中国、四川(しせん)省の副省級市(省と同程度の自主権を与えられた地級市)で、同省の省都。略称は蓉(よう)。1983年には隣接する温江(おんこう)地区を併合し、2017年時点で温江など11市轄区、大邑(たいゆう)など4県を管轄し、都江堰(とこうえん)など5県級市の管轄代行を行う。人口1228万0500、市轄区人口698万1400(2015)。人口や工業生産量では東方にある中央直轄市の重慶(じゅうけい)のほうが大きいが、良好な自然条件のうえに古い歴史と文化をもち、「天府の国」と称される。
四川盆地の西端、岷江(びんこう)のつくる扇状地の扇端に位置し、豊かな水量と温暖な気候(年平均気温16.7℃、年降水量998ミリメートル)に恵まれている。甲府市と姉妹都市提携を結んでいる。
[秋山元秀・編集部 2018年1月19日]
早くから農業開発が進み、すでに先秦(せんしん)時代より蜀(しょく)国が形成され四川盆地開発の拠点となっていた。秦はこれを滅ぼし、その資力をもとに中原(ちゅうげん)へ進出したといわれる。四川盆地の独特の政治地理的性格と、米を中心とする農業に加え、蜀江錦とよばれた絹織物などの豊富な手工業生産により、この地は中原、関中(かんちゅう)、江南と匹敵する力をもっていた。三国時代には劉備(りゅうび)が諸葛孔明(しょかつこうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))とともにここに蜀漢を建て魏(ぎ)、呉と鼎立(ていりつ)し、唐代には揚州(ようしゅう)に次いで天下第二の都会と称された。唐の安史の乱に際しても、玄宗は成都に逃れ南京(なんけい)と称した。詩人杜甫(とほ)が4年余りを過ごし名作を残したのはこのときである。
そののちも安定した状態で繁栄を続け、四川のみならず西南中国全体の中心であった。明(みん)代には皇族である蜀王のために皇城が築かれたが、この地区は今日でも市街の中心になっている。中華民国時代の1930年成都市となり、その後周囲の郊区を編入して今日に至る。
[秋山元秀 2018年1月19日]
古くから農業と第三次産業が発達していたが、1964年に中国政府が始めた「三線建設」(国防のため、工業を三線=四川省などの奥地に移す計画)によって多数の国有企業が本市に移され、工業化が加速した。1988年に国家ハイテク産業開発区(高新区)が設置されたほか、2000年からは「西部大開発」政策のもとで外資企業の誘致に力が注がれ、世界的な企業が次々に進出した。なかでもアメリカのインテル社は、2003年にチップセットの製造工場を建設し、その後も増資を重ねた結果、同工場は世界最大級のチップ生産能力を有するに至った。このほかにも、戦闘機、精密機械、電子部品、バイオ医薬品、自動車などの工場が立地する。近年は新興都市として世界の注目を集めており、2010年『フォーブス』誌(アメリカのビジネス誌)の「次の10年でもっとも成長する都市ランキング」では世界1位に選ばれた。
中国西南地区の交通、物流の中心地であり、12本の高速道路が集まり、成渝(せいゆ)線(成都―重慶)、宝成線、成昆線のほか、2015年開通の成渝高速鉄道、2014年開通の滬漢蓉(こかんよう)高速鉄道(上海(シャンハイ)―武漢(ぶかん)―成都)も通じる。市中心部の南西約16キロメートルには成都双流国際空港があり、西南地区最大のハブ空港となっている。
[唐 琳 2018年1月19日]
市内には、諸葛孔明を祀(まつ)った武侯祠(し)など三国時代にまつわる遺跡のほか、五代前蜀王の王建(847―918)の墓(永陵)、杜甫草堂などの観光地がある。また、西郊の都江堰市にある都江堰は中国史上もっとも著名な水利事業の一つである。
香辛料を多く使用する四川料理の中心地であり、2010年にはユネスコ(国連教育科学文化機関)の「食文化創造都市」に認定された。紙幣の発祥地としても知られ、宋(そう)代に万仏寺の工房で製造された交子(こうし)は世界最初の紙幣とされる。
[秋山元秀・編集部 2018年1月19日]
中国,四川省中央部,四川盆地北西部の市。省人民政府所在地。人口433万(2000)。北西の邛峡(きようらい)山系や九頂山から南東の竜泉山方向に流れる長江(揚子江)の支流の岷江(みんこう),沱江(だこう)が形成した沖積平野,成都平原の中央部を占める。〈蜀山氏(しよくさんし)〉とよばれた隴西(ろうせい)すなわち甘粛の羌(きよう)族の一派が九頂山をへて成都平原に入り,周の末期に蜀の国都をおき,成都と名づけた。以後この名は変えられていないが,これは中国ではほとんど唯一の事例である。秦は蜀を破ったあと,成都県をおいた。張儀は〈新城〉を建設し,城内に蜀郡の太守府を設けた。その後蜀郡の太守張若はさらに小城を三つ増築し,成都の範囲を拡大したが,張儀城は大城,張若城は少城または子城,小城ともよばれた。都江堰(とこうえん)を開いた李冰(りひよう)は張若のあと蜀の太守を継いでいる。漢代には東方から漢族が多数入り,また成都の人口支持力も高まり,元帝の時代には長安についで全国四大都市の一つに数えられるようになった。
手工業も発達し,〈蜀中の宝〉とよばれる蜀錦すなわち錦織製造は専門の役人に管理され〈錦城〉が成都の代名詞ともなった。後漢には益州の蜀郡の郡治がおかれ,三国時代には蜀の劉備が成都に居城をかまえ,帝を名のった。唐代には蜀錦製造はさらに発展し,揚州とともに中国第2の都として繁栄した。10世紀,五代には城内で芙蓉(ふよう)を植えたことから,成都は〈蓉城〉ともよばれた。ちなみに現在も略称は蓉である。元代にはじめて四川省がおかれ,首都は重慶とされたが,明,清には成都は省会としてふたたび四川の政治中心となった。民国後,1930年に市に昇格した。
現在では,前3世紀李冰父子によって開かれた北西の都江堰市の都江堰をはじめ,広範な灌漑施設網によって水利の便もよく,稲,綿の栽培などの農業が発達している。蜀錦や緞子(どんす),清代の官営製革厰以来の工場による皮革製品や家具などの伝統的な手工業がさかんで,集団所有制による企業も多い。さらに,1955年建設された成都火力発電所をはじめ,省最大の四川第一綿紡プリント工場や成都計測器工場などがあり,近代的工業が発達している。
また四川盆地が西南の重要な位置にあるため,古来,成都からの交通が四通している。いわゆる〈蜀桟道〉をふくむ漢中への道である陝西道すなわち金牛道や東への湖北道,南への雲南道,貴州道,西への西蔵道などが開かれてきた。これらは〈蜀への道は難(けわ)しく,青天に上るより難(かた)し〉といわれたように困難な道のりであったが,現在は建設,整備がすすみ,宝成,成昆,成渝鉄道や川蔵自動車道などの起点となっている。また,四川大学や成都工学院などの教育機関も多い。市西郊浣花渓(かんかけい)には唐の詩人杜甫の成都時代の住居,草堂があり,工部祠には多くの資料が集められている。その他,蜀の諸葛孔明をまつった武侯祠や後漢に建設された宝光寺など旧跡も多く,成都は四川省の政治,経済,文化の一大中心となっている。
→巴蜀
執筆者:駒井 正一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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