平戸(読み)ひらど

精選版 日本国語大辞典 「平戸」の意味・読み・例文・類語

ひらど【平戸】

[1] 長崎県北部の地名平戸島全域と度島(たくしま)高島などから成る。海岸線は屈曲多く良港に富み、古来中国朝鮮との交通の寄港地となる。鎌倉時代以後、松浦(まつら)氏の城下町となり、天文一九年(一五五〇)のポルトガル船入港以来、江戸時代の鎖国まで貿易港として繁栄オランダイギリス商館跡、キリシタン遺跡など史跡に富む。昭和五二年(一九七七平戸大橋が開通し、九州本土と結ばれた。同三〇年(一九五五市制
[2] 〘名〙
① (もと南蛮から伝えられて平戸島で製したもの) 金線・銀線を種々に組んで編んだ細工物。平戸細工
西洋道中膝栗毛(1870‐76)〈仮名垣魯文〉三「根附が象牙に銀の鏡蓋で緒〆が平戸(ヒラト)で」
※茶家酔古襍(1841‐48)一「小眼絵唐津辻平戸等」

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デジタル大辞泉 「平戸」の意味・読み・例文・類語

ひらど【平戸】

長崎県北部の市。北松浦半島一部平戸島生月いきつき的山あづち大島などからなる。もと松浦氏の城下町で、古くから中国大陸との交易根拠地鎖国まではオランダ・イギリスなどとの貿易港として栄えた。平成17年(2005)10月、大島村・生月町・田平町と合併。人口3.5万(2010)。

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日本歴史地名大系 「平戸」の解説

平戸
ひらど

中世よりみえる地名。「和名抄」に記される松浦まつら庇羅ひら郷のあった庇良ひら島のうち、平戸瀬戸をやくす地勢上の重要さからか、その北西部を称する地名であったとみられるが、鎌倉期以降はこれが島名ともなったらしい。安貞二年(一二二八)三月一三日の関東裁許状案(青方文書、以下断りのない限り同文書)に引く寿永二年(一一八三)三月二二日の清原三子譲状案に「平戸」とみえ、当時の表記であるとすれば、平安末期には平戸と記されていたことになる。平氏にあやかって庇羅戸などを改め、佳字とした可能性も指摘されている。

〔平戸松浦氏〕

松浦氏の一族のうち宇野うの御厨執行の松浦直の子の披を始祖とする峰氏は、平戸を拠点としてのち平戸松浦氏として勢力を伸ばしていくが、峰氏の有力な所領となる小値賀おぢか(五島を含む広範囲の通称)の地頭職について、峰氏以前から相論があった。同島の本領主とされる清原是包が領家から勘当されて没収され、その後を直が引継いだという。直は寿永三年子息の連に同島を譲ったが(安貞二年三月一三日関東裁許状案)、連は是包の甥の尋覚と相論になり、建久七年(一一九六)尋覚の地頭職補任が認められたあとも(同年七月一二日前右大将家政所下文案)、なお紛争が続いていた。尋覚は承元二年(一二〇八)同職を嫡子の藤原通澄(通高)に譲与し、次男の家高に同島のうち浦部うらべ(中通島)を譲り(同年二月日尋覚譲状案)、家高はのち青方氏を称した。しかし建保七年(一二一九)連は甥の持を嫡子とし、小値賀島を相伝の所領として譲っている(同年六月三日松浦定西譲状案)。しかも承久元年(一二一九)持は藤原通澄から小値賀島の地頭職を譲られ、親子の契を結んでおり(同年一一月二日藤原通澄譲状案)、ここにいたって峰氏の小値賀島支配の根拠が成立する。

しかし、是包の姪で直の妻である清原三子が小値賀島の知行を主張、三子の孫山代固が論人として召文を受けながら参上しなかったらしく、承久三年峰持があらためて安堵された(同年五月二六日関東下知状案)。なおも山代固の押領が続いたため、安貞二年その知行停止を内容とする関東の裁許が出されたが、これは是包以来の経緯を詳細に記すもので、是包の勘当は高麗船を移すなど狼藉をはたらいたことに起因し、また清原三子は、別れた夫源(松浦直)が養子とした連は「平戸蘇船頭後家」の連れ子つまり宋人の子であるといっており(安貞二年三月一三日関東裁許状案)、すでに海洋を舞台とする平戸の性格がうかがえる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平戸」の解説

平戸
ひらど

長崎県北部に位置し,平戸島・度(たく)島からなる。古代から海上交通の要地で,遣唐使は庇良(ひら)島(平戸島)を寄港地として利用。中世には松浦(まつら)党の諸氏が勢力をふるい,16世紀の倭寇の拠点ともなった。1550年(天文19)ザビエルが布教を行い,近世の禁教令以後も多くの信者が潜伏キリシタンとなった。松浦氏平戸藩の城下町で,近世初期にはオランダ貿易の窓口。1955年(昭和30)6村を合併し市制施行。77年平戸大橋が開通し,対岸の田平町と陸上交通で結ばれた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「平戸」の解説

平戸
ひらど

長崎県の北西端にある港
古来,朝鮮・中国との海上交易の基地となっており,松浦氏の下で繁栄し,1550年にザビエルの布教以後はキリシタンが増加した。また,ポルトガル・オランダ・イギリスとの交易が行われ,特に江戸時代初期にはオランダとの交易で藩財政は潤った。しかし,オランダ商館の長崎出島移転後には,かつての繁栄は失われた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「平戸」の解説

平戸
ひらど

長崎県北西部,平戸島にある中心港市
古くからの貿易港で,遣唐使船の寄港地でもあったが,1550年ポルトガル船の入港以来,領主松浦 (まつら) 氏の保護により,対外貿易の一大中心地となった。1641年オランダ商館の長崎移転後は衰退し,単なる漁港となる。1955年市制を施行。

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世界大百科事典内の平戸の言及

【長崎貿易】より

…(1)南蛮貿易期 開港後まもなく,一時イエズス会領になったので(1580),それまで九州各地に渡来したマカオからのポルトガル船や,マニラ発のスペイン船は長崎に集中するようになり,江戸時代に入ると唐船(江戸時代には明,ついで清朝船だけでなく,東南アジア各地からのジャンクもそうよばれた)の入港も急増し,さらに朱印船の中心的な発着港として栄えた。これに対し後発のオランダ,イギリスは,それぞれ1609年(慶長14),13年に平戸に商館を建てて日本貿易を開始した。平戸は中世以来の唐船貿易の一大根拠地でもあったが,直轄地長崎での糸割符制,キリシタン禁制を柱とする内外商人規制は,しだいに平戸へも拡大された。…

【肥前国】より

…竜造寺氏の勢力は衰退し,代わって鍋島氏,松浦氏,大村氏,有馬氏などが戦国大名として肥前国の覇を争うことになった。
[キリシタン大名]
 1550年(天文19)6月ポルトガル船が平戸に入港したのを契機として,肥前国各地(主として現在の長崎県下)にヨーロッパ船が入港し,戦国大名との間で貿易を行い,鉄砲をはじめとする新兵器を提供した。またフランシスコ・ザビエルが50年8月平戸に立ち寄りキリスト教を布教したので,松浦,大村,有馬氏領内には多くのキリスト教信者が生まれた。…

※「平戸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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