃された。鎌倉時代には小田氏・宍戸(ししど)氏が守護をつとめ,常陸大掾氏が勢力をのばし,室町時代に守護佐竹氏の一国支配が確立。佐竹氏は関ケ原の戦後に出羽国秋田に移封され,徳川頼房を藩祖とする水戸藩がおかれ,小藩や幕領・旗本領にわかれた。1871年(明治4)の廃藩置県により藩は県となり,その後,南部を新治県,北部を茨城県に統合。75年新治県と茨城県,千葉県の一部が合併して茨城県となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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