ひら‐た【平田】
[1] 〘名〙
※
書紀(720)神代上(兼方本訓)「是の後に日神の田
(みた)、三処
(みところ)有り。号
(なつ)けて天安田
(あまのやすた)・天
(あま)の平田
(ヒラタ)・天
(あま)の邑并
(むらあはせ)田と曰ふ」
※東寺百合文書‐フ・長祿四年(1460)九月二三日・若狭太良庄百姓申状「其外平田損免之事者、国中引懸不レ可レ有二其陰一候」
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デジタル大辞泉
「平田」の意味・読み・例文・類語
ひらた【平田】[地名]
島根県北東部、宍道湖の北西にあった市。近世は木綿取引の市場町として発達、妻入り土蔵造りの町並みが残る。平成17年(2005)に簸川郡4町とともに出雲市と合併。→出雲
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平田
ひらた
宍道湖西岸、出雲平野北東端の平地を占め、北西方の一部は丘陵地。古くから宍道湖の湖上交通と、陸上交通や斐伊川流域の河川交通との結節点として発展した。
〔平田保〕
古代楯縫郡沼田郷と玖潭郷の境界辺り、現平田市平田町を中心とする地域が開発されて、別符の保として新たに成立した中世的所領。建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造営所注進状(北島家文書)に「平田保」とみえ、出雲郷(現東出雲町)・馬来郷(現出雲市)などとともに流鏑馬一五番の第五番を勤仕していた。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳には安来庄などとともに第一五番の舞を勤仕する「平田保十三丁二反半多胡三郎兵衛尉」がみえる。地頭の多胡三郎兵衛尉は出雲郷の多胡四郎入道や馬来郷の多胡左衛門尉と同族。承久の乱後に、新たに地頭職を得て当保に入部したものであろう。永仁六年(一二九八)七月日の惟宗頼直寄進状(鰐淵寺文書)によると、頼直は「平田保内一分方踏形二町内」の三段を、法華不断読誦料田として鰐淵寺に寄進している。当保と鰐淵寺は地理的に近いことから、同寺の料田や坊領が、保内に散在成立していたものと推定される。しかし、この後、広義の国衙領に由来する平田保という所領名は用いられなくなる。
〔通商拠点としての発展〕
「海東諸国紀」には、美保関郷(現美保関町)と並んで平田がみえ、明代の一五七七年成立の「図書編」にも安来、宇龍(現大社町)などと並んで平田が記されている。当地は室町期になると朝鮮や明にまで知られた港津に発展、宍道湖の湖上水運と、斐伊川の河川水運や陸路をつないで杵築大社(出雲大社)や雲南三郡を結ぶ通商路との結節点的な機能を果すようになっていた。そのため商人が集住する町場が形成されて、目代を代表者とする商人の結束も認められる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
平田
ひらた
島根県北東部,出雲市北東部の旧市域。島根半島の西部にあり,出雲平野北東部から北は日本海岸,東は宍道湖西岸に及ぶ。 1955年平田町,佐香村,北浜村が合体して市制。 1960年伊野村を編入。 2005年出雲市,佐田町,多伎町,湖陵町,大社町の1市4町と合体して出雲市となった。中心市街地の平田は近世からの市場町で,明治期前半までは雲州木綿の集散地。近年は縫製業,自動車部品工場などが立地。平野部では米作,果樹栽培,日本海に面する漁村では沿岸・養殖漁業が行なわれ,十六島海苔 (うっぷるいのり) は有名。史跡上島古墳,猪目洞窟遺物包含層があるほか,国の重要文化財を数多く所蔵する鰐淵寺,一畑薬師などがある。市域の一部は宍道湖北山県立自然公園に属する。
平田
ひらた
山形県北西部,酒田市南東部の旧町域。東部は出羽山地に属する山岳地帯であるが,西部は庄内平野東端に含まれる平坦地が開ける。 1954年田沢村,北俣村,南平田村が合体し平田村となる。 1964年町制施行。 2005年酒田市,八幡町,松山町と合体して酒田市となった。最上川の右岸にあり,庄内米の産地。野菜栽培のほか,豊富な山林資源をもとに林業が行なわれている。
平田
ひらた
岐阜県南西部,海津市北東部の旧町域。長良川と揖斐川に囲まれた輪中地域にある。 1955年今尾町と海西村が合体して平田村が成立。 2005年海津町,南濃町と合体して海津市となった。中心集落の今尾はかつて城下町であった。米作を中心に野菜,果樹の施設栽培が行なわれる。
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