精選版 日本国語大辞典 「応永の外寇」の意味・読み・例文・類語
おうえい【応永】 の 外寇(がいこう)
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1419年(応永26)6月に起こった朝鮮王朝(李氏(りし)朝鮮)軍の対馬(つしま)襲来事件。1418年4月、朝鮮に信頼の厚かった対馬島主宗貞茂(そうさだしげ)(?―1418)死去の報が伝わると、朝鮮では倭寇(わこう)再発の懸念が生じた。そして翌1419年5月に、倭船50余艘(そう)が朝鮮の庇仁県都豆音串に侵入し、ついで倭船38艘が海州の延平串を襲撃するに及んで、太宗は対馬出兵を決意するに至った。兵船227艘に軍勢1万7285人を乗せ、65日分の兵糧を用意した朝鮮軍は、6月19日に巨済(きょさい)島を出発し、10余日間にわたって対馬島を攻撃した。大小129艘の船を奪い、1939戸の家を焼き、104の首級をあげ、多くの日本人を捕虜にするなどした。後年の編纂(へんさん)物『対州(たいしゅう)編年略』では、日本側の死者123人、朝鮮側は2500余人と伝えられている。朝鮮軍は7月3日には巨済島に帰還した。11月、室町幕府は、蒙古(もうこ)・高麗(こうらい)連合軍が対馬島に来襲したとの、この事件についての情報の真偽を確かめるべく、数年ぶりに朝鮮へ使僧を送った。それに対して朝鮮側も回礼使宋希璟(そうきえい)(1376―1446)を日本に送って幕府と折衝させた。しかし、その後の交渉はいっこうに進まず、1423年(応永30)に太宗が没し、世宗が政治の実権を掌握すると、宗貞茂の子貞盛(さだもり)(?―1452)に日朝貿易の管理統制権が与えられる形で、朝鮮と対馬の通交関係の回復がなされたのである。かくして、世宗の平和通交の交隣政策によって、宗貞盛と朝鮮王朝の間で結ばれたのが嘉吉(かきつ)条約である。
[黒田日出男]
1419年(応永26)朝鮮軍が対馬島を攻撃した事件。朝鮮では己亥(きがい)東征とよぶ。前年,倭寇(わこう)鎮静化につくした対馬島主宗貞茂が没し,子の貞盛が継ぐが,島内の実権は倭寇の頭目早田(そうだ)左衛門大郎に移った。19年,倭寇が朝鮮半島沿岸を襲撃。朝鮮国王世宗の父太宗はこの情勢をみて,倭寇の根拠地とみていた対馬島の攻撃を決意。同年6月,兵船227隻・軍兵1万7285人の大軍を派遣したが,糠嶽(ぬかだけ)の戦で多数の戦死者を出し撤退。京都方面では明来寇などの風説が流れた。乱後の復旧交渉時に,対馬の朝鮮慶尚道への帰属を提案する対馬島民がいた。室町幕府は,無涯亮倪(むがいりょうげい)を朝鮮に送って実情を探らせたのに対し,20年朝鮮は回礼使宋希璟(そうきけい)を日本に派遣し,日本側の事情を掌握した。対日強硬論者の太宗が23年に没した後,世宗が親日的な外交を進め,対馬でも貞盛の統制が確立し,ようやく日朝間は円満な関係になった。
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