広島(読み)ひろしま

精選版 日本国語大辞典 「広島」の意味・読み・例文・類語

ひろしま【広島】

[1]
[一] 広島県南西部の地名県庁所在地。太田川のデルタ上に発達。天正一七年(一五八九毛利輝元築城に始まる。のち福島氏が入封し、江戸時代は浅野氏四二万六千五百石の城下町として発展。明治以後軍都としての性格が強く、日清戦争時には大本営が置かれ、第二次世界大戦までは旧日本陸軍第五師団司令部の所在地であった。第二次世界大戦では昭和二〇年(一九四五)八月六日に原子爆弾を投下されて壊滅的な打撃を受けた。戦後は国際平和文化都市として復興。現在は自動車・造船・産業機械・工作機械などの重工業と食料品・家具などの軽工業が発達し、カキ・ノリを養殖。明治二二年(一八八九市制。昭和五五年政令指定都市。八行政区をおく。
[2] 〘名〙 「ひろしまやかん(広島薬鑵)」の略。
洒落本・青楼夜世界闇明月(1789‐1801)数有間勤傾契「『手めへせんどもって来たひろしまはどうした。』『アイおいらんのひばちへ湯をわかしておきいした。』」

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デジタル大辞泉 「広島」の意味・読み・例文・類語

ひろしま【広島】

中国地方中部の県。瀬戸内海に面する。かつての安芸あき備後びんご2国にあたる。人口286.1万(2010)。
広島県南西部の市。広島湾に注ぐ太田川流域の三角州にある。県庁所在地。指定都市機械工業商業が盛ん。もと浅野氏の城下町。日清戦争以来軍都として発展、1945年8月6日に史上最初の原子爆弾が投下された。平和記念公園がある。国際平和文化都市。人口117.4万(2010)。
[補説]広島市の8区
安芸区安佐北区安佐南区佐伯区中区西区東区南区
書名別項。→ひろしま

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改訂新版 世界大百科事典 「広島」の意味・わかりやすい解説

広島[県] (ひろしま)

基本情報
面積=8479.58km2(全国11位) 
人口(2010)=286万0750人(全国12位) 
人口密度(2010)=337.4人/km2(全国18位) 
市町村(2011.10)=14市9町0村 
県庁所在地=広島市(人口=117万3843人) 
県花=モミジ 
県木=モミジ 
県鳥=アビ

中国地方の中央部に位置する県。東は岡山県,西は山口県,北は中国山地を境に島根県,鳥取県に接し,南は瀬戸内海をはさんで愛媛県に対する。

かつての安芸・備後両国の全域にあたる。江戸時代末には広島藩福山藩に天領および豊前中津藩領の飛地があった。1868年(明治1)5月神石郡1村と旧天領の甲奴(こうぬ)郡12ヵ村が新設の倉敷県に編入され,71年の廃藩置県の実施に伴い各藩はそれぞれ同名の県となって,芸備両国は広島県,福山県,中津県の一部,倉敷県の一部に分かれた。同年11月の府県統廃合に際し,中津・倉敷両県下の甲奴郡は広島県へ移管され,それ以外の地域は福山県と合併して新置の深津県(1872年小田県と改称)となった。75年小田県はいったん岡山県に編入されたが,翌76年備後国6郡が広島県へ移管され,現在の県域が確定した。

帝釈峡(たいしやくきよう)遺跡群(庄原市,神石郡神石高原町)は馬渡(まわたり)岩陰,寄倉(よせくら)岩陰,観音堂洞穴など多数の石灰岩の岩陰や洞穴からなり,先土器時代以降の文化層がみられる。大田貝塚(尾道市)は69体もの人骨を出土した縄文前期~後期の貝塚。中山貝塚(広島市東区)は瀬戸内海沿岸における縄文晩期から弥生中期にわたる文化の推移を示しており,弥生土器編年の標式となっている。西山貝塚(広島市東区)は弥生中期末から後期終末の,広島湾を一望する典型的な〈高地性集落〉である。標高258mの貝塚では巴形銅器,銅鏃,丁字頭の土製勾玉などが採集されている。青銅器といえば,銅鐸,銅剣,銅戈が大石の下から伴出したことで著名な福田遺跡(広島市東区)がある。

 石鎚山(いしづちやま)古墳群(福山市)は,古墳時代前期(4世紀後半)の円墳群で,墳裾列石をもち,二神二獣鏡も出土している。浄楽寺・七つ塚古墳群(三次市)は前期から中期にかけての前方後円墳4基を含む172基が集中する。三ッ城(みつじよう)古墳(東広島市)は全長86m,高さ13mと安芸最大の前方後円墳。葺石(ふきいし),円筒・形象埴輪のほか副葬品も豊富で,5世紀後半である。尾市(おいち)古墳(福山市)は1辺12mほどの終末期の方形墳。

 歴史時代では,安芸国分寺址(東広島市)のほか,奈良時代前期の寺町廃寺址(三次市)がある。《日本霊異記》にみえる三谷寺に比定され,完全な法起寺式伽藍配置を示す。塔・金堂址の塼(せん)積み基壇は日本最古の例で,瓦とともに百済の軍守里廃寺址などと類似する。初期の仏教文化が直接,地方に伝播した姿をよく示している。下岡田遺跡(安芸郡府中町)は礎石をもつ建築址,掘立柱建築址,素掘り井戸址などからなる。奈良時代後期末から平安時代と考えられ,806年(大同1)の勅にみる〈安芸駅館〉に比定されている。草戸千軒(くさどせんげん)遺跡(福山市)は芦田川の中州にある平安~江戸時代の遺跡として有名。明王院(旧,常福寺)の門前町でもある港町が旧芦田川のたびたびのはんらんで水没したもので,最盛期は鎌倉時代後半から南北朝時代にかけての時期である。遺構は掘立柱建物からなる町並みで,陶磁器,木製品,土器,金属製品など各種膨大な遺物が出土する。近年,尾道市でも同様の中世以来の港町の大規模な遺構が調査されつつある。
安芸国 →備後国
執筆者:

北と西の県境に標高1000~1350mの中国山地の脊梁部が東西に走り,その南側に標高300~700mの神石高原,高田高原や世羅台地,賀茂台地を含む吉備高原が続いている。高原と台地を刻む江(ごう)の川水系(可愛(えの)川,西城川,馬洗(ばせん)川)の谷は浅くて幅広く,谷頭まで水田がみられる。その中心が三次(みよし),庄原の盆地であり,これより流れ出た江の川は中国山地を西(芸北山地)と東(備北山地)に分断して島根県を経て日本海に注ぐ。瀬戸内海に注ぐおもな河川は西から太田川,沼田川,芦田川などがあるが,いずれも中小河川で,高原や台地の南縁を深く刻み込み,太田川上流には名勝として知られる三段峡がある。平地は太田川下流の広島平野と芦田川下流の福山平野ならびに三次,庄原,西条の3盆地に限られ,県面積のわずか5%にすぎない。島嶼(とうしよ)部は東から東部芸予諸島(向(むかい)島,因島(いんのしま),生口(いくち)島など),中部芸予諸島(大崎上島,大崎下島,上蒲刈(かみかまがり)島,下蒲刈島など),西部芸予諸島(倉橋島,江田島,西能美(にしのうみ)島,東能美島,厳(いつく)島など)に区分され,島嶼の間に備後灘,安芸灘,広島湾が分布する。このような島嶼部の水陸分布は沖積世に元来は谷であったところに水が浸入して形成されたものである。本土沿岸部と島の海岸線は屈曲に富み,入江には内海航行の要港や小型漁船の集まる漁港がある。

 気候は一般的には瀬戸内気候に属し温暖少雨であるが,沿岸・島嶼部と内陸部とでは冬季の温度や夏季の降水量でかなりの違いを示す。1月の平均気温は沿岸・島嶼部で5~6℃,内陸高原部で2~3℃,中国山地で0~-2℃である。一方,8月の降水量は呉~福山間の沿岸部で90mm以下でときおり深刻な水不足に襲われるが,芸北山地は200mmを超す中国地方最大の多雨域であり,これに隣接する広島湾岸も120mm前後を記録する。

農家1戸当りの耕地面積はわずか76a(1995),同農業粗生産額は151万円(1995)であり,著しく零細である。零細経営は藩政期以来の特徴で,例えば明治初期の記録でも農民1人当り耕地は,全国73ヵ国の中で安芸国が下から2番目,備後国が6番目となっている。このため,早くから商品作物の導入を積極的に進めたほか,諸国への行商・出稼ぎ,海外移民が勧められた。第2次大戦後は沿岸部の工業化・都市化に伴って兼業化が進み,1995年までの10年間の兼業率は8割前後である。かつて農家経済を支えてきたものの中で,内陸部の砂鉄,和紙,沿岸・島嶼部のワタ,ジョチュウギク,塩は衰滅した。イグサ,タバコ,コンニャクなどの工芸作物は根強く残っているが,かつての盛況はない。94年の農業粗生産額1376億円の内訳は米39.8%,野菜15.8%,果樹11.8%,畜産25.1%であり,最近15年間の変化は畜産の減少分が野菜と果樹の増加となっている。野菜栽培は従来,広島市および福山市周辺の都市近郊型に限られ,特産品としては広島市北郊で生産される広島菜漬ぐらいであったが,最近は内陸高冷地でのキャベツ,ダイコン,キュウリ,ピーマンなどの特産地形成が進んでいる。果樹の主体はウンシュウミカンであり,温暖な中部島嶼では90%以上の栽培農家率を示す町村もある。近年は需給不安定の対策としてネーブル,オレンジ,ハッサクなど高品質かんきつ類への転換を進めている。神石牛,比婆(ひば)牛の名で知られる中国山地の和牛は,放牧と舎飼いによって1戸平均3~4頭を飼育するが,最近は乳牛と豚の出荷が漸増しているのに対し,肉牛出荷は一進一退を繰り返し,県内14ヵ所あった常設家畜市場も三次,庄原の2ヵ所に統合された。水産業は沿岸漁業を中心とするが,零細なうえに工業化の進展に伴って後継者を奪われ,老齢化が著しい。広島県の水産業の特色はカキ,ノリなどの養殖漁業にあり,とくにカキは全国の70%,全国一の生産をあげている。

零細な農業経営と早くからの商品貨幣経済の浸透によって,県内各地にいろいろな伝統工業が興っていた。砂鉄生産(たたら製鉄)に結びついた広島市の縫針とふろ釜,呉市のやすり,福山市鞆(とも)の船釘,いかり,芦田川下流域のワタを原料とした備後絣(かすり),府中市の桐だんす,福山市松永の下駄,熊野町の筆,呉・三原両市および東広島市西条の酒造などであり,明治以降の近代工業発展への基盤となった。その端緒は官営広島紡績所(1881創設)と呉海軍工厰(1894創設)の設立であり,日清・日露両戦争と2度の世界大戦を通じて機械・金属,造船,繊維・紡績,食品などの近代工業が飛躍的に発展した。第2次大戦後は旧軍時代の優秀な技術と戦災から免れた施設を活用し,おりからの朝鮮戦争と輸出船ブームにのっていちはやく回復した。自動車,造船,一般機械などの加工組立型産業の発展である。さらに広島県は1952年に生産県構想を打ち出し,臨海部に鉄鋼(福山),化学(大竹)など最新鋭の大規模工場を積極的に誘致した。この結果,高度成長期には全国を上回る経済成長を遂げた。しかし,1973年の第1次石油ショックを契機に,広島県のこれらの重厚長大型の産業構造は深刻な不況に陥り,電気機械への転換など産業構造の多角化や高度化に後れをとった。さらに85年の円高は輸出依存度の高い広島経済を大きく停滞させ,減速傾向はバブル崩壊によって90年代もなお続いている。県全体の製造品出荷額等(1995)は全国第13位という比較的高い水準にあるが,その内容をみると輸送用機械が26%で,これに一般機械15%,鉄鋼12%と続く。電気機械の工場が東広島,福山に進出したが,いまだ全体の7.7%を占めるにすぎない。

広島県は近畿と北九州の中間にあり,内海および山陽筋の交通に恵まれているので,古くから商業活動が活発であった。広島藩浅野氏の城下町広島,福山藩阿部氏の城下町福山,内海随一の要港尾道には多くの問屋が集まり,背後に広い商圏をもっていた。1979年の商品販売額は卸売で全国の2.4%(7位),小売で2.3%(11位)であるが,中国5県の実に54.2%を占め,実質的な流通拠点である。ちなみに91年のシェアは52.4%を示し,拠点性が若干低下している。なかでも広島市は福岡市,仙台市,札幌市と同じく広域中心都市として位置づけられ,行政・経済機能において他の3都市と遜色ないが,広範な地域との連係を指示する卸売,広告,情報,サービス業などの業種でははるかに劣っている。これは,瀬戸内沿岸の東西交通の発達のわりには,県内および山陰・四国方面との南北交通の整備が遅れているためである。

瀬戸内海沿岸を東西に走る山陽道(中国路)は,古くから近畿地方と九州地方とを結ぶ幹線道路として重要な役割を果たしてきた。また石見(いわみ)街道,出雲(いずも)街道,伯耆(ほうき)街道はそれぞれ山陰と山陽とを結ぶ連絡路としての機能を果たしていた。現在の国道もほぼ同じルートに沿っており,旧山陽道沿いの2号線をはじめ,54号線(広島~三次~松江),184号線(尾道~三次~松江),186号線(大竹~浜田),261号線(広島~江津)などがある。このほか中国縦貫自動車道(1983開業),中国横断自動車道広島浜田線(91全線開業),本州四国連絡橋尾道~今治ルート(99開業),山陽自動車道(97本線が全線開業)などの高速交通体系の整備が進められた。鉄道は山陽新幹線,JR山陽本線,呉線が沿岸部を東西に走り,芸備線,木次(きすき)線によって広島と松江が結ばれ,三次からは三江線が江津に,福塩線が福山に通じている。また広島~三段峡間(2003可部~三段峡間廃止)には可部線が通じている。海上交通は広島~松山,呉~松山,三原~今治,尾道~今治(後2者は休止・廃止)などの主要航路のほか,沿岸各地と各島嶼間を結ぶ多くの航路があり,広島~別府間の航路も開設されている(現在は廃止)。1993年開港の広島空港(三原市南西部)と従来からの広島西空港(広島市。現,広島西飛行場)の2空港があり,北海道,仙台,東京,宮崎,沖縄などへ定期航空路がある。

県内は自然条件,歴史的背景,そして現在の都市と周辺農村との経済的結びつきによって,広島,備後,備北の3地域に区分される。これは新全国総合開発計画に基づき1969年に設定された地方生活圏の圏域に合致する。

(1)広島地域 県域の西半部を占め,広島市を中心に呉,竹原,大竹,東広島,廿日市,江田島,安芸高田の各市と安芸,山県(やまがた),豊田3郡の全域からなる。県面積の52.3%,人口の3分の2強を占める。地形高峻で冬季積雪をみる芸北地方は過疎地域であるが,最近は中国縦貫自動車道の建設その他によって若干改善された。一方,島嶼部は交通,農漁業基盤,生活環境が改善されつつあるが,本土との格差は依然大きい。海域ではカキ養殖をはじめ,〈育てる漁業〉が盛んである。

(2)備後地域 県東部の南半部を占める。福山市を中核とし,三原,尾道,府中という個性的な3市と,世羅,神石の両郡全域からなる。県面積の23.7%,人口の3分の1弱を占める。行政上は西への傾きを示すが,歴史的・文化的には東の岡山県との結びつきが強く,方言上も同一性を示す。商品作物のいち早い導入,各種伝統工業の育成にみられるように京阪地方の動きに敏感であり,進取的である。日本鋼管の福山市進出,本州四国連絡橋尾道~今治ルートの段階的架橋などによって,この地域の社会経済は大きく変貌しつつある。

(3)備北地域 県東部の北半部を占め,三次・庄原両市からなる。県面積の23.9%を占めるが,人口は20分の1に満たない。2004年・05年の合併以前の三次・庄原両旧市以外は過疎地域で,1960-75年には人口が26.6%も激減し,廃村状態に追い込まれた集落も多い。零細な稲作主体の農業で,これに和牛やタバコ,コンニャクを組み合わせているが,瀬戸内沿岸のような有利な商品作物や兼業の機会は得られなかった。近年,減反政策への対応や中国縦貫自動車道など交通網の整備により,畜産や野菜の特産地形成の動きがあり,また三次市を中心に企業進出も目だつ。島根県と似た方言が話され,また神楽や囃子田など全国的に有名な民俗文化財も多い。
執筆者:


広島[市] (ひろしま)

広島県西部に位置する県庁所在都市。2005年4月旧広島市が湯来(ゆき)町を編入して成立した。人口117万3843(2010)。

広島市中東部の旧市で,県庁所在都市。1889年市制。人口112万6239(2000)は中国地方最大規模。1980年4月に全国10番目の政令指定都市となり,中,東,南,西,安佐南,安佐北,安芸の7区を設置。85年には隣接する五日市町を合体して佐伯(さえき)区を置き,現在の8区となる。市域は中国山地を背に太田川中・下流域に広がり,南は瀬戸内海に面する。中心市街地は太田川三角州上にあり,市内を6本の川が分流し〈水の都〉といわれる。しかし反面,標高50m以下の土地は全市域の16.8%にすぎず,およそ4分の1は標高100m以上の丘陵地,山地であり,市街地拡大の阻害要因となっている。

 城下町広島は明治に入ると紡績所の設置,宇品の築港など県都としての整備が進められた。とりわけ日清戦争が始まると大本営が置かれ,大陸向け兵員や物資の輸送基地となりにわかに軍都としての性格を強めた。一方,現在の広島大学の前身である広島文理科大学,広島高等学校などが創設され,中国地方の文教の中心として発展した。第2次大戦前には人口42万に達し,六大都市に次ぐ規模となった。

 ところが1945年8月6日,一発の原子爆弾によって壊滅。20万をこす死者を出し,向こう75年間は草木も生えぬといわれ,人口も8万余に激減した。しかし〈広島平和記念都市建設法〉を中核に被爆からの復興に取りかかり,平和公園を中心に幅100mの平和大通りを東西に通じ,広島城を含む旧軍用地を中央公園と官公庁地区として整備し,その南側にある紙屋町,八丁堀の業務中心地区と本通り商店街に一体化させて中心機能を高めた。高度経済成長期には,軍港時代に蓄積した技術と施設を土台に三菱重工業,東洋工業(現,マツダ)などの機械工業が活気を取り戻し,さらに呉,大竹,岩国などの工業地帯の発展を背景に,広島市に金融機関,商社などの経済機能が集積した。都市の基盤整備も広島空港(1993年広島西飛行場へ名称変更)の開港,太田川放水路の完成,新広島国道の開通,山陽新幹線の全線開通など順調に進んだ。現在,中国自動車道から分岐した広島自動車道が山陽自動車道に接続している。都市づくりの最高目標を〈世界平和に貢献する国際平和文化都市〉におき,原水爆禁止運動を中心に世界の恒久平和を希求して積極的に発言した。

 政令都市移行後は各区の文化・社会機能の整備拡充を進めるとともに,広島の戦後を象徴する基町地区再開発事業,海域埋立てによる西部開発事業,21世紀に向けた都市づくりを先導する西風新都の建設など積極的に都市基盤の拡充が図られている。しかし一方,1993年に広島空港(三原市),95年広島大学(東広島市)の相次ぐ移転といった広域中枢都市にとって不可欠な機能の喪失,基幹産業の輸送用機械工業の業績不振による地域経済の沈滞などがあり,その成り行きは見逃せない。市中心部には96年に世界文化遺産に登録された〈原爆ドーム〉を含む平和記念公園のほか,原形復元された表御門のある広島城跡(史),旧藩主浅野氏の庭園縮景園(名),市内を展望できる比治山公園などがある。
執筆者:

1589年(天正17)4月から毛利輝元の島普請とよばれる広島城の建設が行われ,以後毛利,福島,浅野の各大名の城下町として発展した。毛利時代は,枝状に分かれた太田川本・支流と,平田屋川・西堂川(せいとうがわ)両運河に堤防を築き,大規模な城郭を中心として周辺に広く武家屋敷を配置し,町人町は城郭の南西に区画したが,皮屋・材木両町のほかは町名も明らかでない。しかし,1600年(慶長5)福島正則の入城とともに,近世城下町として急速に整備される。

 福島正則は城下東端の岩鼻(いわのはな),西郊の佐西郡草津村,および比治山近傍の3ヵ所に大門を設けて町在の境と定めるとともに,武家町を大幅に縮小して,職人・商人町の拡大をはかり,領国経済の要の役割を果たさせようとした。城北を通っていた山陽道(西国街道,中国路)を城下に引き入れて東西に貫通させ,また,山陽道から分岐する雲石路を北に向けて走らせ,その両沿道に町人町を配置したのも,そのあらわれである。このほか,城下町商業の繁栄のために山陽道北筋に胡(えびす)社を移すとともに,市の町を設けて月4回の市立てを許可し,城下の河川・運河に架橋して交通の便をはかり,各町並みの整備にも努めた。なお,城下の北西に仏護寺とその末寺の寺々を移転させて寺町をつくり,白島(はくしま)を城下と陸続きにし,城郭をとりまく河堤のかさ上げを行ったのもこの時代である。こうして広島城下は,町はずれ372石,町新開1329石余を除き,武家町と50余町の町人町で構成された。武家町は原則的にそれぞれ所属の組頭の支配下におかれたが,町人町は町奉行の支配下に,新町組,中通組,白神組,中島組,広瀬組の5町組に分かれ,各町組に1人ずつ大年寄,各町に町年寄以下の町役人がおかれ,町行政をつかさどった。

 1619年(元和5)入封の浅野長晟(ながあきら)以降も,ほぼ前代の町づくりを継承したが,22年町奉行を東西に分け,寺社・町両奉行支配に改めたこと,武家町と町人町を厳重に区別し,武家町に侍町惣門,町人町に町門(木戸)を設けて通行制限,夜間通行の禁止などを定めた。町門は109を数えたが,1758年(宝暦8)の大火以後,69に減少した。城下の町数は,1625年(寛永2)の55町が77年(延宝5)に68町に増え,1757年新開奉行の創設とともに新開組に編入された町もあり,64町に減少した。新開組35町村は,ほとんどが近世前期に干拓された高付地であるが,町組の外延的拡大によって一体的機能を果たすようになった。町家数は,1619年に2000軒,63年(寛文3)3504軒,1715年(正徳5)4928軒,1822年(文政5)6432軒(1万2624竈)と増加するが,町組は1715年を境に停滞し,新開組が急増を示した。また,町方人口は,1677年3万7406,1715年4万8010,92年(寛政4)4万8790,1819年4万7228であった。ただし,新開組では1677年を100とすれば,以下それぞれ175,340,362と年を追って増加している。

 広島城下町は近世を通じて規模の拡大をみたが,同時に広島藩の経済政策は,城下町商業・金融機能の発展を促した。18世紀以降になると中国地方最大の都市に成長し,藩領支配の中枢はもとより,領域・領外市場の結節点となって頻繁な交易・交流が行われ,政治・経済・文化的機能の拠点的役割を果たすようになった。なお,明治維新後は,広島県の中心として城内本丸に県庁(のち水主(かこ)町に移る)や,鎮西鎮台第1分営が設置された。のち第5軍管広島鎮台,ついで第5師団が置かれ,広島の町は軍都としての性格を強めた。
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広島市西部の旧町。旧佐伯郡所属。人口7895(2000)。中国山地の山間にあり,中央を太田川の支流水内(みのち)川が北東流する。東は旧広島市に接する。町域の大部分を占める山林には植林が進められ,シイタケ,ワサビの栽培が行われる。〈山フグ〉と呼ばれるコンニャクの刺身は名物として知られる。酪農や養鶏が盛んで,生乳は旧広島市へ出荷される。冠山(1004m)東麓の渓谷に湯来温泉(放射能泉,35℃),水内川沿いに湯ノ山温泉(放射能泉,24℃)がある。湯ノ山温泉は江戸時代中期に湯治場として開かれ,藩主をはじめ多くの文人墨客も訪れた。湯坪,湯舎など当時の姿をよくとどめ,湯ノ山明神旧湯治場として国の重要有形民俗文化財に指定されている。近くの水内川支流には景勝地の石ヶ谷峡がある。花コウ岩の渓谷で,約7kmにわたって名号岩,屛風岩など奇岩の岩壁が連なり,峡中には多数の滝がある。
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広島 (ひろしま)

香川県北西部,瀬戸内海の塩飽(しわく)諸島最大の島。丸亀市に属する。面積11.82km2,人口374(2010)。花コウ岩を基盤に上部に安山岩を頂く溶岩台地で,最高点は大戸山(312m)。島の西端で採掘される良質の黒雲母花コウ岩は青木石と呼ばれ,青木や甲路(こうろ)から出荷される。南岸の江の浦港には丸亀港からのフェリーが寄港し,付近は海水浴場として知られる。一方,島の裏側に当たる北岸の茂浦(もうら)や市井,東岸の田浦などは過疎化が著しい。
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日本歴史地名大系 「広島」の解説

広島
ひろしま

塩飽本しわくほん島の西に位置する。東西三一町・南北四三町、島回り四里四町と塩飽諸島中最大の島で(塩飽島諸事覚)、五浦が幕府直轄の島中船方領。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「広島」の意味・わかりやすい解説

広島
ひろしま

香川県北西部,塩飽諸島中最大の島。 1958年丸亀市に編入される。最高点は王頭山 (312m) 。花崗岩類に変質古生層,石英斑岩,讃岐岩質安山岩などをはさみ,岩質のもろいところが谷や湾となり,湾奥に江の浦,立石,茂浦,市井,青木などの集落がある。採石,畑作,沿岸漁業を行う。採石は青木,甲路などが中心地で,黒雲母花崗岩の青木石がとれる。丸亀港から江の浦まで定期船がある。面積 11.66km2。人口 453 (2000) 。

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デジタル大辞泉プラス 「広島」の解説

広島

香川県丸亀市、多度津港の北約9キロメートルに位置する塩飽諸島の島。面積は約11.66平方キロメートルで同諸島最大。島の西側にある王頭山(標高312メートル)は同諸島の最高峰。戦国時代末期、長宗我部氏に敗れた香川・長尾一族の落人が住みついたのが島の始まりと伝わる。良質の花崗岩を産出し、沿岸漁業も盛ん。

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