改訂新版 世界大百科事典 「御稲田」の意味・わかりやすい解説
御稲田 (みいねだ)
宮内省大炊寮の所管する供御(くご)田。大宝令では,〈供御造食料田〉を屯田(みた)と名づけて畿内に分置し,宮内省より屯司を差遣して営造に当たらせると定めたが,養老令では,官田・田司と改称し,大和・摂津両国に各30町,河内・山背両国に各20町,計100町の官田を置くと定めた。ついで平安遷都後,《延喜式》の制では,山城20町,大和16町,河内18町,和泉2町,摂津30町,計86町の官田を配置し,それを国営田46町と省営田40町に分けて,天皇の供御および中宮・東宮の年料の稲・粟・糯は宮内省営田の収穫をもって充てることとした。一方862年(貞観4)の太政官符によると,供御の御稲は,1年を3分して8月,12月,4月を納期とし,山城・摂津・河内3国から順次京進されることになっている。しかし宮内省(大炊寮)-国司(郡司)-省営田という御稲徴収ルートは,律令体制の衰退にともなって維持することが困難になり,後三条天皇の新政に当たり,上記3ヵ国に〈料田〉を定置した。これがすなわち御稲田である。《本朝世紀》の1149年(久安5)の記述に見える河内国の石川御稲田は,宣旨により御稲田供御人を定め,本坪1段,副田1段および雑事免2段の計4段ずつを各供御人に均分し,御稲を進納させたという。その石川御稲田供御人数百人が院御所に群参したというのがこの記事であるが,南北朝から室町時代にわたる記録・文書には,こうした規模の大きい御稲田のほかに,1,2段程度の御稲田も含めて,50数ヵ所の御稲田を検出することができる。一方,平安時代末ごろから大炊頭を世襲した中原氏は,寮頭(または寮務)-目代-年預の寮務管理体制をきずき,各御稲田は預所-下司(または沙汰人)-供御人の系列によって経営と徴納を組織化した。こうして御稲田は,〈毎日欠かざる朝餉(あさがれい)並びに昼御膳の料所〉であり,〈天下無双の公領〉として,室町時代末まで存続したのである。
執筆者:橋本 義彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報