小説家、随筆家、考証家。本名成行(しげゆき)。別号蝸牛庵(かぎゅうあん)、雷音洞主(らいおんどうしゅ)、脱天子など。慶応(けいおう)3年7月23日(一説に26日)に江戸の下谷で、幕臣成延(しげのぶ)、母猷(ゆう)の第4子として生まれる。次兄郡司成忠(ぐんじなりただ)は海軍大尉、次弟成友(しげとも)は経済史学者、妹延子、幸子(さちこ)は音楽家として知られる。家は代々江戸城の表坊主衆を勤め、有職故実(ゆうそくこじつ)や遊芸に詳しく、露伴もまたその薫陶を受けて育った。幼少時から儒学を学び、また曲亭馬琴(ばきん)、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)らの近世小説や中国小説を耽読(たんどく)した。1883年(明治16)に父の勧めで電信修技学校に入学、翌年卒業後の実習を経て85年北海道の余市(よいち)に電信技手として赴任した。しかし、坪内逍遙(つぼうちしょうよう)の『小説神髄』などによって新しい文学への道を示唆されたことが、露伴の運命を変えることになった。文学への夢と職業との矛盾に悩んだ露伴は、ついに2年後の87年に「よし突貫して此(この)逆境を出(い)でむ」(『突貫紀行』)との決意で余市を脱出し、東京に帰った。帰京後、父の感化で聖書を読んだが、信仰とは無縁だった。同じころ井原西鶴(さいかく)の存在を知って影響を受け、また、仏教関係の書を耽読したという。
1889年(明治22)『都の花』に処女作の短編『露団々(つゆだんだん)』を発表。ついで同年9月の『風流仏(ふうりゅうぶつ)』(『新著百種』第5号)の成功によって文名を得た。恋を失った彫刻師の精進(しょうじん)が女に似せて彫った仏像に生命を吹き込むという、恋愛の至上と芸道の神秘を仏教思想の枠組みを借りて描いた異色作で、東洋哲学を根底に据えた理想主義という露伴文学の独自性もすでにうかがえる。紅露時代として双称された尾崎紅葉(こうよう)が写実に徹し、女性描写に優れていたのに対して、露伴は一芸に生きる男の不退転の気力を雄渾(ゆうこん)な文体で描き続け、無骨な大工の創造への飽くなき執念と意地を描いた『五重塔』(1891~92)に一つの頂点を示している。鯨取りの名手の奔放な生涯を描いた『いさなとり』(1891)、多彩な登場人物の運命の転変を連環して、人生の諸相を彷彿(ほうふつ)しようとした『風流微塵蔵(みじんぞう)』(1893~95、中絶)などの野心作があり、また、90年に『日本之文華』に発表した『対髑髏(たいどくろ)』は、複式夢幻能の形式に擬して、数奇な宿命に翻弄(ほんろう)された女の煩悩(ぼんのう)と解脱(げだつ)を、虚と実のあやなす詩的空間に描いた佳作である。その後、森鴎外(おうがい)、斎藤緑雨(りょくう)らとともに、雑誌『めさまし草』(1896創刊)の創作合評(「三人冗語」「雲中語」)に参加したが、日露戦争後の自然主義中心の文壇動向を嫌悪したこともあって、文明社会の批判を意図した長編『天(そら)うつ浪(なみ)』(1903~05)の中絶後は創作の筆をほとんど廃するに至った。以後は考証、史伝、随筆の世界に新しい領域を開くことになるが、終始、文壇の主流から孤立しながら、老荘、儒仏などの東洋哲学への該博な造詣(ぞうけい)が世人の畏敬を集め続けた。その間、1895年に山室幾美子と結婚、1904年(明治37)に次女文(あや)が出生、また、08年から1年間、京都帝国大学(文科大学)の講師を務め、11年には文学博士の学位を受けている。
大正期の露伴は、『修省(しゅうせい)論』(1914)など、人生への深い洞察を秘めた修養論を書き継ぐかたわら、1919年(大正8)に『改造』に発表した『運命』で史伝の最高峰を極めた。明(みん)の正史に取材して、帝位を追われた者、追った者の半生の対照を克明にたどりながら、人為を超えた「数」(天命)の帰趨(きすう)を鮮やかに表現した傑作である。翌20年には『芭蕉(ばしょう)七部集』の評釈にも着手している。これは心血を注いだ仕事として長く持続され、死の年に至ってようやく完成された。37年(昭和12)に文化勲章を受章、ふたたび創作に意欲を燃やし、小説集『幻談』(1941)所収の4編が書かれた。なかでも『連環記』(1941)は仏教の無常観を軸に、さまざまな人間たちの生と死を描き分け、人生の奥行を彷彿する最後の傑作で、『運命』とともに、近代小説の枠組みを大きく踏み越えた自在な手法が闊達(かったつ)な語り口とあわせ注目された。東洋の哲学や文学についての幅広い教養を駆使した露伴の文学はそれ自体として、西洋化を急いだ日本の近代に対する有力な批評的存在であった。昭和22年7月30日没。
[三好行雄]
『『露伴全集』41巻・別巻2・付録1(1978~80・岩波書店)』▽『柳田泉著『幸田露伴』増補版(1942・真善美社)』▽『高木卓著『人間露伴』(1948・丹頂書房)』▽『斎藤茂吉著『幸田露伴』(1949・洗心書林)』▽『塩谷賛著『幸田露伴』全3巻(中公文庫)』▽『篠田一士著「幸田露伴の空間」(『伝統と文学』所収・1964・筑摩書房)』
小説家。本名成行(しげゆき)。別号,蝸牛庵(かぎゆうあん)など。江戸の,代々幕府に仕えて有職故実にかかわったお坊主衆の家に生まれた。兄に千島探検家の郡司成忠,弟に歴史家の幸田成友,妹に音楽家の幸田延(のぶ),安藤幸(こう)などがいる。少年時から和漢の諸書を耽読し,独自の教養世界の土壌を培った。電信修技学校に学び,技手として北海道に赴任するが文学への思いやみがたく,職を放棄して東京へ帰り,尾崎紅葉らと交わりながら創作活動を開始し,《風流仏》(1889)によって新進作家の場を確保した。その後精力的に執筆を続け,《対髑髏》《一口剣(いつこうけん)》(ともに1890)などの短編,《いさなとり》(1891)などの長編を発表したが,なによりも中編《五重塔》(1891-92)が,露伴の文名を明治の文学界にゆるぎなく定着せしめた。しかし明治期には,さらに《風流微塵蔵》(1893-95),《天(そら)うつ浪》(1903-05)のような注目すべき長編を書いたが,いずれも未完に終わり,しだいに小説から遠ざかる傾きを見せ始めた。エッセー,考証,古典の校訂解題といった仕事が重なり,一時京都大学講師を務めもして,その博識には敬意を払われたが,小説家としては第一線を離れたとみなされたのもやむをえなかった。それだけに,大正期に入って《運命》(1919)を発表したときは大きな驚嘆を呼び起こしたが,この作も小説というより,同じころに書かれた《平将門》(1920)などと同様,史伝というほうが似つかわしい。昭和期に入ってからの晩年も《芭蕉七部集》の評釈を中心とした考証的な仕事が主で,《幻談》(1938),《連環記(れんかんき)》(1940)などの作があってもその印象は変わらない。だからといって,小説家が随筆家,考証家に転じたと見るのは短見にすぎよう。なるほど初期の作品は,想像力を駆使し華やかな修辞を操って,幻怪なあるいは壮麗な綺譚の世界を築きあげたといえるし,事実にもとづいた史伝のほうへ移ったのは想像力が減退したからだと受け取られても無理はなさそうである。しかし事実をただなぞりながら記述するのではなく,事実の重みを抵抗として受けとめながら,この抵抗に見合うほどの力強い想像力を働かせ,双方の力の拮抗した緊張状態の上に作り上げられたのが《運命》《連環記》などの諸作である。この事実に即した想像力の気魄のこもった一貫性によって,それらの諸作は,近代小説の多くがほとんど保ちえないほどの広がりと厚みを獲得している。露伴は同時代の代表的作家たちのように西欧近代には親しまなかったし,その意味で古風だが,この古風さには近代をこえる力がある。
執筆者:川村 二郎
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明治〜昭和期の小説家,随筆家,考証家,俳人
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(古田島洋介)
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1867.7.23/26~1947.7.30
明治~昭和期の小説家・随筆家・考証家。本名成行(しげゆき)。別号蝸牛庵(かぎゅうあん)・脱天子など。江戸下谷三枚橋の幕府表坊主役の家に生まれる。兄弟に実業家幸田成常,千島探検の郡司成忠,歴史家幸田成友,ピアニスト幸田延,バイオリニスト安藤幸がいる。東京図書館で漢籍・仏書・江戸雑書を独学。電信修技学校卒業後,北海道の余市に電信技師として赴任。のち帰京して1889年(明治22)「露団々(つゆだんだん)」を発表。以後「風流仏」「対髑髏」「一口剣」「五重塔」などで愛の極致と芸道への執心を描き,尾崎紅葉と並び称される。評論・随筆に「一国の首都」「讕言(らんげん)」「長語」など。大正期に「運命」「蒲生氏郷(がもううじさと)」などの人物史伝を,昭和期には「芭蕉七部集」評釈に精力をそそいだ。「露伴全集」全41巻,別巻2巻。
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…学統として秀成の跡を継ぐものはないが,語源に対する興味から,こんにちも音義説に似た議論をする人はいる。幸田露伴の〈音幻論〉のごときは一種の音義説とみなしうる。【亀井 孝】。…
…幸田露伴の小説。1891‐92年(明治24‐25)《国会》に連載。…
…森鷗外主宰の雑誌《めさまし草》第3~7号(1896年3月~7月)において,鷗外,幸田露伴,斎藤緑雨の3人が行った作品合評。〈頭取(とうどり)〉(鷗外)による作品紹介に続いて,〈ひいき〉〈さし出〉などの変名の人物が批評する形式をとる,最初の匿名座談会形式の文芸時評。…
…しかし,文芸書出版は続け,96年には第2期《新小説》を創刊した。幸田露伴が編集にあたったこの雑誌は1927年《黒潮》と改題されるまで明治・大正年代の文芸雑誌として最も重きをなした。和田は,出版成功のもとは第1に著者にあり,として文壇の一流作家の作品をつねに重んじ,尾崎紅葉の作品を独占的に出版したほか,夏目漱石の主要作品のほとんど,島崎藤村の詩集,森鷗外,泉鏡花などの作品を出版した。…
…針の大小は数字で表示されるが,日本では数字が小さいほど小型,欧米はこの逆になる。針は大は小を兼ねない,針の型は迷信にすぎないと断言したのは,釣好きで知られる幸田露伴だが,やはり型の選択も必要だろう。
[うき(浮き)とおもり]
うきは対象魚と釣場の流速,波などの条件によってさまざまな形(図d),素材がある。…
…だが文明開化を経て西洋崇拝の風潮が強まるとともに,端唄は急速に衰退した。かつて文人墨客の手がけた《夕ぐれ》《春雨》《紀伊の国》《京の四季》などが歌われなくなるのを嘆いて,尾崎紅葉や幸田露伴が〈端唄会〉(1901)を催したが,大勢の挽回はできず,1920年代には端唄という名称も音楽も,世間はほとんど忘れ去った。しかし,芸の伝承は絶えることなく,藤本琇丈やその門下の根岸登喜子ら幾人かの有能な演奏家によって継承され,第2次世界大戦後,ふたたび愛好者層を増やしつつある。…
…幸田露伴の小説。1940年(昭和15)《日本評論》に発表。…
…《蓬萊曲》と《舞姫》は,共に個我に苦しむ主人公を設定して,日本の近代的な自意識の不安を表象しており,また,《於母影》のもつ,清新な感情の解放は,透谷や島崎藤村の詩に深い影響を与えた。 これ以外に,日本固有の精神風土から内発したロマン主義という観点に立って,杉山平助のように,幸田露伴をその先駆者としてあげる例もある(《文芸五十年史》)。杉山は,露伴の仏教を主とする東洋的な運命観を根底にした理想主義に,リアリズムと対抗するロマン主義の誕生を見たのである。…
※「幸田露伴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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