懐月堂安度(読み)カイゲツドウアンド

デジタル大辞泉 「懐月堂安度」の意味・読み・例文・類語

かいげつどう‐あんど〔クワイゲツダウ‐〕【懐月堂安度】

江戸中期の浮世絵師懐月堂派の祖。肉筆専門とし、世に懐月堂美人といわれる、豪華な衣装をつけた一人立ちの遊女姿の美人画を多く描いた。江島生島事件に連座一時伊豆大島に流された。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「懐月堂安度」の意味・読み・例文・類語

かいげつどう‐あんどクヮイゲツダウ‥【懐月堂安度】

  1. 江戸中期の浮世絵師。懐月堂派の祖。岡沢氏。俗称、源七。別号、翰運子。江戸の人。主として一人立美人の図を描いた。正徳四年(一七一四江島事件に連座して伊豆大島に流された。生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「懐月堂安度」の意味・わかりやすい解説

懐月堂安度 (かいげつどうあんど)

江戸時代中期の浮世絵師。懐月堂派の祖。生没年不詳。江戸の人。岡沢(あるいは岡崎)氏,俗称出羽屋源七,別号を翰運子(かんうんし)といった。安度は〈やすのぶ〉あるいは〈やすのり〉と読んだか。浅草諏訪町に住んだ。浮世絵師にはめずらしく肉筆画を専門として版画を作らず,豪奢(ごうしや)な衣装を着た大柄な立美人の掛幅画を,門弟たちをも動員して量産した。肥瘦の変化に富む奔放な描線と原色的な絵具を好んで用いる明快な配色とによる類型的な美人画は,後世〈懐月堂美人〉と愛称され,18世紀初頭(元禄~正徳)の江戸で大いに流行した。1714年(正徳4)江島事件に連座して伊豆大島に配流されるが,まもなく許されて江戸へ戻ったらしく,33年(享保18)まで活躍をつづけたことがほぼ確認されている。署名に〈懐月(堂)末葉〉と冠する直接の門人に安知(長陽堂),度繁,度辰,度秀,度種がおり,時に自画へ〈安度〉の印を捺すなどして,工房制作に従ったことを証している。安知,度繁,度辰の3人には版画(墨摺絵ないし丹絵による美人画)もある。懐月堂風を追う亜流の肉筆画家は,一門のほかにも数多く生まれ,その活躍は18世紀の中葉にまで及んだ。東川堂里風,伯照軒(松野)親信,梅翁軒永春,滝沢重信西川照信らの名が知られる。また宮川長春,奥村政信らも強い影響を受けた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「懐月堂安度」の意味・わかりやすい解説

懐月堂安度
かいげつどうあんど

生没年不詳。江戸中期の肉筆画専門の浮世絵師。岡沢(あるいは岡崎)氏。俗称出羽屋源七、別号を翰運子(かんうんし)といい、江戸・浅草諏訪(すわ)町に住んだ。浮世絵師としては珍しく版画作品をつくらず、女性の立ち姿のみを画面いっぱいにとらえた類型的な肉筆画を、数人の門弟とともに量産して世に送り出した。このいわゆる「懐月堂美人」は、原色的な色彩と抑揚に富む激しい筆線で表され、元禄(げんろく)年間(1688~1704)から正徳(しょうとく)年間(1711~16)にわたる18世紀初頭の江戸人の、豪快で闊達(かったつ)な気風をよく反映して、大いに流行した。

 しかし安度は1714年(正徳4)の絵島・生島事件に連座して伊豆大島に配流されることとなり、懐月堂工房は一挙に解体を余儀なくされることとなる。享保(きょうほう)年間(1716~36)に許されてふたたび江戸へ帰ったようだが、その晩年は明らかでない。門人に、血のつながりがありそうな長陽堂安知のほか、度繁(どはん)、度辰(どしん)、度種(どしゅ)、度秀(どしゅう)がおり、安知、度繁、度辰の3人には美人一人立ちの版画作品もある。そのほか懐月堂風を追った亜流画家として、梅翁軒永春(ながはる)、松野親信(ちかのぶ)、滝沢重信(しげのぶ)、西川照信、東川堂里風らがおり、また宮川長春、奥村政信らも強い影響を受けている。

[小林 忠]

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百科事典マイペディア 「懐月堂安度」の意味・わかりやすい解説

懐月堂安度【かいげつどうあんど】

18世紀前半に活躍した肉筆専門の浮世絵師。生没年不詳。〈懐月堂美人〉と呼ばれる豊満体躯(たいく)をもった横向きの立姿を,肥痩(ひそう)の激しい線を使って描いた。懐月堂を名のる5人の弟子(安知,度繁,度辰,度種,度秀)と共同で肉筆画を大量生産し,表現技術の上で制約の多い初期木版画に抵抗。1714年江島事件に連座して,伊豆大島に流された。
→関連項目丹絵美人画宮川長春

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「懐月堂安度」の意味・わかりやすい解説

懐月堂安度
かいげつどうあんど

江戸時代中期の浮世絵師。俗称岡崎源七,号は翰運子。懐月堂派の祖。江戸浅草蔵前に住したといわれる。おもに宝永~正徳年間 (1704~16) に多くの弟子をかかえ,肉筆遊女絵を大量生産した。弟子に安知,度繁,度辰,度種,度秀らがおり,いずれも「懐月堂末葉」を名のる。懐月堂派の作品は,遊郭の売れっ子の名妓を一人立ちの美人画として表現,ほとんどが豪華な衣装を着け,斜めを向いて身体をくの字にそらしたポーズをとる。正徳4 (14) 年,江島生島事件 (→絵島事件 ) に連座,伊豆大島に流刑されたが,ほどなく赦免されて江戸に戻った。寛保3 (43) 年没とする説もある。主要作品『遊女と禿 (かむろ) 』 (東京国立博物館) 。

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朝日日本歴史人物事典 「懐月堂安度」の解説

懐月堂安度

生年:生没年不詳
江戸中期の浮世絵師。「やすのり」とも読む。『増補浮世絵類考』によれば,江戸生まれで,姓は岡沢氏,俗称は源七。宝永(1704~11)から正徳(1711~16)のころに懐月堂工房を組織し,肉筆の美人画を量産する。安度自身は肉筆のみを手がけたが,版画がいまだ完全には独自性を確立していない当時,安度の創始した図様は門弟たちのつくる版画の手本ともなった。正徳4(1714)年,大奥を舞台とした江島生島事件に連座して,伊豆大島に流罪となる。肥痩の激しい描線による様式化された姿態と,大胆な衣裳模様を特色とする美人画風は,他派の絵師にも大きな影響を与えた。<参考文献>小林忠「懐月堂安度とその美人画」(『肉筆浮世絵』2巻)

(大久保純一)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「懐月堂安度」の解説

懐月堂安度 かいげつどう-あんど

?-? 江戸時代中期の浮世絵師。
宝永-正徳(しょうとく)(1704-16)のころに工房を組織して,門弟とともにひとり立ち美人図の肉筆画を量産した。つよい描線であらわされた姿態と絢爛(けんらん)たる衣装美に特色がある。正徳4年絵島・生島事件に連座して一時伊豆大島に流された。姓は岡沢。通称は出羽屋源七。

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世界大百科事典(旧版)内の懐月堂安度の言及

【浮世絵】より

…鳥居派の初代清信と2代清倍は,丹絵期の版画を場として役者絵と美人画(このころ〈嬋娟(せんけん)画〉といった)の両分野に勇壮あるいは優麗な人物像を描いた。懐月堂安度とその門弟は肉筆画に豊満な姿態と豪奢な着衣の立美人図を量産し,闊達(かつたつ)な時代精神を反映した。ことに江戸歌舞伎特有の荒事の演技を活写する鳥居派の〈瓢簞足蚯蚓描(ひようたんあしみみずがき)〉と称される描法は,役者絵独特の描法として現代にまで踏襲されている。…

※「懐月堂安度」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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