平忠正(読み)タイラノタダマサ

改訂新版 世界大百科事典 「平忠正」の意味・わかりやすい解説

平忠正 (たいらのただまさ)
生没年:?-1156(保元1)

平安末期の武将。のち忠貞(忠員)と改名平正盛の子(一説では弟)。伊勢国鈴鹿(すずか)・川曲(かわわ)両郡に所領を有し,白河院政下,誕生まもない崇徳天皇に仕え,左(右)馬助,従五位下となる。摂政藤原忠通の弟頼長に臣従保元の乱上皇方(崇徳院藤原頼長)の大将軍として白河殿防御にあたったが敗走。7月28日子息3人とともに六波羅辺で甥平清盛に斬られた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平忠正」の意味・わかりやすい解説

平忠正
たいらのただまさ
(?―1156)

平安末期の武将。平正盛(まさもり)の子で、忠盛(ただもり)の弟。右馬助(うまのすけ)と称す。兄忠盛が平家一門の棟梁(とうりょう)として白河(しらかわ)・鳥羽(とば)両上皇に接近して中央政界に進出したのに対し、忠正は崇徳(すとく)上皇や藤原頼長(よりなが)との関係が深かった。このため、保元(ほうげん)の乱が勃発(ぼっぱつ)すると、崇徳上皇の召しによって武士団を率いて参加し、後白河(ごしらかわ)天皇方についた甥(おい)の平清盛ら平氏一族と戦って敗れ、1156年(保元1)7月、六条河原において、清盛の手により、長盛(ながもり)、忠綱(ただつな)、正綱(まさつな)らの子息とともに斬罪(ざんざい)に処せられた。

[田中文英]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平忠正」の解説

平忠正
たいらのただまさ

?~1156.7.28

忠貞とも。平安後期の武将。正盛の子。忠盛の弟。通称平右馬助。伊勢国鈴鹿・河曲(かわわ)両郡に所領をもった。顕仁親王(崇徳(すとく)天皇)に仕えて左馬助・従五位下になったが,1133年(長承2)鳥羽上皇のとがめをうけた。その後,藤原頼長に従い,56年(保元元)保元の乱には崇徳・頼長方の中心人物となるが敗北。伊勢にのがれたが,甥の平清盛に捕らえられ,子とともに処刑された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平忠正」の意味・わかりやすい解説

平忠正
たいらのただまさ

[生]?
[没]保元1(1156).7.28.
平安時代末期の武将。正盛の子。清盛の叔父にあたる。右馬助,従五位上。保元の乱に,崇徳院北面であった子長盛とともに,崇徳上皇の召しに応じ,白河殿に参殿したが,敗れて捕えられ,清盛によって六波羅のあたりで斬られた。 (→保元・平治の乱 )  

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平忠正」の解説

平忠正 たいらの-ただまさ

?-1156 平安時代後期の武士。
平正盛の子。顕仁親王(崇徳(すとく)天皇),藤原頼長,高陽院(かやのいん)につかえた。保元(ほうげん)の乱の際崇徳上皇・頼長方に参加して甥(おい)の平清盛らとたたかって敗れ,保元元年7月28日3人の子とともに清盛にきられた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「平忠正」の解説

平忠正
たいらのただまさ

?〜1156
平安後期の武将
正盛の子で,清盛の叔父。保元の乱のとき藤原頼長・源為義らと崇徳上皇を支持。後白河天皇支持勢力の平清盛・源義朝らに敗れ,降伏したが斬首された。

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