常陸国(読み)ヒタチノクニ

デジタル大辞泉 「常陸国」の意味・読み・例文・類語

ひたち‐の‐くに【常陸国】

常陸

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日本歴史地名大系 「常陸国」の解説

常陸国
ひたちのくに

東は海に臨み、西は下野国、北は陸奥国、南は下総国。「常陸国風土記」は国成立以前、相摸足柄の岳坂あしがらのやまさか以東はすべて我姫あづまの国といい、常陸といわず「新治にひばり筑波つくは茨城うばらき那賀なか久慈くじ多珂たかの国と称ひ、各、造・別を遣はして」おさめさせたといい、孝徳天皇の世に高向臣・中臣幡織田連らが派遣されて我姫が八国に分けられ、常陸国が成立したと記す。国名の起源については、従来の道路が途中に海や河の渡しがなく、郡郷の境、山河の峰谷に相続いているので、「直通ひたみち」であるという意味に由来するとしている。また倭武天皇(日本武尊)新治の県で清い泉に衣の袖をたらしてぬらしたという故事をあげ、歌に「衣袖漬ころもでひたちの国」の文句もあるとして、英雄に結び付けた地名説話を記している。国名起源説話について近世以来様様の論議があるが、広く東北地方を「日高見国」とよびそこへ通う路、つまり日高見路が「ひたち」となり、常陸の字が当てられたとする説が有力視されている。「常陸国風土記」はさらに「それ常陸の国は、堺は是広大く、地も亦はろかにして、土壌も沃墳え、原野肥衍えて、墾発く処なり。海山の利ありて、人々自得に、家々足饒へり」などと、国土について賛美する。

古代

国の成立は大化改新後の国郡制実施による。「日本書紀」景行紀の日本武尊東征説話に「常陸」の名がみえるのは、後世編纂時に当てたものであろう。同書天智天皇七年の条に、蘇我赤兄大臣の女「常陸女ひたちのいらつめ」が山辺皇女を産んだことが記され、以後、国名は諸書に散見する。天平一五年(七四三)の白布墨書(正倉院御物)には、常陸国那賀郡の国郡名がみえ、字面に「常陸国印」が認められる。

大化の国郡制では、大化(六四五―六五〇)以前の新治・筑波茨城なか久自くじたかの六国(旧事本紀)のうち、仲は那賀、久自は久慈、高は多珂たかと改まり、それに香島かしまが加わって七評(郡)となり、常陸国の管轄下に入った。この七評は白雉年間(六五〇―六五五)一二評になったが、和銅年間(七〇八―七一五)評は郡となり、信太しだ河内かつち・筑波・白壁しらかべ・新治・茨城・行方なめかた・香島・那賀・久慈・多珂の一一郡となった。白壁郡はのち真壁まかべ郡、香島郡は鹿島郡となったが、郡名呼称は古代末から中世に郡名の私称が行われた以外は、明治二九年(一八九六)の新郡区編制まで変わらなかった(ただし郡域に変動はあった)

国府は現石岡市に置かれ、近くには京都の神祇官に相当するものとして国府の宮(のちの常陸総社)が建てられ、国分(僧)寺と国分尼寺の官寺が建立された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「常陸国」の意味・わかりやすい解説

常陸国
ひたちのくに

廃藩置県前の旧国名。大化改新(645)後まもないころに成立した国。現在の茨城県域の北・東部にあたり、関東地方でも北東部に位置する。東は太平洋、西は下野(しもつけ)・下総(しもうさ)両国、北は陸奥(むつ)国に接する。国域の北半分は久慈(くじ)川・那珂(なか)川流域の平地と、阿武隈(あぶくま)山地南部・八溝(やみぞ)山地を中心とする山地で、南半分は霞(かすみ)ヶ浦・北浦に代表される農漁村地帯である。初め常道国(ひたみちのくに)といい、のち常陸国となる。国名の由来は『常陸国風土記(ふどき)』によれば、直通(ひたみち)説と、衣袖漬(ころもでのひたち)説とがあるが、東北地方が道奥(みちのく)といわれたときは常道とよばれ、陸奥とよばれると常陸となる。道の奥にじかに接する国という意味で国名がおこったと考えられる。大化改新までは新治(にいはり)、筑波(つくば)、茨城(むばらき)、那賀(なか)、久慈、多珂(たか)に分かれていたが、改新後の国郡制の施行によって常陸国となり、国内は新治、筑波、白壁(しらかべ)(真壁(まかべ))、河内(かうち)、行方(なめかた)、香島(かしま)(鹿島)、信太(しだ)、茨城、那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の11郡となった。

 古代にあって常陸国は、東北経略の基地として重要視され、奈良時代以降、武功に優れたり、陸奥の情勢に通じた有能な人物が国司に任命され、826年(天長3)には上総(かずさ)・上野(こうずけ)両国とともに親王任国となった。このころ国司として下向してきた源氏・平氏・藤原氏の分流は、土着して未開地を開発し、下人や農民などを従えて土豪として成長した。10世紀なかばに乱を起こした平将門(まさかど)はその一人である。将門の乱後、平国香(くにか)の子孫が大掾(だいじょう)氏を称して繁栄し、また源義光(よしみつ)の子孫佐竹(さたけ)氏も勢力を有した。

 平安末期には郡域の変更、郡の私称が行われたが、北半部は佐竹氏が、南半部は常陸平氏一族の支配下となる。鎌倉期になると、これが、源氏の流れをくむ佐竹氏、藤原氏の流れをくむ笠間(かさま)・小田・関・田中・宍戸(ししど)・伊佐氏、平氏の流れをくむ常陸大掾・吉田・石川・真壁・小栗・下妻(しもつま)氏の3勢力となる。

 南北朝の前期には北部の瓜連(うりづら)城などを中心に、後期には南部の小田・関・大宝城などで、北朝方の佐竹・烟田(かまた)・行方・鹿島諸氏と、南朝方の那珂・小田・関・下妻・真壁・笠間諸氏が交戦したが、やがて佐竹氏が進出した。佐竹氏は豊臣(とよとみ)秀吉の小田原征伐のときには、秀吉に味方して国の大半を領有した。

 関ヶ原の戦い後、佐竹氏は秋田へ国替になり、その後には徳川家康の実子が配され、1609年(慶長14)には御三家(ごさんけ)水戸藩が成立した。水戸藩では2代藩主光圀(みつくに)が『大日本史』編纂(へんさん)のため、全国から多くの学者を招いたが、これが18世紀末からふたたび盛んとなり、水戸学を形成して注目された。国内はおおむね北部が水戸藩領でまとまり、西部が小藩領と天領・旗本領、南部が天領・旗本領とに細分されていた。総石高(こくだか)と村数は元禄(げんろく)期90万3778石余、1677村、天保(てんぽう)期100万5707石余、1723村である。特産物には、結城紬(ゆうきつむぎ)をはじめ西ノ内(にしのうち)紙、水府煙草(すいふたばこ)、久慈のこんにゃくなどが全国的に知られた。明治維新の際、水戸藩のほか、笠間、下館(しもだて)、下妻、土浦(つちうら)など13藩があったが、新治県、茨城県に統合され、1875年(明治8)さらに茨城県に統一された。

[佐久間好雄]

『中山信名編、栗田寛補『新編常陸国誌』(復刻・1981・常陸書房)』『塙作楽編『常陸の歴史』(1977・講談社)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「常陸国」の解説

ひたちのくに【常陸国】

現在の茨城県のほぼ全域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに石岡(いしおか)市におかれていた。平安時代前期に桓武(かんむ)平氏が土着。中期には下総(しもうさ)国と当地を舞台に平将門(たいらのまさかど)の乱が起きた。鎌倉時代は佐竹氏、小田氏、大掾(だいじょう)氏を代表とする3勢力があり、南北朝時代の戦いを経て佐竹氏が一国を支配。佐竹氏は関ヶ原の戦いのあと秋田に移封され、そのあとに徳川家康(とくがわいえやす)の11男頼房(よりふさ)が入り、御三家の一つ水戸(みと)徳川家が支配した。ほかに10の小藩や幕府直轄領、旗本領もあった。2代藩主徳川光圀(みつくに)が『大日本史』を編纂した際、全国から多くの学者を集め、その流れから生まれた水戸学は幕末日本に大きな影響を与えた。1871年(明治4)の廃藩置県により茨城県と新治(にいはり)県となり、1875年(明治8)に新治県は千葉県と茨城県に分割編入された。◇常州(じょうしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「常陸国」の意味・わかりやすい解説

常陸国
ひたちのくに

現在の茨城県。東海道の一国。大国。『常陸国風土記』によれば,もと新治 (にいばり) ,筑波,那賀 (なか) ,久慈,多珂 (たか) の国があったといい,『旧事本紀』にも国造として記されている。「ひたち」とは太平洋の日の出に対しての名称で「日立ち」であり,「日向 (ひむか) 」に通じるものであろう。国名としては大化に始るものとみられる。『常陸国風土記』は,この国の地誌として多くの神話,伝説を伝えている。国府,国分寺ともに石岡市にあり,一宮は鹿島神宮。『延喜式』には新治,真壁,筑波などの 11郡,『和名抄』には 153郷,田4万 92町を載せている。平安時代には大国として重視され,天長3 (826) 年には親王任国と定められ,守は太守と称された。鎌倉時代には源義光の子孫である佐竹氏がこの国の北部を,南部には八田氏 (のちに小田氏) ,中部には大掾氏の支配が続いた。室町時代には佐竹氏が守護となり,小田氏,大掾氏を滅ぼして支配を広げたが,関ヶ原の戦い後秋田に移封され,そのあとは徳川家康の子頼房が 35万石で水戸藩を開き,御三家の一つとして幕政に重きをなした。ほかに土浦,笠間,牛久,下館などの諸藩と天領,旗本領もあった。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,茨城県と新治県になり,さらに 1875年に茨城県に統合された。

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百科事典マイペディア 「常陸国」の意味・わかりやすい解説

常陸国【ひたちのくに】

旧国名。常州とも。東海道の一国。現在の茨城県の大半。《延喜式》に大国,11郡。国府は現在の石岡市。平安以後,国司の守(かみ)は親王の遥任(ようにん),介(すけ)として源氏の佐竹氏や平氏の大掾(だいじょう)氏らが土着。戦国期には佐竹氏が支配。近世,水戸藩御三家の一つとなった。→鹿島神宮古河藩
→関連項目茨城[県]関東地方信太荘土浦藩

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「常陸国」の解説

常陸国
ひたちのくに

東海道の国。現在の茨城県の大部分。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では新治(にいはり)・真壁・筑波(つくば)・河内・信太(しだ)・茨城・行方(なめかた)・鹿島・那珂・久慈・多珂の11郡からなる。国府・国分寺・国分尼寺は茨城郡(現,石岡市)におかれた。一宮は鹿島神宮(現,鹿嶋市)。「和名抄」所載田数は4万92町余。「延喜式」では調庸は布・帛・絁(あしぎぬ)など,中男作物として紅花・茜(あかね)や鰒(あわび)などを定める。「常陸国風土記」によると,もと新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の6国造が存し,孝徳朝に評(ひょう)となり,陸奥国石城(いわき)郡も当初は当国に含まれた。国名は往来が陸路のみの直通(ひたみち)であることに由来するという。826年(天長3)以降は親王任国。承平・天慶の乱では国府が平将門に襲撃された。鎌倉時代には小田氏・宍戸(ししど)氏が守護をつとめ,常陸大掾氏が勢力をのばし,室町時代に守護佐竹氏の一国支配が確立。佐竹氏は関ケ原の戦後に出羽国秋田に移封され,徳川頼房を藩祖とする水戸藩がおかれ,小藩や幕領・旗本領にわかれた。1871年(明治4)の廃藩置県により藩は県となり,その後,南部を新治県,北部を茨城県に統合。75年新治県と茨城県,千葉県の一部が合併して茨城県となる。

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世界大百科事典 第2版 「常陸国」の意味・わかりやすい解説

ひたちのくに【常陸国】

旧国名。常州。現在の茨城県の大部分(下総国に属する南西部を除く。なお,北西部は陸奥国白河郡依上(よりかみ)郷(保)に属したが,太閤検地以後常陸国久慈郡に編入された)を占める。
【古代】
 東海道に属する大国(《延喜式》)。古く〈常道〉と表記されたこともある。国府は現在の石岡市石岡に置かれ(石岡小学校付近に国庁跡を比定する説が有力),国分寺,国分尼寺,総社も同市にあった。大化前代には新治(にいはり),筑波(つくば),茨城(うばらき),仲(なか),久自(くじ),高(たか)の6国造が置かれた地域で,また大和朝廷によって宇治部,額田部(ぬかたべ),八田部,多治比部,刑部(おさかべ),藤原部,孔王部(あなほべ),日下部(くさかべ)など多くの部が設定された。

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