デジタル大辞泉
「恒良親王」の意味・読み・例文・類語
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つねよし‐しんのう‥シンワウ【恒良親王】
- 後醍醐天皇第六皇子。「つねながしんのう」とも。元弘の変に捕われて但馬に配流。千種忠顕と六波羅攻めに参加したが敗れた。新田義貞と北陸経営にあたり、越前金崎城に拠ったが落城。捕われて毒殺されたといわれる。正中元~暦応元=延元三年(一三二四‐三八)
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恒良親王 (つねよししんのう)
生没年:1325-38(正中2-延元3・暦応1)
〈つねなが〉ともよむ。後醍醐天皇の皇子。母は阿野公廉の女,皇太后藤原廉子(阿野廉子)。公家一統の親政により建武の中興をはかる後醍醐天皇は,両統迭立を否定して1334年(建武1)恒良親王を皇太子に立てた。しかし翌年足利尊氏らの離反で建武体制が崩壊したばかりか,尊氏らの反攻にあって天皇・皇太子らは苦境に立ち,36年(延元1・建武3)皇太子は兄尊良親王(1311-37)とともに新田義貞に擁されて越前金崎城に入城して北陸経営に当たった。だがその城も37年足利勢に攻められて兄親王は自害し,恒良親王は捕らえられて京都に護送され,1年後の38年4月没した。毒殺と伝えられている。ときに14歳であった。
執筆者:米田 雄介
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恒良親王
つねながしんのう
[生]元亨2(1322).京都
[没]延元3=暦応1(1338).4.13. 京都
後醍醐天皇の皇子。母は新待賢門院藤原廉子。「つねよし」とも読む。後醍醐天皇の企てた元弘の乱が失敗して,天皇が六波羅に幽せられると,親王も一時藤原宣明の邸に預けられ,のち但馬に配流されて守護太田守延の家に幽閉された。元弘3=正慶2 (1333) 年守延は親王を奉じて挙兵。建武中興がなると,建武1 (1334) 年皇太子となった。延元1=建武3 (1336) 年足利尊氏が九州から東上して後醍醐天皇との和議が一時成立したので,新田義貞らに奉じられて北国経営のため越前金崎城に拠った。しかし翌年落城,親王は捕えられ,京都に護送,毒殺された。
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恒良親王(つねながしんのう)
つねながしんのう
(1324―1338)
後醍醐(ごだいご)天皇の第六皇子。「つねよし」とも読む。母は阿野廉子(あのれんし)(新待賢門院(しんたいけんもんいん))。元弘(げんこう)の変(1331)後但馬(たじま)に配流され、守護太田守延(もりのぶ)の家に幽閉された。1333年(元弘3・正慶2)守延に奉じられて挙兵、千種忠顕(ちぐさただあき)の軍に合流して六波羅(ろくはら)を攻めた。翌年建武新政となって皇太子となった。翌々年冬新政が崩壊、後醍醐天皇は38年(延元3・暦応1)挙兵の根拠地を築こうとして、恒良親王に尊良親王、新田義貞(にったよしさだ)、洞院実世(とういんさねよ)らをつけて越前(えちぜん)に下向させた。しかし越前金ヶ崎(かねがさき)城(福井県敦賀(つるが)市)で激戦のすえ敗北、毒殺されたといわれている。
[黒田弘子]
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恒良親王
没年:暦応1/延元3(1338)
生年:正中2?(1325)
後醍醐天皇の皇子。母は阿野廉子。「つねなが」とも。父の信望が厚く,建武の新政下の建武1(1334)年1月皇太子となる。新政が崩れ,足利幕府勢力との抗争が始まると,建武3/延元1年10月,足利尊氏の和平案に応じて京都に戻ろうとする父天皇から皇位を譲り受け,越前敦賀の金崎城に入り,北陸地方で南朝勢力の興起をはかった。しかし翌年幕府軍の攻撃の前に城は落ち,同行していた異母兄尊良親王や新田義顕らは自刃。恒良は落城のさい捕らえられ,京都で幽閉されたが,延元3年4月13日毒殺されたと『太平記』に記されている。<参考文献>森茂暁『皇子たちの南北朝』
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恒良親王 つねよししんのう
1324-1338 鎌倉-南北朝時代,後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。
正中元年生まれ。母は新待賢門院。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年太田守延(もりのぶ)に奉ぜられて鎌倉幕府の京都六波羅を攻め,翌年皇太子となる。足利尊氏(たかうじ)の謀反により越前(えちぜん)(福井県)にのがれたが捕らえられ,建武(けんむ)5=延元3年4月13日京都で毒殺されたという。15歳。名は「つねなが」ともよむ。
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世界大百科事典(旧版)内の恒良親王の言及
【金崎宮】より
…旧官幣中社。後醍醐天皇の第1皇子尊良(たかよし)親王と第6皇子恒良(つねよし)親王をまつる。新田義貞に奉ぜられた両親王は,1337年(延元2∥建武4),金崎城によって足利方と戦って敗れ,尊良親王は自害,城を逃れた恒良親王も翌年京都で毒死した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」