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デジタル大辞泉
「建部綾足」の意味・読み・例文・類語
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建部綾足
たけべあやたり
(1719―1774)
江戸中期の俳人、国学者、読本(よみほん)作者、画家。片歌(かたうた)の唱道によって知られている。本名喜多村金吾久域(ひさむら)。のち建部姓を名のった。俳号葛鼠(かつそ)、都因(といん)、凉袋(りょうたい)。画号寒葉斎(かんようさい)。弘前(ひろさき)藩の家老職を勤める名家の次男として出生。祖母は山鹿素行(やまがそこう)の女(むすめ)鶴女。20歳のとき嫂(あによめ)との不倫の恋によって弘前を出奔、以後全国を放浪する数奇な生涯を送った。初め志田野坡(しだやば)につき、彭城百川(さかきひゃくせん)、和田希因(きいん)らと交流したあと、江戸浅草に庵(いおり)を結んで宗匠として自立、清新で平明な句風によって大いに迎えられた。多芸多才、覇気の人で、長崎で費漢源(ひかんげん)に山水画を学び、画人としても一家をなした。俳諧(はいかい)の固定した形式に飽き足らず、賀茂真淵(かもまぶち)の影響もあって、45歳のとき、五・七・七の三句からなる古詩体(片歌)を復活、唱道に努めたが、反論をよび普及するに至らなかった。49歳の年に上洛(じょうらく)、国学を講ずるかたわら、巷間(こうかん)の悲恋事件を擬古文に写した『西山(にしやま)物語』(1768刊)や、恵美押勝(えみのおしかつ)の乱に材をとって『水滸伝(すいこでん)』を翻案した『本朝水滸伝』(前編のみ1773刊)を著し、安永(あんえい)3年3月18日江戸で没している。56歳。『西山物語』は文人雅文小説を代表する佳作とされており、また『本朝水滸伝』は『水滸伝』翻案の嚆矢(こうし)となった作品であり、読本の長編形式を開いた本格的な章回体の小説として、意義を認められている。片歌関係の書に『片歌道(みち)のはじめ』など多くの書があり、画集に『寒葉斎画譜』がある。
[中村博保]
『高田衛校注・訳『日本古典文学全集48 西山物語他』(1973・小学館)』▽『前田利治編『建部綾足年譜』(1963・綾足会)』
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建部綾足
没年:安永3.3.18(1774.4.28)
生年:享保4(1719)
江戸中期の俳人,国学者,画家。俳号は葛鼠,都因,涼袋。綾足は片歌を唱え始めてからの号である。津軽藩(青森県)家老津軽政方の次男として生まれる。母は兵学者大道寺友山の娘。20歳のとき兄嫁と密通して弘前を出奔したといわれているが,綾足自身は幼いころに家出をして,29歳のときに二十余年ぶりに母と再会したと書いており,従来の定説には問題がある。21歳から行脚生活に入り,延享4(1747)年,29歳のときに浅草に吸露庵を営み俳諧師として立つ。その後2度にわたって長崎行脚を実行して画技を身につけ,画家としても世に知られる。この間に中津藩奥平家に召し抱えられているが,これは母の尽力によるものであろう。宝暦13(1763)年,45歳のときに国学に傾倒し,俳諧を廃して片歌を唱導する。晩年には万葉風の歌を詠み,『本朝水滸伝』などの雅文体の読本を執筆した。彼の活躍は多岐にわたっているが,いずれも二流どころにとどまっている。多才で極めて頭のよい人物であったことは確実だが,それだけにひとつの事にじっくり打ち込む根気に欠けていたといえよう。一時彼が師と仰いだ賀茂真淵から,信用のおけない「虚談のみ」の人物とみられているように,彼の行動には山師的なうさん臭さが付きまとうが,吸露庵を結んで俳諧師として立つまでの前半生の行動には,そうしたうさん臭さはない。社会的名士となり,花山院常雅から片歌道主の称号を得るような境遇が彼の性格を変えたのである。<参考文献>本多夏彦『涼袋伝の新研究』,松尾勝郎『建部綾足研究序説』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
建部綾足【たけべあやたり】
江戸中期の俳人,歌人,国学者,読本(よみほん)作者。弘前藩家老の子。20歳で出奔,上洛し,志田野坡に俳諧(はいかい)を学び涼袋と号した。南画でも一家をなし,寒葉斎の画号がある。賀茂真淵門下となり,歌道では片歌(かたうた)の再興を唱道。晩年は雅文小説,伝奇小説を書く。主著に《片歌二夜問答》《西山物語》《本朝水滸伝》など。
→関連項目擬古物語|都賀庭鐘
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建部綾足
たけべあやたり
[生]享保4(1719).江戸
[没]安永3(1774).3.18. 熊谷
江戸時代中期の文人。本姓,喜多村。俳号,涼袋,凌岱 (りょうたい) 。画号,寒葉斎。弘前藩家老津軽政方の次男。山鹿素行の曾孫。兄嫁との不倫の恋により故郷を出奔,上洛。志田野坡 (やば) に入門,俳諧を学び,のち彭城百川 (さかきひゃくせん) に南画を学んだ。南画では清の山水画の技法により一家をなしたが,俳諧には限界を感じ,宝暦 13 (1763) 年頃から片歌 (かたうた) を唱えたが,俳諧に慣れた人々から受入れられず,流行するにいたらなかった。晩年は雅文小説で古語を使用し,いわゆる前期読本の先駆となった『西山物語』 (68) ,『本朝水滸伝』 (73) を書いた。
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建部綾足 たけべ-あやたり
1719-1774 江戸時代中期の国学者,俳人,画家。
享保(きょうほう)4年生まれ。20歳のとき郷里の陸奥(むつ)弘前(青森県)を出奔(しゅっぽん),ほとんど全国を遊歴。はじめ伊勢(いせ)派の俳諧(はいかい)宗匠として活動,また長崎で絵画をまなび寒葉斎の画号で一家をなす。宝暦13年賀茂真淵(かもの-まぶち)に入門,俳諧をすてて19音の片歌説をとなえ,片歌道守の称号をえる。晩年「西山物語」「本朝水滸伝」などの読み本をあらわした。安永3年3月18日死去。56歳。本姓は喜多村。名は久域(ひさむら)。俳号は涼袋。
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たけべあやたり【建部綾足】
1719‐74(享保4‐安永3)
江戸中期の俳人,国学者,小説家,画家。俳号に葛鼠(かつそ),都因(といん),凉帒,凉袋,吸露庵など。画号は建凌岱,孟喬(うきよう),寒葉斎など。片歌(かたうた)や小説では綾足,綾太理と号した。本名を喜多村金吾久域(ひさむら)といい,弘前藩家老の次男として生まれたが,20歳のとき兄嫁との恋が原因で藩を出奔し,武士身分を捨てた。はじめ俳諧を志し,大坂の志田野坡につき,後には彭城百川(さかきひやくせん),和田希因,中森梅路らに師事した。
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世界大百科事典内の建部綾足の言及
【水滸伝物】より
…この漢学系統の享受とは別に,大陸渡来の漢文体を日本の古典語に接合しようとする動きもあった。1773年(安永2)には,後年曲亭馬琴が《近世物之本江戸作者部類》で,〈其おもむき水滸伝を模擬したれども,水滸の古轍を踏ずして,別に一趣向を建たるは,当時の作者の及ばざる所也,実に今のよみ本の嚆矢也〉と高く評価した,建部綾足の読本《本朝水滸伝》の前編が刊行されている。伊吹山を梁山伯,恵美押勝を宋江,道鏡を高俅に擬して,奈良朝末の朝廷をめぐる陰謀反乱を描いたもので,未完に終わったが,後編付載の目録によれば,100回本《水滸伝》にならい100条まで書きつぐ予定であったらしい。…
【本朝水滸伝】より
…別名《芳野物語》。建部綾足作。1773年(安永2)前編10巻刊。…
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