現都城市および
永和二年(一三七六)六月五日の野辺盛久書状写(禰寝文書)によれば、九州探題今川了俊の大将今川満範とともに相良前頼らが、今川氏と対立する島津攻めのため近日「庄内」に下向することを禰寝氏に伝え、その発向を促した。前頼はこの探題方の島津氏への対抗を「南郷並庄内合戦」と位置づけている(年欠八月一三日「相良前頼書状」同文書)。同年冬、今川満範に率いられた肥後・日向・大隅・薩摩の国人らは庄内に下向して北郷・樺山両氏の籠る都城を包囲。翌年一月都城援護のため島津氏久は
文明六年(一四七四)の南九州の領主配置を記した文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)には、庄内の各城の領主として
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
山形県東田川郡の町。2005年7月余目(あまるめ)町と立川(たちかわ)町が合体して成立した。人口2万3158(2010)。
庄内町北部の旧町。東田川郡所属。人口1万8475(2000)。庄内平野中央部,最上川西岸にあり,JR羽越本線と陸羽西線の分岐点で,国道47号線も走る交通の要地である。中心集落の余目は古代は《和名抄》記載の余戸郷の地に比定され,中世は地頭安保氏が支配し,居館跡や菩提寺とされる乗慶寺がある。1914年の陸羽西線,23年の羽越本線の開通によって庄内米の一大集散地となった。米作を主とする農業が基幹産業であるが,近年は養豚にも力を入れている。
庄内町中南部の旧町。東田川郡所属。人口7014(2000)。最上川が庄内平野に出る地点に位置し,南端の月山より北流して最上川に注ぐ立谷沢(たちやざわ)川の流域を占める。中心集落の狩川は,西境の羽黒山登山の基地で,JR陸羽西線,国道47号線が走る。北西部の庄内平野地区は米作を主とする農村地帯であるが,南部の山間地は豪雪地帯で人口流出が続き,出稼ぎ者も多い。清川は幕末の志士清川八郎の出身地で,記念館がある。
執筆者:松原 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
化学式 CH4 。最も簡単なメタン系炭化水素で,天然ガスの主成分をなしている。また石炭ガスにも 25~30%含まれる。有機物の分解,たとえばセルロースの腐敗,発酵の際に生成され,沼気ともいわれる。また...
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