弘安合戦(読み)コウアンガッセン

デジタル大辞泉 「弘安合戦」の意味・読み・例文・類語

こうあんがっせん【弘安合戦】

霜月騒動

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百科事典マイペディア 「弘安合戦」の意味・わかりやすい解説

弘安合戦【こうあんがっせん】

1285年(弘安8年)に起きた鎌倉幕府内紛。執権北条時宗の義兄に当たり,時宗を補佐してきた陸奥(むつ)の豪族御家人安達泰盛(代々秋田城介(あきたじょうのすけ)となる)が,時宗没(1284年)の翌年,当時内管領(うちかんれい)と呼ばれた得宗(とくそう)被官の筆頭平頼綱との権力争いに敗れ,反逆者として討伐された。ときに旧暦11月,霜月(しもつき)騒動,秋田城介の乱ともいう。
→関連項目鎌倉幕府平頼綱二月騒動

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世界大百科事典 第2版 「弘安合戦」の意味・わかりやすい解説

こうあんがっせん【弘安合戦】

弘安8年(1285)11月17日に安達泰盛一族与党が滅亡した事件。霜月騒動,安達泰盛の乱,秋田城介の乱ともいう。1246年(寛元4)の寛元の乱(宮騒動北条光時の乱ともいう)で一門に対する惣領権を確立し,47年(宝治1)の宝治の乱(宝治合戦)で三浦氏を倒した北条氏はモンゴル襲来のころには得宗(北条氏の当主)専制確立の途上にあり,その家臣団は,一般御家人の外様(とざま)に対して,御内人(みうちびと)と呼ばれて一定の勢力となり,幕政にも関与する傾向を見せていた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「弘安合戦」の意味・わかりやすい解説

弘安合戦
こうあんかっせん

秋田城介の乱」のページをご覧ください。

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世界大百科事典内の弘安合戦の言及

【安達泰盛】より

…両人ともに貞時に讒言(ざんげん)し合ったが,妻が貞時の乳母であった頼綱のほうが有利で,泰盛の息宗景が源家を詐称して将軍の地位をうかがったとする頼綱の讒言が奏功し,ついに85年11月17日,泰盛は一族与党とともに貞時の討手に滅ぼされた。これを弘安合戦という。このとき,頼綱が軍勢動員の権限のある侍所所司だったことも,御内人勢力勝利の一因であった。…

【外様】より

…鎌倉時代,幕府の実権を握った北条氏得宗家の被官が御内人(みうちびと)と呼ばれたのに対して,将軍家に直属する一般御家人は外様御家人と呼ばれた。鎌倉時代後期には御内人と外様御家人の対立が深刻となり,前者の代表である平頼綱と後者の代表である安達泰盛が衝突した事変は,1285年(弘安8)の弘安合戦として著名である。室町時代以後は大名の家格を示す呼称として用いられ,外様衆とは幕府と疎遠な関係にある大名の称号となった。…

【北条貞時】より

…1284年(弘安7)父の死により14歳で執権となる。初め安達泰盛の主導によって政治改革が推進されたが,貞時の乳父平頼綱ら得宗被官(御内人)は貞時を動かして85年泰盛派を粛清した(弘安合戦)。以後,内管領平頼綱のもとで御内人(みうちびと)による支配が公然化する。…

【御内人】より

…ここに御内人の地位は一躍上昇し,御内人筆頭の得宗家の家令は内管領(うちかんれい)と呼ばれて強力な権限を握り,評定衆以下の幕府の人事をも左右した。このため御家人勢力との対立をおこし,1285年(弘安8)には御家人勢力を代弁する安達泰盛を内管領平頼綱が滅ぼす弘安合戦(霜月騒動)といわれる事件がおきている。御内人と御家人との対立はこの後の幕府政治に大きな影をおとした。…

※「弘安合戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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