平安末期の武将。平重盛(しげもり)の長男。平氏の嫡流のため幼少より重んぜられ、右近衛権少将(うこのえごんのしょうしょう)、中宮権亮(ちゅうぐうごんのすけ)、春宮(とうぐう)権亮などを歴任した。容姿秀麗で、後白河(ごしらかわ)法皇の50歳の賀に際し、桜花をかざして青海波(せいがいは)を舞い称賛され、桜梅(おうばい)少将ともよばれた。源平争乱が起こると、1180年(治承4)源頼朝(よりとも)追討の総大将として富士川に対陣したが、水鳥の羽音に驚いて敗走し、清盛の怒りを買った。翌年の尾張(おわり)墨俣(すのまた)川の戦いでは源行家(ゆきいえ)の軍を破り、その功によって、右中将(うちゅうじょう)、蔵人頭(くろうどのとう)、従三位(じゅさんみ)に昇進し、世に小松三位中将とよばれた。ついで83年(寿永2)5月に源(木曽(きそ))義仲(よしなか)追討のため北陸に向かったが、越中(えっちゅう)(富山県)の礪波山(となみやま)において義仲の奇襲を受けて大敗し、平家一門と都落ちして西海に走った。しかし、『平家物語』によると、世の無常を感じて讃岐(さぬき)(香川県)の屋島(やしま)から脱出して高野山(こうやさん)に入り、剃髪(ていはつ)して浄円(じょうえん)と号し、84年(元暦1)3月、那智(なち)の海に入水(じゅすい)したという。ただし、その最期については伝承、異説が多い。
[田中文英]
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平安末期の武将。通称桜梅少将,小松中将。重盛の長男。平氏の嫡流として幼少より重んじられる。1180年(治承4)源頼朝追討の総大将となったが富士川の戦で敗走。翌年尾張墨俣川の戦で源行家を破り,その功により右中将・蔵人頭・従三位に進む。83年(寿永2)越中砺波(となみ)山の戦で源義仲に大敗し,妻子を京都に残して平家一門と西海に走ったが,のち紀伊にのがれ那智で入水したという。
執筆者:田中 文英
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(上杉和彦)
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1158?~84.3.28?
平安末期の武将。重盛の長男。通称は桜梅少将・小松少将。平氏の嫡流として若年より重要な役割をはたす。1167年(仁安2)従五位上。80年(治承4)富士川の戦で総大将となったが,戦わずに敗走,清盛の怒りをかった。翌年,尾張国墨俣(すのまた)川の戦で源行家軍を破り,その功などにより従三位。83年(寿永2)越中国礪波山(となみやま)の戦(倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦)で源義仲軍に惨敗,都落ちに従ったが,翌年一門から離れた。「平家物語」は出家したあと,那智で入水したとする。
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…フシ物。平維盛(これもり)は,屋島の戦陣を離脱して紀州に渡り,高野山で髪をおろした後,熊野三山参詣に赴いた。最初に参った本宮は,本地(ほんじ)が阿弥陀如来だというので,来世の往生を願い,また都に残した妻子の平穏を祈った。…
…〈砺波山(となみやま)の戦〉ともいう。1183年(寿永2)5月,越中・加賀国境の砺波山俱利伽羅峠で,木曾義仲が平維盛の軍を破った戦闘。80年(治承4)9月信濃に挙兵した義仲は,信濃,越後を制圧,81年中には越前以東の北陸道の武士を多く指揮下に置いた。…
…しかし伝承では,水葬の棺を沈めたのは那智沖の山成島の岩礁であったという。この山成島はまた,《平家物語》の〈維盛入水の事〉では,中将平維盛が念仏とともに飛び込んで入水往生したところで,供の与三兵衛重景と石童丸も同行として入水した。そうすると中世の補陀落渡海には入水往生が多く,土中入定,焼身往生などとともに捨身往生の一形態であったことがわかる。…
…フシ物。平維盛(これもり)は,都の妻子が気がかりでひそかに屋島の戦線を離れ,高野山に滝口入道(滝口・横笛)を訪ねた。この僧はもと館に仕えた武士で,若いころ横笛という女と恋をした。…
※「平維盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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