元来は陸奥における蝦夷征討のため,朝廷から任命された総指揮官。蝦夷征討のための臨時の職に征夷使があり,大将軍の下に副将軍,軍監,軍曹を置いた。征夷使を征東使と呼んだ時期もあり,大将軍,副将軍は大使,副使とも呼ばれたから,征夷大使,征東大使は実質的には征夷大将軍と同じであり,奈良時代に藤原宇合(うまかい),藤原麻呂,藤原継縄,藤原小黒麻呂,大伴家持,紀古佐美らがこれに任命された。しかし彼らは征夷大将軍とは呼ばれておらず,征夷(大)将軍の称の初見は,720年(養老4)に任命された多治比県守(たじひのあがたもり)である。8世紀末には791年(延暦10)大伴弟麻呂が征東大使に任じられたが,793年征東使が征夷使と改称され,翌794年には征夷大将軍となっている。797年には坂上田村麻呂が征夷大将軍に,811年(弘仁2)には文室綿麻呂が征夷将軍に任命されたが,とくに田村麻呂は鎮守府を多賀城から胆沢城に移すなど,経略を進めて武名をあげ,そのため征夷大将軍の栄称としての性格も強まった。このように征夷大将軍の称はとくに平安初期の桓武・嵯峨朝に行われたが,この時期の重要な政治的課題であった蝦夷経略が一段落すると,その称も廃されるに至った。征夷将軍と征東将軍も別個のものとなり,940年(天慶3)平将門の乱を鎮定するため,藤原忠文を征東大将軍に任じたが,これなどまったく蝦夷征討とは無関係である。
平安末期には,源平争乱の中で征夷大将軍の称が復活し,しかも従来とは違った意味をもつようになった。平氏を破って上洛した源義仲は後白河法皇と対立,法皇を幽閉し,その院政を停めて政治を独裁したが,その中で1184年(元暦1)征夷大将軍に任じられた。これは義仲が源頼朝と対立し,頼朝を討つため東国における追討権を得たもので,蝦夷征討とは関係なく,むしろ忠文の征東大将軍に通ずる性格をもっている(このとき義仲は征夷大将軍でなく,征東大将軍に任じられたとする説もある)。ここに征夷大将軍は東国支配の性格をもつ職となり,義仲を滅ぼした頼朝もこの職を望んだが,法皇はこれを許さず,92年(建久3)法皇の没後,頼朝は征夷大将軍に任じられた。鎌倉幕府では御家人の主人である鎌倉殿が,朝廷によって征夷大将軍に任じられ,征夷大将軍は武家の棟梁を意味するようになるが,当初は鎌倉殿と征夷大将軍とは必ずしも不可分に結びついてはいない。頼朝は94年に征夷大将軍を辞任したし(朝廷は辞任を認めなかったが),源頼家が征夷大将軍に任じられたのは,頼朝のあとをついで鎌倉殿となって3年後である。鎌倉殿と征夷大将軍とが不可分となり,征夷大将軍が幕府(武家政権)の首長,武門の棟梁を意味するようになるのは,1203年(建仁3)源実朝が頼家にかわって鎌倉殿の地位につくと同時に,征夷大将軍に任じられて以後である。実朝が殺され,源氏の将軍が絶えて後は,摂関家や皇族出身の摂家将軍,親王将軍が登場したが,その地位は名目化し,実権をもたなかった。
1333年(元弘3)鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は,幕府を否定し,征夷大将軍を廃止する意向をもっていたが,幕府打倒に功績のあった皇子の護良親王は征夷大将軍を自称し,天皇もその本意に反してこれを追認せざるをえなかった。親王の将軍就任は,鎌倉幕府の親王将軍の例に倣ったものであろう。やがて天皇は親王から将軍の職を奪ったが,足利直義が天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に下ったのは,実質的には鎌倉将軍の復活であった。35年(建武2)北条氏の残党が鎌倉幕府再興を図って鎌倉を攻略したとき,鎮圧に赴いた足利尊氏は征夷大将軍を望んだが,天皇はこれを許さず,代りに征東将軍に任命し,逆に成良親王を一時的に征夷大将軍に任じて,尊氏の希望を抑えた。鎌倉を奪回した尊氏は鎌倉にとどまり,若宮小路の鎌倉将軍家の旧跡に御所を作り,幕府再興の態度を示した。このとき征夷大将軍を自称したとの説もある(《鎌倉大日記》)。38年(延元3・暦応1)尊氏は北朝の光明天皇によって正式に征夷大将軍に任命され,この後,足利氏は歴代征夷大将軍に就任し,1573年(天正1)将軍足利義昭が織田信長に追放されるまで,足利氏の将軍が続いた。織田・豊臣両氏は征夷大将軍にならなかったが,1603年(慶長8)徳川家康が征夷大将軍に任じられて以来,徳川氏がこの職を世襲し,1867年(慶応3)に至り,王政復古の大号令によって幕府(将軍)が廃絶された。
征夷大将軍は幕府と同義と考えられており,征夷大将軍とならなかった織田・豊臣両氏は幕府を開かなかったとされる。形式的にいえば,確かに征夷大将軍に就任することと幕府を開くこととは同義と見られるが,その反面,幕府の実質的成立を考える場合には,征夷大将軍の問題とは区別される。1185年(文治1)の守護・地頭設置,1336年(延元1・建武3)の後醍醐天皇から光明天皇への神器授受,建武式目の制定,1600年(慶長5)の関ヶ原の戦等は,征夷大将軍就任とは別に,鎌倉・室町・江戸幕府の実質的な成立時期とされているのである。
→幕府
執筆者:上横手 雅敬
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一般的には源頼朝(よりとも)に始まる武家政権(幕府)の首長をさすが、本来は蝦夷(えぞ)征討のため朝廷から臨時に任ぜられた総指揮官のことをいった。律令(りつりょう)政府は、蝦夷征討軍をしばしば派遣したが、721年(養老5)に多治比県守(たじひのあがたもり)を責任者に任命し「征夷将軍」と称した。しかし、その後、奈良時代には蝦夷征討軍の主将を征夷将軍の名でよぶことはなかった。ところが、794年(延暦13)に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大将軍に任じたのを最初とし、以後、9世紀初頭までに数回の征夷大将軍の任命がなされた。そのなかでも坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が有名で武名をはせたが、813年(弘仁4)に文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)が任命されたのを最後に廃絶した。その理由は、このころには蝦夷鎮圧がいちおう完了したためとみられている。
ところが、12世紀末に武家政権が成立するとともに、この征夷大将軍の職名が復活し、新しい政治的意義を帯びるに至った。まず1184年(元暦1)に平家を破って入京した源(木曽(きそ))義仲(よしなか)が征夷大将軍に任命された。しかし、この征夷大将軍はもはや蝦夷征討とは無関係で、義仲が自らの覇権を権威づけるために武門の棟梁(とうりょう)にふさわしい官名としてこれを望んだためであった。ついで源頼朝もこの地位に任ぜられることを熱望したが、後白河(ごしらかわ)法皇の反対にあい、法皇の死後1192年(建久3)に至ってようやく実現した。頼朝のあと鎌倉幕府の歴代の首長がこの地位についたので、征夷大将軍の名号は天下の武力をつかさどる武家政治の首長の地位を意味するようになった。足利尊氏(あしかがたかうじ)も室町幕府の成立にあたってこの職につき、室町幕府の歴代の首長もこの地位に任ぜられた。それは江戸幕府にも継承され、1603年(慶長8)に徳川家康が任命されてのち代々世襲して、1867年(慶応3)に王政復古で廃止されるまで続いた。なお、武家政権を幕府と称するのは、将軍の邸宅を中国風に幕府とよんだことに由来する。
[田中文英]
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1奈良末~平安初期,東北の蝦夷(えみし)を征討するために派遣された遠征軍の総指揮官の称。律令軍制では,戦時には天皇から節刀(せっとう)を賜り最高軍事指揮権を仮授された将軍または大将軍が,諸国から動員された軍団兵士制を基礎に戦時編成を行い,作戦行動をとった。東北蝦夷地帯への軍事進出や反乱鎮圧も基本的には律令軍制にもとづいて行われ,将軍は征東将軍・征夷将軍・征東大将軍と称された。8世紀末に始まる蝦夷勢力との全面戦争でもはじめは征夷将軍だった。794年(延暦13)大伴弟麻呂(おとまろ)が第3次遠征軍の征夷大将軍とされたが,802年第4次遠征軍の征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷勢力を平定し,全国の俘囚(ふしゅう)の統率を任としたことから,坂上田村麻呂が征夷大将軍の先例とみなされた。
2鎌倉幕府以後,江戸幕府にいたる武家政権の首長の称号。源平争乱期,平氏を追って京都を占領した源義仲が任じられ,鎌倉幕府を開いた源頼朝が1192年(建久3)に任じられて以降,鎌倉(源氏3代・摂家将軍・皇族将軍)・室町(足利氏)・江戸(徳川氏)と,代々の幕府の首長は朝廷から将軍宣下によって征夷大将軍に任じられた。
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…《続日本紀》によって奈良時代の実例を見ると,大将軍,将軍,副将軍には征討に直接関係のない場合も少なくない。また征夷将軍,征東将軍,征夷大将軍,征東大将軍,征狄(せいてき)将軍,征越後蝦夷将軍,陸奥鎮東将軍,陸奥鎮守将軍,鎮狄将軍,征西将軍,征隼人持節大将軍,鎮西将軍など,各種の将軍の任命されたことも知られる。さらに,将軍号こそないが,征夷大使,征東使,征東大使なども事実上の将軍,大将軍であった。…
… 32年秀忠が死去した後は大御所と将軍の二元政治が解消され,家光のもとで一元化された将軍政治が行われることになった。このことは,征夷大将軍という朝廷官職が,太閤や大御所といった〈天下人〉の権力を吸収し,固有の機構をもった独立の〈将軍権力〉として権能を発動し始めたことを意味する。家光が諸大名に対し〈余は生まれながらの将軍である〉と言ったと伝えられるのは,この意味において正しく,家光の政治はそれを完成させるところに向けられた。…
…征夷大将軍(せいいたいしようぐん)を首長とする武家政権。鎌倉,室町(足利),江戸(徳川)幕府がある。…
…なお鎌倉幕府に先行する平氏政権は武家出身者たる平清盛による政権であり,これをも武家政治とする見解もあるが,権力の源泉や政治組織あるいは経済的基盤などにおいて貴族(公家)の政権と類似するとの理由で,これを武家政治の範疇に含めない立場が有力である。
[征夷大将軍と幕府]
武家政権の首長たちは,鎌倉幕府の創始者源頼朝の例にならって征夷大将軍に任ぜられ,一般に将軍と呼ばれた。またこの頼朝は,1190年(建久1)に右近衛大将に任ぜられたが,この近衛大将は官職の唐名(中国名)で呼ぶと親衛大将軍,大将軍となる。…
※「征夷大将軍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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