愛知揆一(読み)アイチ キイチ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「愛知揆一」の解説

愛知 揆一
アイチ キイチ


肩書
衆院議員(自民党),蔵相,外相

生年月日
明治40年10月10日

出生地
東京

出身地
宮城県仙台市

学歴
東京帝国大学法学部政治学科〔昭和6年〕卒

経歴
昭和6年大蔵省に入り、財務書記として英、仏駐在。ロンドン国際経済会議随員、蔵相秘書官、20年文書課長、官房長を経て、22年銀行局長。25年参院選全国区に当選。28年大蔵政務次官、29年第5次吉田茂内閣の通産相兼経済審議庁長官。30年衆院選(宮城1区)に当選。32年岸信介内閣の官房長官から法相。39年第2次池田勇人内閣文相、41年第1次佐藤栄作内閣の官房長官、43年第2次佐藤内閣の外相として沖縄返還交渉に努め、44年愛知・ロジャース会談で協定を仕上げた。47年のポスト佐藤・総裁公選では田中角栄擁立に努め、同年暮れの第2次田中内閣で蔵相。翌年、石油ショック対策に追われる中で急死した。

没年月日
昭和48年11月23日

家族
孫=愛知 治郎(参院議員)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「愛知揆一」の解説

愛知 揆一
アイチ キイチ

昭和期の官僚,政治家 衆院議員(自民党);蔵相;外相。



生年
明治40(1907)年10月10日

没年
昭和48(1973)年11月23日

出生地
東京

出身地
宮城県仙台市

学歴〔年〕
東京帝国大学法学部政治学科〔昭和6年〕卒

経歴
昭和6年大蔵省に入り、財務書記として英、仏駐在。ロンドン国際経済会議随員、蔵相秘書官、20年文書課長、官房長を経て、22年銀行局長。25年参院選全国区に当選。28年大蔵政務次官、29年第5次吉田茂内閣の通産相兼経済審議庁長官。30年衆院選(宮城1区)に当選。32年岸信介内閣の官房長官から法相。39年第2次池田勇人内閣文相、41年第1次佐藤栄作内閣の官房長官、43年第2次佐藤内閣の外相として沖縄返還交渉に努め、44年愛知・ロジャース会談で協定を仕上げた。47年のポスト佐藤・総裁公選では田中角栄擁立に努め、同年暮れの第2次田中内閣で蔵相。翌年、石油ショック対策に追われる中で急死した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「愛知揆一」の意味・わかりやすい解説

愛知揆一
あいちきいち

[生]1907.10.10. 宮城
[没]1973.11.23. 東京
政治家。東京大学卒業後,大蔵省に入る。同省官房長,同銀行局長を経て,1950年参議院議員,55年衆議院議員に転じた。以来連続当選7回。この間,吉田内閣の通産相兼経済審議庁長官,岸内閣の官房長官,法相,自治庁長官,池田内閣の文相,科学技術庁長官,佐藤内閣の官房長官,外相などを歴任した。自由民主党きっての政策通で,特に佐藤政権誕生のブレーンとして,「社会開発」「人間尊重」のスローガンをつくった。外相として佐藤首相の沖縄返還交渉を助け,71年6月,同返還協定調印を果した。 72年7月,田中内閣の蔵相となったが,73年秋の石油危機のさなか,過労による急性肺炎で急死した。日本の戦後から高度経済成長期にかけての,代表的な経済官僚政治家である。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「愛知揆一」の解説

愛知揆一 あいち-きいち

1907-1973 昭和時代の官僚,政治家。
明治40年10月10日生まれ。愛知敬一の長男。大蔵省にはいり,銀行局長などをへて昭和25年参議院議員,30年衆議院議員(当選7回,自民党)。吉田,岸,池田,佐藤,田中の各内閣で通産相,法相,文相,外相,蔵相などをつとめた。昭和48年11月23日死去。66歳。宮城県出身。東京帝大卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「愛知揆一」の解説

愛知 揆一 (あいち きいち)

生年月日:1907年10月10日
昭和時代の官僚;政治家。参議院議員;衆議院議員
1973年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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