幕末期というのは、「大政奉還」(1867)により徳川(江戸)幕府が朝廷に政権を移譲するまでの、崩壊寸前の末期症状の続いた約30~40年間ほどの時期のことである。
[津田秀夫]
幕末期の開始の時期を開国(1854)に置くか、その前夜の天保(てんぽう)の改革(1841~43)に置くかは、研究者の間で見解の相違がある。いずれの場合でも19世紀になってとくに著しくなった欧米列強の登場する世界史のなかに包摂せられざるをえない状況のもとで、幕藩体制の構造的危機を「内憂外患」として把握してその対応に苦しんでいた時期でもあり、幕府の政権維持能力が当事者の必死の努力にもかかわらず限界を示し、またその補強を図ることが結局は政権を失う結果となった時期でもある。もっとも、国内的に構造的危機に対応することを念頭に置いた場合には後者の見解になり、開国により直接入り込んできた国際的条件を重視すれば前者のような見解になる。
いずれの場合にしても、幕藩体制の構造的危機が幕府の政治的危機を自覚させるまでになり、開国による国際的契機が政治的危機を助長することとなった時期であった。
[津田秀夫]
したがって、その対応の仕方としては、幕藩制権力の権力集中を志向する諸政策が改革政治として打ち出されたのである。天保の改革が享保(きょうほう)・寛政(かんせい)の両改革に比して、絶対主義的傾向が強く出されるのはそのためである。しかし、「内憂外患」として受け取られていた当時の政治的状況のもとで、幕府とこれに反対する勢力との対立が政争の形で激しくなっていくのは、開国以後のことである。
この時期は、幕藩制国家の解体を導き、近代日本の誕生が始まる過程での陣痛の苦しみのある時期でもあった。内外の危機に直面して、とくに解決を迫られていた政治的課題は、開国をめぐる条約勅許と、第13代将軍の継嗣(けいし)を決めることであった。天保の改革に示されたように将軍を中心として幕閣による独裁政治の方向をいっそう強化しようとする傾向と、そのような独裁政治を改め、雄藩との連合政権を主張し、その象徴として朝廷を持ち出そうとする立場との二つがあった。それには南紀派と一橋(ひとつばし)派の両派に分かれての確執が絡まっており、幕府・朝廷・諸藩・武士たちを巻き込んだ政争となったのである。また、強制的に開国に踏み出さざるをえなかった幕府当局と、開国に反対する攘夷(じょうい)派の形成を促すことになった。
とくに英明の聞こえの高かった一橋慶喜(よしのぶ)を擁立して、公武合体路線を歩もうとする派(一橋派)と、保守譜代(ふだい)大名の勢力を背景に幕閣の独裁体制を強化しようとする路線(南紀派)との争いの結果として、後者の立場をとる井伊直弼(なおすけ)の大老就任が実現した。これによって政局はめまぐるしく変化した。第13代将軍家定(いえさだ)の継嗣として紀州家から慶福(よしとみ)が入って、家定死後、第14代将軍家茂(いえもち)となったのである。これは、南紀派と一橋派の軋轢(あつれき)に拍車をかける結果となり、雄藩の政治路線の台頭をもたらしたのである。
1854年(安政1)、アメリカをはじめとする対外的圧迫のもとでわが国は和親条約を結んで開国させられたが、その後、さらに国際的な圧力を受けて通商条約の締結を強要された。幕府は、これに調印しようとして、朝廷に対して裁許を求めたが、朝廷では調印拒否の態度をとった。しかし、幕府は、近世での従来の慣例どおりに外交問題を幕府の専断事項として、日米修好通商条約に調印(1858)したのである。しかも、それを難詰する人々に対して圧力を加えた。反対する一橋派の有力大名らには謹慎を命じ、多くの志士たちを逮捕し、ついに刑死させるに至った。いわゆる安政(あんせい)の大獄が起こったのである。狂気の弾圧のなかで、アメリカに続きオランダ、ロシア、イギリス、フランスの5か国との条約が締結された。
幕府のこのような厳しい処置に憤激した水戸藩の志士たちによって、桜田門外で大老暗殺事件が引き起こされ、ここに幕閣による独裁体制が崩れることになった。その後を受けた老中安藤信正(あんどうのぶまさ)は、幕府権力の絶対主義化を画する必要から、その補強を図るために、朝廷との融和を図り、佐幕尊王の路線として公武合体運動を進めた。そして、その実を示すために、孝明(こうめい)天皇の妹和宮(かずのみや)を将軍家茂(いえもち)の夫人として江戸に迎えたのである。このような露骨な政略結婚に対して、これを非難する水戸藩士によって信正は坂下門外で襲撃され、負傷し失脚するに至った。
[津田秀夫]
雄藩の一つ薩摩(さつま)藩は独自の公武合体の立場をとっていたが、朝廷と結んで、幕政の改革を要求した。幕府では、一橋派大名の任用を決め、新しい官職をつくってこれらの人々を用いた。松平慶永(まつだいらよしなが)には政事総裁職、徳川慶喜には将軍後見職、京都守護職には松平容保(かたもり)を用いる、文久(ぶんきゅう)の幕政改革がそれである。
朝廷の御膝元(おひざもと)である京都では尊攘派が勢力を占め、朝廷を動かし、攘夷の決行を幕府に迫った。幕府も文久(ぶんきゅう)3年(1863)5月10日を攘夷の決行と決め、諸藩にその対応を命じた。長州藩はそれを実行に移し、外国船に砲撃を加えた。これに対して、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四か国艦隊が長州藩を攻撃して長州藩を敗退させた。また、長州藩を中心とする尊攘派は、攘夷祈願の孝明天皇の大和行幸(やまとぎょうこう)を決行し、討幕軍を計画したのに対して、薩摩・会津の両藩が朝廷内の公武合体派の公卿(くぎょう)らと連絡をとり、八月十八日の政変を起こし、三条実美(さんじょうさねとみ)らの急進派の公卿を退け、長州藩の御所警衛の任も解いた。さらに朝廷内外の尊攘派を一掃する挙に出たのである。長州藩ではその勢力の回復を図るために三家老が兵を引率して上京し、蛤御門(はまぐりごもん)まで迫ったが、薩摩・会津の両藩兵に撃退されてしまった。幕府は蛤御門の変(禁門の変)の問罪のために、長州征伐の軍を出した。これに対して長州藩は屈服し、藩内の尊攘派を弾圧した。
[津田秀夫]
開国後のわが国の貿易で主導権を握っていたのは、アメリカではなくイギリスである。開国後は攘夷運動が激化する一方であり、開国を実行した幕府も、それに押されて貿易の抑制を図ったこともあった。かくて横浜での貿易状況は悪化するに至った。列強諸国は、その原因が攘夷運動にあり、その運動の中心は長州藩にあるとみていた。外国船が砲撃されたこともあって、四か国艦隊による下関(しものせき)砲撃事件が起こり、長州藩は敗戦を味わったのである。また、薩摩藩も生麦(なまむぎ)事件の報復としてイギリス軍艦の砲火を浴び、近代武器の威力を目の当たりにみせつけられた。この両藩は開明政策の必要性を自覚しながら、尊攘運動に加担し、それを倒幕運動に変化させていくのである。1865年(慶応1)に兵庫沖にまで艦隊を送って圧力をかけた列強は、貿易の伸張を図るために、その手段として条約の勅許を強要した。1866年には安政条約を改定した条約の勅許を得た。これによって、わが国での貿易に際して諸外国は関税率のうえで有利になり、また、自由貿易を妨げる諸制限も撤廃された。少なくとも絶対主義化を図る幕府権力にとって必要な貿易保護主義をとらず、むしろ自由主義政策をとったことから、国内的には、一段と物価の高騰、激変を促し、社会矛盾をいっそう激化させることになったのである。
[津田秀夫]
内外の危機に対処するために強力な統一政権が求められたが、その中心に従来のように幕府を置き、その絶体主義化を図ろうとするものとしてフランスの動きがあり、また、幕府の弱体化を見抜き、天皇を中心とする政権に期待するイギリスのような立場があった。
攘夷運動についても、薩摩や長州では下関戦争や薩英戦争の経験によって列強の実力を悟り、イギリスに接近して開明政策を用意する。とくに長州藩では保守的な上層部に反発して、高杉晋作(たかすぎしんさく)は奇兵隊の力を背景にして兵をあげ藩の実権を奪取した。領内の豪農や村役人とも連携して藩論を尊攘から討幕に転回させた。幕府は長州藩に領地の削減などを命じたが、長州藩はこれに応ぜず、幕府はさらに第二次長州征伐を宣言した。しかし、薩摩藩は幕府の出兵命令を拒んだ。その翌1866年には、土佐藩坂本龍馬(さかもとりょうま)らの仲介で長州藩と軍事同盟(薩長同盟)の密約を結んだ。藩論を統一しえた長州藩の軍隊は新しい訓練をも受けており、幕府軍は至る所で負け、大坂城内で家茂が急死したので戦闘を中止した。
長州征伐のために、大名は米穀の領外移出を禁止したので、米価の騰貴は著しかった。そのうえ、戦費の調達のために御用金や課税の増加を図った。険悪になった世相のもとで、大坂や江戸などで打毀(うちこわし)が起こり、各地で惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)が起こったのである。とくに1867年には、京坂一帯を中心に「ええじゃないか」の乱舞が起こるのである。
このような状況のもとで、長州征伐の後始末に幕府と衝突した薩長は、連合して武力討幕を決意した。土佐藩は公武合体の立場をとる前藩主山内豊信(やまうちとよしげ)が討幕派の機先を制して大政奉還を勧める建白書を提出し、幕府は1867年(慶応3)10月14日に大政奉還の上表を朝廷に提出した(翌日勅許)。さらに慶喜の将軍職辞表の提出(10月24日)を経て、12月9日王政復古が宣せられ、名実ともに幕府は廃絶し、政権は朝廷に移った。
[津田秀夫]
『津田秀夫著『封建社会解体過程研究序説』(1970・塙書房)』
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