徳政一揆(読み)トクセイイッキ

デジタル大辞泉 「徳政一揆」の意味・読み・例文・類語

とくせい‐いっき【徳政一×揆】

室町時代畿内周辺の地侍・都市下層民・農民などが幕府徳政令発布を要求して起こした一揆。また、かってに徳政と称して金融業者を襲い、略奪を行うものもあった。

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精選版 日本国語大辞典 「徳政一揆」の意味・読み・例文・類語

とくせい‐いっき【徳政一揆】

  1. 〘 名詞 〙 室町時代、徳政を要求して決起した土一揆。徳政の発布を幕府に迫り、また徳政を実行すると称して土倉・酒屋などの金融業者を襲い、掠奪を行なった。徳政土一揆。

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改訂新版 世界大百科事典 「徳政一揆」の意味・わかりやすい解説

徳政一揆 (とくせいいっき)

中世に徳政を要求して起こった土一揆(つちいつき)。荘園単位で領主に年貢の減免などを要求して起こった荘家の一揆と区別される。1428年(正長1)以後のおもな土一揆はこの徳政一揆である。鎌倉幕府のいわゆる永仁の徳政令以来,債務破棄と土地取戻しを内容とする徳政を期待する風潮が諸階層の間に強まってきて,それを実行する各地の散発的な動きが積み重なって,正長の土一揆に爆発したといえる。徳政一揆の内容は,土倉を襲って借書を焼き質物を取り戻すことによって個別に債務を破棄するいわゆる私徳政と,幕府や守護などの地方権力に徳政令の発布を要求することの二つからなる。私徳政の裏付けのために徳政令を引き出すのであって,徳政と号するという行為が両者の結びつきを示している。正長の土一揆では幕府の徳政令は引き出せなかったが,京都を襲った人々はほぼその目的を達して引きあげたようである。京都に呼応した他の地方では,守護などの地方権力が徳政令を出し,また郷村単位に徳政を施行したところもあった。41年(嘉吉1)の嘉吉の土一揆のときには幕府の徳政令がかちとられたが,47年(文安4)には徳政禁制,54年(享徳3)は分一銭(ぶいちせん)(債務額の10分の1)を幕府に納めた者だけに認める分一徳政令,57年(長禄1)は逆に債権者に分一銭を納入させてその債権を保障する分一徳政禁制になった。土一揆参加者が幕府の徳政令から直接恩恵を被る可能性はますます小さくなったのである。にもかかわらず徳政と号する蜂起が衰えながらも16世紀中ごろまで続けられたのは,実力で私徳政を断行するところにおもな内容があったからである。
徳政
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百科事典マイペディア 「徳政一揆」の意味・わかりやすい解説

徳政一揆【とくせいいっき】

室町から戦国時代にかけて,徳政の発布を求めて蜂起(ほうき)した土(つち)一揆。特に応仁・文明の乱前後に高揚。畿内およびその周辺地帯に頻発(ひんぱつ)し,酒屋・土倉・寺院を襲っては徳政を要求。一揆の主体は地侍(じざむらい)・名主(みょうしゅ)百姓で,ときに馬借も加わった。近江(おうみ)・畿内一帯に及んだ1428年の正長(しょうちょう)の土一揆をはじめ,1441年の嘉吉(かきつ)の土一揆,1454年,1457年の一揆も大規模で,徳政をかちとった。→一揆
→関連項目倉役太良荘馬借一揆引間

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳政一揆」の意味・わかりやすい解説

徳政一揆
とくせいいっき

室町時代に徳政令の発布を要求して起した土一揆。酒屋,土倉などの金融業者の高利や強制取立てに苦しんだ畿内およびその周辺地帯の地侍,農民,馬借らが一揆を起して,幕府に徳政令の発布を要求,あるいは直接金融業者を襲撃した。正長1 (1428) 年近江,山城,大和の馬借が大挙して蜂起した一揆 (→正長の一揆 ) は有名。また嘉吉1 (41) 年9月に起った一揆は,近江坂本から山城伏見,嵯峨あたりまでに及ぶ大規模なもので,参加者は数万を数えたといわれる。このほか享徳3 (54) ,長禄3 (59) ,寛正2 (61) ,文明 17 (85) ,延徳2 (90) 年の一揆が有名である。 (→徳政 )  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「徳政一揆」の解説

徳政一揆
とくせいいっき

室町時代に徳政を要求して蜂起した土一揆。実態がわかる京都の場合,近郊で結成された土一揆が,市中の酒屋・土倉など金融業者を襲撃,借用証文を破棄し,質物を強奪して貸借関係を破棄する私徳政を行うのがふつうだった。みずからの貸借関係のみならず他者のそれをも破棄した結果,一揆に参加していない公家・僧侶などにも質物が返還される場合もあった。さらに幕府に徳政令の発布を要求し,幕府はしばしば押しきられた。応仁の乱前夜から,大名の将兵が陣立(じんだて)と称して酒屋・土倉に押しいり,質物を強奪することも頻繁となる。高利貸資本が農村に浸透し,債務の増大によって土地を剥奪された農民らの土地返還要求が,この一揆の背後にあったといわれる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「徳政一揆」の解説

徳政一揆
とくせいいっき

室町時代,徳政令の発布を要求する土一揆
貨幣経済の発達した畿内の農民・地侍・馬借・車借などが徳政令の発布を要求して,寺社・土倉などの高利貸業者を襲った。1428(正長元)年の正長の土一揆は幕府に徳政令を出させるに至らず私徳政におわったが,嘉吉の土一揆(1441)では幕府が一国平均の徳政を発令した。のちには幕府は分一 (ぶいち) 徳政令を出し,債権・債務者から分一銭を徴収して幕府財政を補った。

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世界大百科事典(旧版)内の徳政一揆の言及

【近江国】より

…山門統制下の馬借が土一揆で指導的役割を果たした結果,近江の土一揆は特殊な政治的色彩を帯びることもあった。41年(嘉吉1)に京都周辺で起こった大規模な徳政一揆も近江に端を発したもので,しかも馬借が先頭に立っているが,馬借は山門と六角氏の対立の中で六角氏の京都の宿所を襲うなど,徳政一揆とは別の目的で行動している。しかし土一揆が徳政を要求することは,金融面での大勢力でもあった山門との対立を招き,山門の支配力の低下につれて,馬借が山門に敵対する傾向も見られるようになった。…

【私徳政】より

…室町時代の社会の基層部には,なお移転した物,とくに土地は本来の持主のもとに帰るのが正しい姿であるという観念が強く存在し,種々の〈交替〉観念にもとづく契機により私徳政が行われる,〈徳政状況〉ともいうべき状態が存在した。この私徳政の形態としては,地発(じおこし)などのように個別的にひろく移転した所有物を取り戻すかたち,また一揆や郷村が集団のメンバーに限定して徳政を施行する在地徳政,さらに徳政一揆が施行する私徳政などがあった。徳政一揆は,徳政令を要求するいっぽう,徳政と号して広く私徳政を施行した。…

【土一揆】より

…この強訴逃散は荘家の一揆(しようけのいつき)とも呼ばれ,武力蜂起に近いものもあった。荘家の一揆は荘園単位の闘争で,荘園の枠を超えて徳政を要求した土一揆つまり徳政一揆とは区別されるが,両方を含めて土一揆と呼ぶことができる。荘家の一揆を基盤にして徳政一揆が起こると考えられるが,徳政一揆の時代になっても,個別の領主との間では荘家の一揆が起こる。…

※「徳政一揆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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