徳川斉昭(読み)トクガワナリアキ

デジタル大辞泉 「徳川斉昭」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐なりあき〔トクがは‐〕【徳川斉昭】

[1800~1860]江戸末期の水戸藩主。藤田東湖らを登用して藩政改革尊王攘夷論者で、井伊直弼いいなおすけ対立安政の大獄蟄居ちっきょを命ぜられた。水戸烈公

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精選版 日本国語大辞典 「徳川斉昭」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐なりあき【徳川斉昭】

  1. 幕末の水戸藩主。水戸藩主徳川治紀の三男。字(あざな)は子信、号は景山諡号烈公。文武を奨励し、藤田東湖などを登用して藩制改革を行なう。尊攘的行動が幕府に忌まれ謹慎。ペリー来航で幕政参与。外交問題では井伊直弼と対立後、安政大獄に連座し国許永蟄居(くにもとえいちっきょ)を命ぜられた。寛政一二~万延元年(一八〇〇‐六〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳川斉昭」の意味・わかりやすい解説

徳川斉昭
とくがわなりあき
(1800―1860)

幕末の水戸(みと)藩主。治紀(はるとし)の三男。寛政(かんせい)12年3月11日、小石川の江戸藩邸に生まれる。虎三郎、のち敬三郎と称す。初名紀教(としのり)。字(あざな)は子信。号は景山、潜龍閣。諡(おくりな)を烈公という。会沢安(あいざわやすし)(正志斎(せいしさい))らに学び賢才の誉れ高く、1829年(文政12)長兄の藩主斉脩(なりのぶ)死後、藤田東湖(とうこ)ら改革派に推されて第9代藩主となり、斉昭と改めた。人事を刷新して藤田や会沢らを抜擢(ばってき)し、海防、民政、教育を重視した天保(てんぽう)の改革を行った。銃砲鋳造を行い、蝦夷地(えぞち)開拓を計画して船を派遣し、天保検地や諸国との国産交易を実施し、また藩士教育に弘道館(こうどうかん)を建て、領内の廃仏棄釈によって思想統制を強化するなどした。しかし、これら水戸藩独自の改革は幕府の嫌疑を招くところとなり、また藩内保守派(結城寅寿(ゆうきとらじゅ)ら)の策動もあって44年(弘化1)5月幕府から隠居・謹慎を命ぜられ、長男慶篤(よしあつ)に家督を譲った。その後、武田耕雲斎(こううんさい)ら改革派による幕府への復職嘆願があり、また外国艦船の来航という「外患」の下で、老中阿部正弘(あべまさひろ)らの幕閣が有力諸藩との協調策に転じたこともあって、49年(嘉永2)藩政への参与を許された。

 ついで1853年ペリー来航に際しては海防問題について幕政参与を命じられたが、その対外強硬論は幕閣のいれるところとならず、57年(安政4)阿部の死により、参与を免ぜられた。58年政敵井伊直弼(いいなおすけ)が大老となり、日米修好通商条約が無勅許のまま調印され、またかねてより争われていた将軍継嗣(けいし)問題では斉昭の実子一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を抑えて紀州藩主徳川慶福(よしとみ)が後継者に決定された。無断調印を怒った斉昭は、実子慶喜、尾張(おわり)藩主徳川慶勝(よしかつ)らとともに不時登城して違勅を責めたがかえって謹慎を命じられ、翌年、安政(あんせい)の大獄により国許(くにもと)永蟄居(えいちっきょ)に処された。万延(まんえん)元年8月15日、水戸で病没。

[井上勝生]


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改訂新版 世界大百科事典 「徳川斉昭」の意味・わかりやすい解説

徳川斉昭 (とくがわなりあき)
生没年:1800-60(寛政12-万延1)

江戸後期の大名。水戸藩第7代藩主治紀(はるとし)の三男として江戸の水戸藩邸に生まれる。母は外山氏瑛想院。初名は敬三郎,字は子信。景山と号した。諡(おくりな)は烈公。その生涯は波乱に富み,とくに幕末の政界では将軍継嗣問題や日米修好通商条約の締結をめぐって幕閣と対立して,激しい政争渦中の人となった。1829年(文政12)斉脩(なりのぶ)の跡を継いで第9代藩主となるや藩政改革に着手した。これが幕府や諸藩に先駆けた天保改革である。この改革で注目されるのは第1に文教策で,藩校弘道館の建設がその中心であった。建学の方針を示した《弘道館記》は水戸学の原典とされる。第2は武備の充実であり,第3は土地政策である。保守門閥派の反対を押し切って完了した天保の全領検地の結果は,改革挫折後も変更なく,その土地政策は当時全国的にも類例がなかった。第4は神道興隆を目ざす宗教政策であるが,厳しい寺院整理などは斉昭失脚の一つの原因と考えられている。44年(弘化1)幕府より謹慎を命ぜられる。

 斉昭の失脚は藩内に大きな動揺を与え,改革派士民の間に2,3年激しい斉昭の雪冤復権運動が展開し,藩内には天狗派(改革派)と保守派の対立が表面化した。斉昭の復権はならなかったが,1849年(嘉永2)3月藩政関与が許され,53年ペリーの来航直後,阿部正弘の推挙で幕府の海防参与となり,次いで軍制,幕政にも参与するが,57年(安政4)免ぜられた。この前後,水戸藩の安政改革を指導し,郷校の増設,農兵の設置,反射炉の建設などを進めた。しかし内政外交の面で大老井伊直弼と対立し,58年〈急度慎(きつとつつしみ)〉を命ぜられ,翌59年には水戸に永蟄居(えいちつきよ)となり,その罪が解けぬまま60年(万延1)8月水戸城中で急死した。斉昭には藩内種痘の実施,医学の普及など隠れた業績が少なくない。編著も多く,《告志篇》《北方未来考》《景山奇方集》《景山救痘録》《明倫歌集》《息距編》《不慍録》《景山文集》などがある。
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百科事典マイペディア 「徳川斉昭」の意味・わかりやすい解説

徳川斉昭【とくがわなりあき】

幕末の常陸(ひたち)水戸藩主。治紀の三子。号は景山(けいざん)。諡号(しごう)烈公。会沢正志斎藤田東湖らに擁され,1829年襲封。藩校弘道館設立,海防政策実施など藩政改革を推進したが,1844年幕府より謹慎を命じられた。斉昭失脚後は藩内に天狗派(改革派)と保守派の対立による動揺が広まった。1849年藩政関与が許される。強硬な攘夷論者で,1853年のペリー来航にあたり幕府海防参与となったが,井伊直弼と対立。安政の大獄で幽居の身となりそのまま病死。
→関連項目石川島造船所島津斉彬将軍継嗣問題武田耕雲斎水戸学水戸藩

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朝日日本歴史人物事典 「徳川斉昭」の解説

徳川斉昭

没年:万延1.8.15(1860.9.29)
生年:寛政12.3.11(1800.4.4)
幕末の第9代水戸藩主。藩の天保改革を指導しペリー来航前後の中央政局に影響力を持った。幼名虎三郎,のちに敬三郎。字は叔寛,のちに子信。景山,潜竜閣と号す。第7代藩主徳川治紀の第3子,母は烏丸資補の娘。15代将軍徳川慶喜の実父。江戸小石川の水戸藩邸で生まれる。幼少より会沢安(正志斎)の訓育を受け後期水戸学を学ぶ。兄斉脩の死後,会沢や藤田東湖ら水戸藩天保改革派の運動により文政12(1829)年に藩主となる。「内憂外患」を前に藩政改革に着手,門閥保守派を排除し人材を登用。従来の兵法に西洋式軍備,軍事学を導入。検地による均田制を実現し下層農の窮乏を解消し藩財政基盤を再建しようとした。弘道館を作り後期水戸学による藩士を教化し寺院を圧迫。他方,幕府老中に海防強化,尊王実践を説き水野忠邦とは提携関係にあったが,忠邦失脚後の弘化1(1844)年5月,阿部正弘政権により隠居謹慎。同年11月,処分解除。正弘との関係改善に従い,嘉永2(1849)年に斉昭の藩政関与を許可され,改革派が藩権力を奪回していった。ペリー来航後,阿部正弘は,斉昭を幕府の海防参与にしその声望を利用したが,斉昭は,交渉を引き伸ばして,その間,軍事力強化を図る「ぶらかし策」を主張。安政2(1855)年,幕府の軍制改革参与。開国の進展により最終的に鎖攘を望む斉昭は孤立し,同年の安政大地震で藤田東湖,戸田忠太夫が死亡すると,その意見は硬直化した。4年,堀田正睦政権が成立すると幕府の開国政策への批判を強め朝廷に入説して開国阻止に努力。5年7月,井伊直弼政権の日米修好通商条約無断違勅調印を聞いて不時登城し井伊を責めたが,逆に急度慎みの処分を受ける。翌8月に幕府の開国政策を否定する密勅(戊午の密勅)が降下し諸藩への廻達を企図したが幕府の圧力で断念。翌年8月,水戸永蟄居,廻達を叫ぶ激派に対し鎮静を命じた。松平慶永に「自分は従来の経緯があるから攘夷を主張するが,若い人は開国を主張せよ」といったという。代表的著書に『弘道館記』がある。

(吉田昌彦)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳川斉昭」の意味・わかりやすい解説

徳川斉昭
とくがわなりあき

[生]寛政12(1800).3.11. 江戸
[没]万延1(1860).8.15. 水戸
江戸時代後期の水戸藩主。治紀の3男。幼名は虎三郎,敬三郎。字は子信。号は景山,潜龍閣。諡は烈公。少年時代に会沢正志斎 (会沢正) などの指導を受け,文政 12 (1829) 年水戸藩主となる。朱子学的,尊攘的行動が多かった。藤田東湖らを登用して藩政の刷新をはかり,藩校弘道館を設立したほか,反射炉を那珂湊に設けて鉄砲を鋳造するなど藩政改革に努力した。しかしこれら斉昭の活動は尊攘的行動とみなされ,幕臣鳥居耀蔵 (ようぞう) らの排撃にあって,弘化1 (44) 年5月隠居謹慎を命じられ一時幽閉された。嘉永2 (49) 年3月幽閉を解かれ幕政に参与してからは将軍継嗣問題で大老井伊直弼と対立し,安政6 (59) 年8月水戸に永蟄居を命じられた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「徳川斉昭」の解説

徳川斉昭
とくがわなりあき

1800.3.11~60.8.15

幕末期の大名。常陸国水戸藩主。父は7代治紀(はるとし)。号は景山。諡は烈公。1829年(文政12)兄斉脩(なりのぶ)の養子となり遺領を相続。改革派の藤田東湖(とうこ)・戸田蓬軒らを登用し,全領の検地,弘道館・郷校の設置,梵鐘没収と大砲鋳造,軍事調練など天保の藩政改革を行った。極端な排仏など政策の過激さにより44年(弘化元)幕府から謹慎・隠居を命じられたが,老中阿部正弘や宇和島藩主伊達宗城(むねなり)らと書簡を交し,ペリー来航後は幕府海防参与となり,大船建造や軍制改革に参画。将軍徳川家定の継嗣問題では七男一橋慶喜(よしのぶ)を推したが,大老井伊直弼(なおすけ)により和歌山藩主徳川慶福(家茂)が継嗣に内定,条約調印の決定に及び,58年(安政5)6月24日名古屋藩主徳川慶勝らと不時登城して井伊を詰問した。翌月謹慎を命じられ,翌年安政の大獄に連坐して国元永蟄居となる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳川斉昭」の解説

徳川斉昭 とくがわ-なりあき

1800-1860 江戸時代後期の大名。
寛政12年3月11日生まれ。徳川治紀(はるとし)の3男。文政12年常陸(ひたち)水戸藩主徳川家9代となる。藤田東湖らの人材を登用し,天保(てんぽう)の改革を実行。ペリー来航の際幕政参与となるが,将軍徳川家定(いえさだ)の継嗣問題,日米修好通商条約の勅許問題などで大老井伊直弼(なおすけ)と対立,安政の大獄で蟄居(ちっきょ)処分をうけた。万延元年8月15日死去。61歳。初名は紀教(のりたか)。号は景山。諡(おくりな)は烈公。
【格言など】鳥などに大金を使うより,貧しい人に分け与えた方が功徳になるものだ

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旺文社日本史事典 三訂版 「徳川斉昭」の解説

徳川斉昭
とくがわなりあき

1800〜60
江戸末期の水戸藩主
15代将軍慶喜 (よしのぶ) の父。おくり名は烈公。藤田東湖ら改革派の人材を登用し,藩校弘道館の設立,反射炉築造,銃砲鋳造,兵制改革など藩政改革を実施したが,藩内の保守派の反対で十分な成果はあげられなかった。尊王攘夷論者で幕府に忌まれ謹慎を命じられたが,のち許され,ペリー来航時に幕政参与となった。条約勅許問題・将軍継嗣問題で大老井伊直弼 (なおすけ) と対立し,安政の大獄で永蟄居を命じられ,1860年病死した。

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367日誕生日大事典 「徳川斉昭」の解説

徳川斉昭 (とくがわなりあき)

生年月日:1800年3月11日
江戸時代末期の大名
1860年没

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世界大百科事典(旧版)内の徳川斉昭の言及

【安政の大獄】より

…この勢力を南紀派という。もう1人は前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第7子で,一橋家を相続していた一橋慶喜(よしのぶ)であった。慶喜を推したのは,斉昭のほか福井藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬,阿波藩主蜂須賀斉裕,宇和島藩主伊達宗城,土佐藩主山内豊信ら雄藩の大名と,幕府の海防掛であった大目付土岐頼旨,勘定奉行川路聖謨,目付永井尚志,同岩瀬忠震,同鵜殿長鋭,田安家家老水野忠徳らであった。…

【偕楽園】より

…茨城県水戸市常磐町にある公園。1842年(天保13)水戸藩主徳川斉昭が開設した。千波湖をのぞむ台地上に好文亭,奥御殿などを設け,約150種,1万株といわれる梅樹があった(現在は約60種3000株)。…

【蟄居】より

…その他著名な事件としては,1839年(天保10)蛮社の獄に連座した渡辺崋山は主人家来に引き渡し在所において蟄居を命ぜられ,54年(安政1)佐久間象山,吉田松陰などもこの刑をうけた。59年水戸藩主徳川斉昭は将軍家定の継嗣をめぐって大老井伊直弼と対立し永蟄居を命ぜられたが,翌年危篤のゆえをもって免ぜられた。76年の華族懲戒法は蟄居の懲戒をおいたが,85年には除族と改められ,蟄居の制はなくなった。…

【常陸国】より


[水戸藩の天保改革と幕末の混乱]
 江戸時代後期から幕末にかけては,藩政の再編強化を目ざして政治改革を実施した藩が多い。藩主徳川斉昭(なりあき)が断行した水戸藩の天保改革は幕府や諸藩に先がけて実施され,天下視聴の的となっただけでなく,斉昭はじめ改革派の藤田東湖,会沢正志斎らの著書,言動が対外的危機意識の高揚する中で現状打開の指針のように考えられて,尊攘志士たちの注目するところとなった。しかし改革推進の過程で門閥派との軋轢(あつれき)を深め,藩内の対立抗争を激化させていく。…

【日の丸】より

…しかし,西欧船が日本近海に出没し,海防令が公布され,西欧船にならった船の建造が始まると,国産洋式船と西欧船を識別する標識が必要となる。1853年(嘉永6)9月に大船建造の禁を解いた幕府は,御国総船印(おくにそうふなじるし)・帆印について評定所一座・大小目付・勘定奉行・大船製造掛に諮問した結果,翌54年(安政元)5月に御国総船印は白紺布交りの吹貫,帆印は白地中黒とし,幕府船は日の丸の幟を立て,藩船は在来の印を用いる案をまとめ,海防参与を命じた前水戸藩主徳川斉昭の意見を徴した。6月から1ヵ月余にわたって,日本船の標識として日本の日を表す日の丸を強硬に主張する斉昭と,幕府船の標識としての日の丸に固執する幕府の間で折衝が繰り返されたあげく,幕府は斉昭に押し切られて,7月,白地日の丸の幟を日本総船印と決め,幕府船は白地中黒の帆印と白紺2色の吹貫を用い,藩船は各家の定めた別の船印・帆印を使うように命じた。…

【藤田東湖】より

…江戸後期の水戸学の代表的な実践活動家。名は彪,東湖は号。幕末水戸学の祖藤田幽谷の子。父の没後に水戸藩の史局彰考館の編修,次いで総裁代理となるが,1829年(文政12)藩主の継嗣問題が起こると,前藩主の弟斉昭擁立に奔走し,斉昭が家督を継ぐと郡奉行,江戸通事,御用調役さらに側用人と累進し,その腹心として機務に参画する。しかし44年(弘化1)斉昭が幕府の忌諱にふれて隠居謹慎に処されると,蟄居(ちつきよ)謹慎を命じられる。…

【水戸[市]】より

…茨城県中央部にある県庁所在都市。1889年市制。1992年常澄村を編入。人口24万6347(1995)。市域の大半は常陸台地と那珂川沖積地に広がる。主要市街地は,那珂川と千波(せんば)湖にはさまれた台地上の上市(うわいち)と那珂川の沖積低地上の下市(しもいち)とからなる。12世紀末,大掾資幹(だいじようすけもと)が館を置き,佐竹氏の支配を経て近世に水戸藩の城下町となってから大きく発展した。1889年,両地区の接点に常磐線水戸駅が開設されたが,行政中心は上市に置かれ,以後の都市発展は上市が中心となった。…

【水戸藩】より

…常陸国(茨城県)水戸に置かれた親藩で三家の一つ。徳川家康の十一男徳川頼房が1609年(慶長14)常陸下妻城主から水戸に移封され,25万石を領したときに始まる。頼房以前,佐竹義宣が水戸から秋田へ移封された直後に家康の五男武田信吉が,また信吉死後十男頼将(頼宣)が水戸城主の地位にあったが,この2代の間は水戸藩とはいわない。藩主は頼房以後,光圀(みつくに),綱条(つなえだ),宗尭,宗翰,治保,治紀,斉脩,斉昭,慶篤と続き,11代昭武のとき廃藩置県となった。…

※「徳川斉昭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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