幕末の水戸(みと)藩主。治紀(はるとし)の三男。寛政(かんせい)12年3月11日、小石川の江戸藩邸に生まれる。虎三郎、のち敬三郎と称す。初名紀教(としのり)。字(あざな)は子信。号は景山、潜龍閣。諡(おくりな)を烈公という。会沢安(あいざわやすし)(正志斎(せいしさい))らに学び賢才の誉れ高く、1829年(文政12)長兄の藩主斉脩(なりのぶ)死後、藤田東湖(とうこ)ら改革派に推されて第9代藩主となり、斉昭と改めた。人事を刷新して藤田や会沢らを抜擢(ばってき)し、海防、民政、教育を重視した天保(てんぽう)の改革を行った。銃砲鋳造を行い、蝦夷地(えぞち)開拓を計画して船を派遣し、天保検地や諸国との国産交易を実施し、また藩士教育に弘道館(こうどうかん)を建て、領内の廃仏棄釈によって思想統制を強化するなどした。しかし、これら水戸藩独自の改革は幕府の嫌疑を招くところとなり、また藩内保守派(結城寅寿(ゆうきとらじゅ)ら)の策動もあって44年(弘化1)5月幕府から隠居・謹慎を命ぜられ、長男慶篤(よしあつ)に家督を譲った。その後、武田耕雲斎(こううんさい)ら改革派による幕府への復職嘆願があり、また外国艦船の来航という「外患」の下で、老中阿部正弘(あべまさひろ)らの幕閣が有力諸藩との協調策に転じたこともあって、49年(嘉永2)藩政への参与を許された。
ついで1853年ペリー来航に際しては海防問題について幕政参与を命じられたが、その対外強硬論は幕閣のいれるところとならず、57年(安政4)阿部の死により、参与を免ぜられた。58年政敵井伊直弼(いいなおすけ)が大老となり、日米修好通商条約が無勅許のまま調印され、またかねてより争われていた将軍継嗣(けいし)問題では斉昭の実子一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を抑えて紀州藩主徳川慶福(よしとみ)が後継者に決定された。無断調印を怒った斉昭は、実子慶喜、尾張(おわり)藩主徳川慶勝(よしかつ)らとともに不時登城して違勅を責めたがかえって謹慎を命じられ、翌年、安政(あんせい)の大獄により国許(くにもと)永蟄居(えいちっきょ)に処された。万延(まんえん)元年8月15日、水戸で病没。
[井上勝生]
江戸後期の大名。水戸藩第7代藩主治紀(はるとし)の三男として江戸の水戸藩邸に生まれる。母は外山氏瑛想院。初名は敬三郎,字は子信。景山と号した。諡(おくりな)は烈公。その生涯は波乱に富み,とくに幕末の政界では将軍継嗣問題や日米修好通商条約の締結をめぐって幕閣と対立して,激しい政争渦中の人となった。1829年(文政12)斉脩(なりのぶ)の跡を継いで第9代藩主となるや藩政改革に着手した。これが幕府や諸藩に先駆けた天保改革である。この改革で注目されるのは第1に文教策で,藩校弘道館の建設がその中心であった。建学の方針を示した《弘道館記》は水戸学の原典とされる。第2は武備の充実であり,第3は土地政策である。保守門閥派の反対を押し切って完了した天保の全領検地の結果は,改革挫折後も変更なく,その土地政策は当時全国的にも類例がなかった。第4は神道興隆を目ざす宗教政策であるが,厳しい寺院整理などは斉昭失脚の一つの原因と考えられている。44年(弘化1)幕府より謹慎を命ぜられる。
斉昭の失脚は藩内に大きな動揺を与え,改革派士民の間に2,3年激しい斉昭の雪冤復権運動が展開し,藩内には天狗派(改革派)と保守派の対立が表面化した。斉昭の復権はならなかったが,1849年(嘉永2)3月藩政関与が許され,53年ペリーの来航直後,阿部正弘の推挙で幕府の海防参与となり,次いで軍制,幕政にも参与するが,57年(安政4)免ぜられた。この前後,水戸藩の安政改革を指導し,郷校の増設,農兵の設置,反射炉の建設などを進めた。しかし内政外交の面で大老井伊直弼と対立し,58年〈急度慎(きつとつつしみ)〉を命ぜられ,翌59年には水戸に永蟄居(えいちつきよ)となり,その罪が解けぬまま60年(万延1)8月水戸城中で急死した。斉昭には藩内種痘の実施,医学の普及など隠れた業績が少なくない。編著も多く,《告志篇》《北方未来考》《景山奇方集》《景山救痘録》《明倫歌集》《息距編》《不慍録》《景山文集》などがある。
執筆者:瀬谷 義彦
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(吉田昌彦)
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1800.3.11~60.8.15
幕末期の大名。常陸国水戸藩主。父は7代治紀(はるとし)。号は景山。諡は烈公。1829年(文政12)兄斉脩(なりのぶ)の養子となり遺領を相続。改革派の藤田東湖(とうこ)・戸田蓬軒らを登用し,全領の検地,弘道館・郷校の設置,梵鐘没収と大砲鋳造,軍事調練など天保の藩政改革を行った。極端な排仏など政策の過激さにより44年(弘化元)幕府から謹慎・隠居を命じられたが,老中阿部正弘や宇和島藩主伊達宗城(むねなり)らと書簡を交し,ペリー来航後は幕府海防参与となり,大船建造や軍制改革に参画。将軍徳川家定の継嗣問題では七男一橋慶喜(よしのぶ)を推したが,大老井伊直弼(なおすけ)により和歌山藩主徳川慶福(家茂)が継嗣に内定,条約調印の決定に及び,58年(安政5)6月24日名古屋藩主徳川慶勝らと不時登城して井伊を詰問した。翌月謹慎を命じられ,翌年安政の大獄に連坐して国元永蟄居となる。
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…この勢力を南紀派という。もう1人は前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第7子で,一橋家を相続していた一橋慶喜(よしのぶ)であった。慶喜を推したのは,斉昭のほか福井藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬,阿波藩主蜂須賀斉裕,宇和島藩主伊達宗城,土佐藩主山内豊信ら雄藩の大名と,幕府の海防掛であった大目付土岐頼旨,勘定奉行川路聖謨,目付永井尚志,同岩瀬忠震,同鵜殿長鋭,田安家家老水野忠徳らであった。…
…茨城県水戸市常磐町にある公園。1842年(天保13)水戸藩主徳川斉昭が開設した。千波湖をのぞむ台地上に好文亭,奥御殿などを設け,約150種,1万株といわれる梅樹があった(現在は約60種3000株)。…
…その他著名な事件としては,1839年(天保10)蛮社の獄に連座した渡辺崋山は主人家来に引き渡し在所において蟄居を命ぜられ,54年(安政1)佐久間象山,吉田松陰などもこの刑をうけた。59年水戸藩主徳川斉昭は将軍家定の継嗣をめぐって大老井伊直弼と対立し永蟄居を命ぜられたが,翌年危篤のゆえをもって免ぜられた。76年の華族懲戒法は蟄居の懲戒をおいたが,85年には除族と改められ,蟄居の制はなくなった。…
…
[水戸藩の天保改革と幕末の混乱]
江戸時代後期から幕末にかけては,藩政の再編強化を目ざして政治改革を実施した藩が多い。藩主徳川斉昭(なりあき)が断行した水戸藩の天保改革は幕府や諸藩に先がけて実施され,天下視聴の的となっただけでなく,斉昭はじめ改革派の藤田東湖,会沢正志斎らの著書,言動が対外的危機意識の高揚する中で現状打開の指針のように考えられて,尊攘志士たちの注目するところとなった。しかし改革推進の過程で門閥派との軋轢(あつれき)を深め,藩内の対立抗争を激化させていく。…
…しかし,西欧船が日本近海に出没し,海防令が公布され,西欧船にならった船の建造が始まると,国産洋式船と西欧船を識別する標識が必要となる。1853年(嘉永6)9月に大船建造の禁を解いた幕府は,御国総船印(おくにそうふなじるし)・帆印について評定所一座・大小目付・勘定奉行・大船製造掛に諮問した結果,翌54年(安政元)5月に御国総船印は白紺布交りの吹貫,帆印は白地中黒とし,幕府船は日の丸の幟を立て,藩船は在来の印を用いる案をまとめ,海防参与を命じた前水戸藩主徳川斉昭の意見を徴した。6月から1ヵ月余にわたって,日本船の標識として日本の日を表す日の丸を強硬に主張する斉昭と,幕府船の標識としての日の丸に固執する幕府の間で折衝が繰り返されたあげく,幕府は斉昭に押し切られて,7月,白地日の丸の幟を日本総船印と決め,幕府船は白地中黒の帆印と白紺2色の吹貫を用い,藩船は各家の定めた別の船印・帆印を使うように命じた。…
…江戸後期の水戸学の代表的な実践活動家。名は彪,東湖は号。幕末水戸学の祖藤田幽谷の子。父の没後に水戸藩の史局彰考館の編修,次いで総裁代理となるが,1829年(文政12)藩主の継嗣問題が起こると,前藩主の弟斉昭擁立に奔走し,斉昭が家督を継ぐと郡奉行,江戸通事,御用調役さらに側用人と累進し,その腹心として機務に参画する。しかし44年(弘化1)斉昭が幕府の忌諱にふれて隠居謹慎に処されると,蟄居(ちつきよ)謹慎を命じられる。…
…茨城県中央部にある県庁所在都市。1889年市制。1992年常澄村を編入。人口24万6347(1995)。市域の大半は常陸台地と那珂川沖積地に広がる。主要市街地は,那珂川と千波(せんば)湖にはさまれた台地上の上市(うわいち)と那珂川の沖積低地上の下市(しもいち)とからなる。12世紀末,大掾資幹(だいじようすけもと)が館を置き,佐竹氏の支配を経て近世に水戸藩の城下町となってから大きく発展した。1889年,両地区の接点に常磐線水戸駅が開設されたが,行政中心は上市に置かれ,以後の都市発展は上市が中心となった。…
…常陸国(茨城県)水戸に置かれた親藩で三家の一つ。徳川家康の十一男徳川頼房が1609年(慶長14)常陸下妻城主から水戸に移封され,25万石を領したときに始まる。頼房以前,佐竹義宣が水戸から秋田へ移封された直後に家康の五男武田信吉が,また信吉死後十男頼将(頼宣)が水戸城主の地位にあったが,この2代の間は水戸藩とはいわない。藩主は頼房以後,光圀(みつくに),綱条(つなえだ),宗尭,宗翰,治保,治紀,斉脩,斉昭,慶篤と続き,11代昭武のとき廃藩置県となった。…
※「徳川斉昭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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