うち開けた場所でおもに歩行者の利用に供するもの。広場を機能別にみれば,市民が集う集会広場,教会の前などの宗教広場,市が開かれる市場広場,オベリスクや彫像が立つ記念広場,簡易なスポーツに利用される運動広場,ロータリーや駅前広場などの交通広場,集合住宅の周りなどに配される生活広場,災害の際に避難する避難広場などがあり特化した機能が想定されるが,広場は本質的には多用途の空間である。
広場は都市計画法11条〈都市施設〉の中に公園とならんで公共空地の一つとして,都市公園法では2条に公園施設の一つとしてあげられているが,ここに規定されるもののみが広場ではない。児童公園など街角につくられる小公園は公園というよりも広場といったほうが適切であり,公園の中にもさまざまな広場がある。駅前広場は管理区分としては道路の一部であり,地下街につくられる広場は公共地下道の一部である。また建物の敷地内につくられる広場もあれば,建物の中に組み込まれた広場もある。このように広場は法規定や名称にこだわらず実際には広くとらえられている。
読者の広場とかコミュニティひろばとかいわれるように,広場はコミュニケーションのチャンネルとしての意味ももつ。古代ローマの広場をさすフォルムforumが公開討論会を意味するのも同じである。人々に開かれ何がしかの相互交流が図られる場が広場なのである。広場の研究家であるポール・ズッカーは,広場を〈コミュニティを単に個々ばらばらなものの集合体ではなく,真にコミュニティたらしめる〉心理的・物理的役割をもった空間として位置づけている。
広場は西欧の都市では明確な形態をもち,古くから都市の重要な空間として存在してきたが,日本の都市には広場がなかったといわれる。明治に入って西欧都市の広場を知る機会が増えたが,広場を表す定まった言葉をもたなかったことがこのことを表している。明治期の文献をみると,しばらく広場に火除地,街衢(がいく),公場,公苑,広逵(こうき)などの語があてられていたが,日露戦争に後広場という語が定着しはじめたといわれ,1919年制定の旧都市計画法において都市施設の一つとして広場が明記された。これより古く広場という言葉がなかったわけではないが,広場は広庭の音便とされ広い場所のことを意味していた。
西欧都市の広場は古代ギリシア都市のアゴラagoraや古代ローマ都市のフォラムに始まるとされている。ギリシア都市には神々のアゴラと呼ばれるアクロポリスがあり,都市の神聖な精神的な核であったが,アゴラは現実的な市民生活の核であった。初めは主として政治的な集会や立法上の集会のための場であったが,しだいに商業機能に特化し,さらには周囲に祭壇や小神殿が設けられるなど都市の中心としての性格が高まっていった。
ローマの最初のフォラムであるフォルム・ロマヌムは何世紀にもわたって存続し,神殿や集会所,行政,政治の施設,商店などにとり囲まれていたが,他所に商業広場が営まれるようになりフォラムはしだいに神聖な場所,儀式的な場所になっていった。前1世紀ごろのポンペイのフォラムは柱廊で囲まれた長方形プランでおもに公共の催しの場として機能していたといわれる。帝政ローマ時代のローマではカエサルのフォラムをはじめとして皇帝のフォラムが次々に建設された。5人の皇帝フォラムが軸線上に連鎖するフォラム群はフォーリ・インペリアーリと呼ばれる壮大なものである。
アゴラやフラムに源流をもつ西欧都市の広場は,以後の中世,ルネサンス期,バロック期を経て大きく開花した。ヨーロッパの中世は各地で都市が再興され建設された時代であり,その多くは広場を核として都市が構成されていた。中世広場のおもなものはその都市の成立を裏づけるように教会前広場,市庁舎前広場,ギルドホール前広場,市場広場であり,おのおの独立していたり併用であったりした。ミュンヘンの市場広場であるマーリエン広場やシエナの市庁舎前のカンポ広場などドイツやイタリアの中世広場がよく知られている。ルネサンス期の広場は周囲の建物に装飾を施したり,彫刻や噴水を置く一方で,広場のプランを幾何学的形状にすることによって空間の美的な秩序化を図ろうとしたものが多く,とくにイタリアで発展した。ビジェーバノの王宮前広場などがある。バロック期の広場は都市全体を美的に秩序づけようとする都市改造のなかで,重要な役割を演じた。ローマの皇帝フォラムにすでに軸線によって空間を連結する手法がうかがえるが,バロックの広場の多くは都市の空間を秩序づける直線的な街路の交差部に配されたのである。ローマではキリスト教会の頂点である教皇庁が存在する壮麗な都市をつくり出すための都市改造の一環として,ミケランジェロ,ベルリーニなどの芸術家が動員され広場を計画した。一方,パリではブルボン王朝の栄華を都市空間に示すべく,ル・ノートル,マンサールなどの計画によって整備,改造が進められた。ローマでは,カンピドリオ広場,サン・ピエトロ広場など,パリではバンドーム広場,コンコルド広場などがある。このような都市空間の秩序づけはパリではさらにオスマンの都市改造に引き継がれるとともに,イギリスやドイツはもとよりワシントンなど新大陸の首都計画にも大きな影響を与えたのである。
広場は数的にも造形的にもイタリアやフランスで大きく開花したが,イギリスやスペインではきわだった広場は少ないとされている。気候や社会・経済上の要因がいわれるが,さだかではない。スペイン人は16世紀以降アメリカ大陸に多くの都市を建設したが,それらの都市は中心部に広場をもつパターンで計画・建設されたのである。
西欧の広場の源流がアゴラやフォラムであったとすれば,日本の広場の源流はヤシロである。ヤシロは屋代で神を迎えるための仮屋をつくるべき場所を意味した。このヤシロの空間は神を祭るために人々が参集する場所であり,ここから市のような商業空間,歌垣の場のような社交空間が展開していった。社寺境内や門前が長く商取引や娯楽の場として機能していたことはこのような由来とも関係がある。
江戸や京など近世の日本の大都市には西欧都市とは違った形で広場が生まれた。社寺境内には開帳が行われたり芝居小屋や茶店がおかれるなど娯楽空間化するものも多く,京の鴨の河原もまた一大娯楽空間となった。江戸では大火がひんぱんにあり,延焼をくい止めるために火除地や広小路がつくられたが,両国広小路などなかには盛り場化するものがあった。このような空間は形態的な違いこそあれ,機能的には西欧都市における宗教広場や市場広場と類似のものと考えられる。また辻なども人々の集まる場であった。
都市空間を視覚的に美的に秩序づける美観広場もしくは記念広場は日本の歴史都市には見いだせない。平安京の朱雀大路は幅85mの壮大なものであり儀式的な広場であるとみなせるが,このような空間は以後の日本の都市では主要な空間要素としては定着しなかった。市民が参集する集会広場もまた日本の都市には生まれなかった広場である。社寺が惣などの地域共同体の構成員の集会場所となり,近世の京都などの都市ではそうした集会のために会所という専用の建物が生まれた。西欧の都市が集会広場をシンボリックにもつのに対し,日本の集会場所は個別的・散在的である。このことは日本の歴史的な都市社会の特徴を反映している。
日本の都市にも広場的な機能をもった空間が見いだせるが,西欧都市の広場のように額縁のような周囲の建物や人工的な空間を思わせる舗装がなく空間形態としてはあいまいなものが多い。また仮設的な施設によって構成され,空間利用もしばしば変更あるいは禁止されるなど固定的ではなかった。このように視覚的・形態的秩序をもたないことや機能が流動的であったことも,日本の広場の特徴である。西欧広場のように教会や市庁舎などの建物をきわだたせる効果をもつ広場の建設やバロック都市で試みられた都市を視覚的に秩序づけようとした都市改造の事例は,日本の歴史都市にはない。豊臣秀吉による京都改造,江戸の火除地建設,山片蟠桃の大阪の広小路構想,いずれをみても市街地を美的に再編しようとした気配はなく,日本の都市改造はきわめて機能主義的であった。ところが明治に入ってオースマンによるパリ改造を範として東京市区改正事業が計画された。西欧都市の美的な魅力は日本の明治官僚をもとらえたのであるが,財政的な理由などから,計画ははるかに縮小された形でしか実施されなかった。
西欧の都市では歴史的遺産としての広場が残存しており,いまだに市などの開かれている広場もあるが,都市における自動車の増大のために駐車場化するなど広場本来の機能が果たしえなくなってきたものが多い。多くの西欧の中心部は歴史的市街であるため元来自動車利用に適した空間ではなく,しだいに都心の環境が悪化してきた。そうした状況を改善するために都心の歩行者空間化が1950年代からヨーロッパの各都市で行われており,そのなかで西欧都市の広場は再びよみがえろうとしている。歴史的な環境を生かしながらの再活性化がある一方で,ストックホルムのロアー・ノルマルムやパリのフォルム・デ・アールのように再開発によって新しいショッピング広場も生み出されるようになってきた。このような手法はアメリカや日本などにも波及していくようになる。アメリカの都市では高層ビルの敷地内に広場をつくるなど新しい広場が多数生まれている。
日本の都市をみる場合,例えば江戸の火除地が公共建築物の敷地になるなど広場的に利用されていた空地は消滅し,高密度でゆとりのない都市空間が形成された。日本でも1970年代に入って歩行者空間の整備がいわれるようになり,広場的な空間の整備が大きな課題となっている。西欧都市のような壮麗な広場だけが広場ではない。日本の都市では建築敷地のなかにあるいは建物の内部に,あるいは道路などの利用転換によって新しい日本的な形の広場がつくられていく必要がある。
→公園
執筆者:鳴海 邦碩
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
広々と開けた場所。ただし文化的には西欧的都市における広場をさす。ここには市(いち)が立ち、人々が群れ集まり、いろいろな出会いがあったり、情報や意見の交換が行われたり、民衆の集会の場ともなる。そこから新聞やテレビにおいても、人の出会いや多数の意見を集めて紹介する欄や番組をも比喩(ひゆ)的に「何々の広場」とよぶようになった。
このような都市的広場の起源は、古代ギリシアの都市国家(ポリス)の中心につくられた広場「アゴラ」agoraに求められる。アゴラとは「アゴラゾ(集まる)」を語源にしたことばで、周辺に神殿や役所が建ち並び、市が立ち、人々が多数集まりたむろしていた。集まった人々は出会いを喜び、歓談したり、意見を闘わせたりして、この広場を戸外での生活の場の一部に組み入れていたが、なにか事があると広場は政治的集会の場ともなった。古代ローマ時代、広場は「フォルム」とよばれたが、古代ギリシア時代と同様、市民経済生活の中心をなす市場であり、民会の議場であり、祭りや催しの場であり、人々が日常的にたむろして時を過ごす場所でもあった。この古代ギリシア・ローマの伝統は、中世ヨーロッパの都市にも受け継がれてゆく。王宮、役所、寺院、裁判所などが広場を囲んで建てられ、市が立ったり、祭りが行われたりする一方、軍隊の勢ぞろいする場ともなった。17世紀以後は、建築技術と庭園技術が導入され、広場は都市の「顔」としてますます華麗壮大化した。外国から訪れた者たちは、とくに中央広場を見た印象で、その国の国力や文化水準を計ったし、そこに住む人々は広場の華麗壮大さで自分たちの都市や国家や文化の隆盛を誇示したのである。このようにして、ヨーロッパおよびヨーロッパの植民地の都市づくりに、りっぱな広場づくりが不可欠のものとなった。
外敵から都市を防衛するため周囲を城壁で囲むと、時がたち人口が増えても城壁を外側に動かして移動させることは困難である。したがって城壁内には建物も人口も過密になり、生活の空間が乏しくなる。そこで広い空間を求めて人々は広場に出かけ、美しい広場を公共の憩いの場とするようになった。子どもを遊ばせ自分は編物をする女性の姿もみられる。政治談義をする男たちもいる。芸術や文学を語り合う者たちもいる。このように広場とは個人も利用する公共施設、情報・政治・文化芸術のセンターの役割をも担った。こうした広場の伝統のない日本人が、民主主義のだいじな場の一つとして、広場にあこがれるのは当然であろう。なお、ヨーロッパのカフェで歩道に小卓・椅子(いす)を置いて人々が道路に向かって座るテラスも、こうした広場でつくられた習慣から派生したものである。
[深作光貞]
広場は、歴史的には鎮守の境内や寺院広場、市場や交易広場のように、交流拠点施設である神社、寺院、市場などの「付属空間」として生まれた。その後、人々の戸外生活が拡大するにつれて、集会広場や公園、スポーツ広場のように空間そのものの存在と形態が意味をもつ「生活空間」として発展した。人々が自由な交流を妨げられ閉鎖的生活を強いられていた中世や近世の封建社会とは異なり、現代社会は資本主義経済の発展とともに人々の交流と生活の社会化が極度に進んだ社会である。そしてこの流れは今後ますます発展し、それとともに人々の戸外生活およびその受け皿としての広場もさらに多様化することは間違いない。現代の広場に対する重要な視点は、人々の戸外生活が近隣での日常生活から広域的スケールでの余暇生活に至るまでの緊密なネットワークを形成しているように、広場もまたそれに対応する連続的で多様なネットワークをもたなければならない点である。子どもやお年寄りが安心して過ごせる近隣広場や公園、地域住民のコミュニティ生活の場であるショッピング・モールやスポーツ広場、四季折々の文化芸術活動や各種政治集会などの舞台となる中央広場や野外緑地、そして非常時の避難・防災広場などから構成されるネットワークが必要である。都市ネットワークの「結節点」ともいうべき広場は、点から線へ、線から面へ、これからも豊かに発展し続けるだろう。
[広原盛明 2024年2月16日]
『坂本新太郎監修『日本の都市公園――その整備の歴史』(2005・インタラクション)』▽『都市デザイン研究体編著『復刻版 日本の広場』(2009・彰国社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… 市は,都市と村落の人々の相互交流の場でもあり,ものと人の集散の場,情報の集散の場でもある。市が開設された場所として,社寺の庭,門前,宗教的権威の下に保護された場所,広場等があげられるように,単に商業的活動のセンターであるばかりではなく,そこに集まる群衆を対象とし,また彼らを主人公として,その地域の多彩な催し事が繰り広げられる場であった。人々はそこで,ものの売買ばかりではなく,一種の興奮をよびおこす雰囲気を味わい,自らもそれに参加することになる。…
…たとえば庭園を対象とした場合には,植物や岩石の配置,樹木の整枝,剪定(せんてい)および移植,繁殖,管理手法など,主として素材の個々がもつ特質に基づく取扱いが重要視される。対象が公園や広場になると,これらを都市のどこに,どの程度の広さで配置するかという計画技術が求められるようになる。また集団植栽の技術や特殊環境(大気汚染,埋立地など)での緑化技術が必要となる。…
…村境は邪悪なものを呪術的装置を設定して阻止する所であるが,同時に〈坂迎え〉のようにムラにとって望ましい人や霊を送迎する地点でもある。したがって,村境はムラの外れにあるが,外の世界との接点であり,人々の集合する場所であるから,ムラの中心としての広場の役割も果たすのである。境【福田 アジオ】。…
…ギリシア各地でも前7~前6世紀から貨幣が用いられ,交換が行われていた。その伝統はローマに受け継がれ,都市の広場(フォルム)には多数の両替商が店を出していた。ギリシアの場合と同様に,彼らはさまざまな貨幣の直接的な交換を行うだけでなく,振替業務や貸付けをも行っていたといわれる。…
※「広場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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