翻訳|war
戦争とはある政治目的のために政治,経済,思想,軍事的な力を利用して行われる政治集団間の闘争である。それが組織的な破壊の企てであるかぎり,ひとの死を伴う。戦争についてこれまで,政治家や戦略家や社会・人文学者たちが,数多くの異なった定義を下してきた。それらの定義はみななにほどかの真実を表しているが,同時に戦争の実態を汲みつくすこともできないでいる。戦争があまりにも複雑な現象だからにほかならない。戦争はいかなる場所,いかなる時代にせよ,その時点における文明あるいは社会の状態を表出するものであるから,戦争を一般的に定義したところでなにものも語ったことにはならないのかもしれない。たとえば原初的な形態(種族,部族,遊牧民,封建領主間)の戦争と主権的国民国家間の近代的な全体戦争の間には共通するものはさしてないであろう。近代主権国家の成立以降の戦争に限定して検討した場合,同じ主権国家に属する2ないし数個の集団が,全面的にせよ,部分的にせよ,この国家を掌握しようとして争うとき,これを対内戦争(内戦ないし革命)と呼び,2国家ないし国家集団がそれら1国ないし数ヵ国の一部ないし全体を,あるいはまた対外的な利益を得ようとして争うとき,これを対外戦争(国際戦争)と呼ぶ。この区別は理論上のものであり,実際には両者はしばしば密接な関係にある。
戦争は近代以降どのくらい起こっているだろうか。フランス戦争学研究所によれば,1740年(オーストリア継承戦争)から1979年(ソ連のアフガニスタン侵攻)までの間に377件の主要な武力紛争が起こっている。そのうち国家間の戦争は159件で42%であり,国家内部の戦争は218件で58%である。初めは国家内部の戦争であったものが,しだいに国家間の戦争に変化したものは47件で12%であり,初めは国家間の戦争であったものが,しだいに国家内部の戦争に変化したものは3件で約1%である。この比率を第2次世界大戦以後に限ってみるならば,国家内部の戦争,つまり内戦ないしは革命のほうが国家間戦争よりもはるかに多い。81件のうち実に64件が内戦であり,80%である。しかもその50%が外国,ことに大国の干渉によって対外戦争に転化している。それ以前の内戦ないし革命の場合,外国の干渉がわずか16%にすぎなかったことと対比するならば,著しい特色になっている。このことの意味については後に検討する。
また,戦争による人命損失数(軍人および市民)は戦争と革命のもっとも重要な量的単位であるが,正確に知ることは難しい。0(12件の戦闘をともなわない占領)から3000万人以上(第2次世界大戦)までさまざまであるが,総体的にみて増加の傾向にある。10年単位でみると,多数の人命が奪われるようになるのは1910年以降,すなわち第1次世界大戦(1140万人)以後のことといえる。その理由は,戦争の件数の増加,イデオロギーの暴力,兵器の破壊力の飛躍的増大,虐殺と皆殺し(ジェノサイド)の傾向を指摘できよう。なお,死者の数に関しては注目すべき傾向がある。軍人と民間人との死の比率が,第1次世界大戦時には95%対5%であったのが,第2次世界大戦時には52%対48%になり,朝鮮戦争時には逆に15%対85%,さらにベトナム戦争時には実に5%対95%となるのである。20世紀における戦争の性格の変化をこれほど端的に示す指標はほかにない。こうした戦争の形態や人命損失度の変化は,戦争がその時点での社会の主要な特性に対応していることの反映にすぎない。
戦争の性格はしばしば時代とともに本質的な変化をとげる。戦争がそれにかかわる当の国際社会ないし国内社会の政治的・社会的構造の変容を反映したものだからである。そして戦争のこの変容は,逆に社会の政治的・精神的構造の変革をもたらす。実際,〈だれがだれに対して〉(主体),〈なにゆえに〉(争点),〈どんなかたちで〉(形態)という戦争の諸側面が,軍事技術の変化と合わせてすっかり変わってしまうものである。このような意味での戦争の性格の根本的な変化は近代以降3度あり,それらの効果の派生はまだ終わっていない。それゆえそれらは現代における戦争の意味を理解するうえで決定的な意義をもつ。まず1789年のフランス革命に始まる〈革命の戦争〉である。これは,政治と戦争に人民とイデオロギーが重要な要素として登場し,君主社会の衰退の始まりを示した戦争である。次に1914年の第1次世界大戦である。これは戦争の帰趨が工業力によって左右され,国民全体を巻き込む全体戦争を意味し,ヨーロッパ社会の相対的な衰退の始まりを示した戦争である。最後は,1945年以降の核時代の開幕と第三世界の国際的スケールでの政治と工業化過程への参加である。これは北の世界での〈平和〉と南の世界での〈戦争〉を併存させるという奇妙な時代を画し,戦争の性格をこれまでになく本質的に変容させた。
17~18世紀までの君主間の戦争は,王に対して直接的な関係をもつ貴族からなる〈将校〉と,ヨーロッパ全土から強制徴募か懸賞金で召集された〈下士卒〉とに厳格に分かれた,階層的構造をもつ専門家の軍隊によって,一地方の併合や保持といった王朝的利益のために,一定の対決の規則にもとづいて行われる限定的なゲームでしかなかった。それは形式を重視し,殺戮(さつりく)の少ない,どちらかといえば遊戯的機能をもつ戦争であった。軍隊は,国家権力の象徴であると同時に,独自の慣例,儀式,外観,衣服,特権,責任,人間関係をもつ下位文化でもあり,社会の他の人々の生活とは画然と切り離されていた。それゆえ,一般の市民は戦争の決定にいかなる意味でも関与することはなかったし,それが起こったときにも参加を要求されることはなかった。
こうしたことの一切を変えたのが,1789年から1815年までの約25年間余,革命フランスとその隣国との間で間断なくつづけられた〈革命の戦争〉であり,ナポレオン戦争であった。国家はもはや王朝的君主の〈家産〉ではなく,民族,自由,革命といった大義名分のための装置であり,民衆はこの国家を他のヨーロッパ諸国の旧体制の干渉戦争から守ることに公共の善の具現をみ,この国家に忠誠を示すことによって国民となった。民衆がイデオロギーに触発され,ナショナリズムに支えられながら,敵に対して憎悪のうちに行う戦争はかつてなく苛烈なものとなり,殲滅戦(せんめつせん)となった。そのことは特別の新兵器が現れたわけではなかったのに,この戦争で約242万人もの人命損失があったことに端的に表れている。同時にこの戦争は近代国家のもろもろの制度をつくりだし,国家の権力を基礎づけることになった。すなわち,徴兵制度により,国家は全市民を掌握し,個人に労働の提供を求めただけでなく,命まで犠牲にする支配者として登場するにいたった。こうして戦争は,他の手段をもってする国家の政策の実行にほかならなくなる。戦争の性格のこの変容を鋭く見抜き,あますところなく分析したのが,この時代を生きたプロイセンの士官クラウゼウィツであり,その《戦争論》(1832-34)は後世の戦争観に決定的な影響力を与えることになる。
クラウゼウィツの戦争論のもっとも大きな寄与は次の命題の定立であろう。第1は,政治の戦争に対する優位性であり,〈戦争は他の手段による政治の継続である〉というあまりにも有名になった命題である。もっともクラウゼウィツは政治とはなにかについては定義していない。彼にとって政治は社会全体の利害関係のすべてを包括するものであり,いわばそうあるべき政治なのであって,現にある政治ではない。しかし,はっきりしていることは,戦争は政治の道具なのであって,目的と手段の関係についてはいささかの混同もないことである。戦争は政治の継続という定式は,〈敵国の打倒〉という彼のもうひとつの戦争の定義に矛盾するかもしれない。だからこそ,彼の後継者となったモルトケやルーデンドルフは,クラウゼウィツの定式を逆転させ,戦争という手段を政治の目的に奉仕させ,それを政治から完全に独立した行動として遂行することによって,戦争自体を目的とさせることができたのである。ここから,軍事的下位文化の価値,すなわち組織におけるヒエラルヒーと服従,個人的行動における勇気と自己犠牲,国際関係における武力紛争の不可避性を認める軍国主義が,19世紀末までにヨーロッパの社会に浸透したのも不思議なことではあるまい。
クラウゼウィツの第2の命題は,圧迫された人民は,最終的には侵略者を駆逐するために武装するというものである。いわば戦争における防御としてのパルチザンの意義に触れているのは,《戦争論》第6編,ことに第26章の〈国民総武装〉においてであり,そこでは理論の輪郭が描かれているだけである。ドイツやフランスの軍事理論家からは長いこと無視されてきたこの編の重要性を理解したのは,わずかに後の革命家たちだけであった。しかし,ナポレオン正規軍のスペイン侵略に抗して英雄的に闘うスペイン民衆の非正規のゲリラ隊の出現に,新しい時代の予兆をみてとったクラウゼウィツの想像力は,20世紀の戦争が本質的にパルチザンの抵抗と内戦にあることを考えるならば,やはり天才的なものだったといわなくてはならない。
第1次世界大戦はどの点をとっても,歴史上の他の戦争と本質的に区別されるべき性質をもつ。第1に戦争の全体化,第2に革命の戦争化あるいは国際的内戦化とそれに伴う戦争観の変化である。
戦争の全体化は,民主主義(徴兵制)と産業化(大量生産・大量破壊)の時代には必至である。それは〈組織化〉と〈合理化〉による国民のエネルギーの総動員によってなされる戦争を意味する。このことをR.カイヨアにならって量的な指標で定義するならば,第1に戦闘員の数が動員可能な成年男子の数に近づくということである。この結果,実に1100万人もの市民=兵士が参戦し,850万人が戦死し,非戦闘員の死を含むならば計2000万人もの殺戮が発生した。もとよりこれは〈技術的驚異〉による新戦力(高性能爆薬の弾丸,後装ライフル,機関銃,戦車,毒ガス,飛行機,潜水艦など)の出現と無関係ではない。第2に使用される軍需品の量が,その交戦国の工業力の最大限の生産量に等しい,ということである。いずれの国家も日夜を分かたず戦場へと軍需品を送り出す巨大な工場と化す。その背後では,原料と食糧の計画的管理,労働関係の軍事化,民間徴用,通商船舶の武装化などが進行する。戦争遂行の主導者は,政治を戦争に奉仕させる参謀本部と軍需産業の協力体制である(軍産複合体)。軍部の要求が絶対的な優先性をもち,その必需品の生産が産業に指令され,産業も民間需要を犠牲にすることなく,この要求を満たす。まさに軍部の産業化,産業の軍事化である。それのみか市民は戦時公債に応じ,労働組合でさえ総動員に不可欠な機能を果たし,労働者の戦争を出現させるのである。まさに〈組織化された熱狂主義〉(E. アレビー)である。とはいえ,彼らを動員できたのはかならずしも単に支配的エリートの宣伝と操縦のせいだけではない。19世紀後半には民族が人々の忠誠の焦点として現れていたからである。たとえば,ドイツ軍国主義を支持したのは,主として下層中流階級であった。
以上の社会経済的・精神的構造はドイツやフランスだけでなく,いずれの国家にも共通する。そして,このことは戦争の大義名分が国家理性以外のものになることを意味している。たとえばドイツの場合には,固有の文化Kulturの防衛と栄光であり,アメリカの場合には〈民主主義にとって安全な世界〉の確保である。いずれもイデオロギーにほかならない。このことからこの戦争は銃後の崩壊,すなわち,敵の経済的消耗によって勝敗が決定されることになる。戦争の帰趨は,全工業力と〈戦争努力〉が要求する負担に耐えしのぶ市民の意志力と士気以外にはなかった。これが4年もつづいたゆえんであり,戦争の終結は戦場での勝敗によってではなく,革命ないし革命への恐怖の結果であった。ここから第2の特質が指摘できよう。革命の戦争化である。
実際,第1次世界大戦は〈ヨーロッパ国際法の在来的な国家間の戦争として始まり,革命的な階級敵対関係の世界内戦で終わった〉(C.シュミット)。そして1918年のドイツとハンガリーでの革命は,ヨーロッパ社会の伝統的な枠組みを破壊し,国際体制を基礎づけていたイデオロギー的合意の否定を意味するほどの衝撃力をもっていた。1917年のロシア革命がすでに,ブルジョア支配の世界とは異質な体制を出現させており,ヨーロッパ諸国の支配階級に国内のボリシェビズムに対する恐怖を抱かせていたからでもある。
要するに,戦争と革命の相互関係が急速に発展し,しかも重点が戦争から革命に移ってきているのである。確かに解放戦争が革命に先行したアメリカ革命であれ,革命が防衛と侵略の戦争に転化したフランス革命であれ,戦争と革命の相互関係自体は別に新しいことではない。新しいのは,戦争の主体が階級であり,その目的が革命であり,戦争を正当化する唯一の大義名分が自由という革命的主張だということにあった。ここにおいて戦争を国家間の権力闘争の形態とみたクラウゼウィツ的戦争哲学(国家間戦争)は,パルチザン戦争を国内の階級闘争の不可欠の闘争形態とみたレーニンの戦争哲学(内戦)の重要性にとってかわられる。その延長上で〈政治は血を流さない戦争であり,戦争は血を流す政治である〉として,戦争と政治とを一体化し,革命戦争という新しい戦争哲学を理論的かつ実践的に示したのが毛沢東にほかならない。後のスペイン戦争や中国の抗日戦争から第2次世界大戦へ,そして,朝鮮戦争からベトナム戦争にいたるまで現代の内戦と革命戦争の原型とその哲学は,この時点に表れているのである。
広島と長崎に落とされた2発の原爆は,一瞬のうちに大都市を壊滅させ,十数万もの人々を即死させた。核のもつ破壊力と地球上のどの地点にも瞬時に運搬できるミサイルの出現は,二つの大戦にみられた工業諸国の総動員による全体戦争を過去のものにした。もはや戦争を正当化する政治的理由は見いだしえないのみか,そもそも核戦争を行うこと自体不可能になった。現代のパラドックスは,核の黙示的な恐怖が大規模な戦争を抑止しているということである。超大国間の恐怖の均衡は冷戦という仮想的な戦争のなかでしか権力闘争を可能にさせず,暴力行使は局地化され,あるいはまた内政化される。第2次世界大戦後の戦争が,通常型戦争であれ,内戦であれ,圧倒的多数が第三世界で起こっていることも必然である。ヨーロッパの植民地本国はもはや植民地維持に必要な能力も意思もなくなっていたからである。
第三世界の戦争はまず植民者の権力に対する人民の戦い(非植民地化戦争)として始まり,ついで植民地帝国の遺産をめぐる戦い(植民地継承戦争)に受け継がれるのが一般的である。しかし,そこでの戦争は多様である。第三世界の戦争を類型化するならば,第1に,国内反体制戦争がある。これは,進歩的であれ反動的であれ,また他民族のそれであれ,同民族のそれであれ,現政権打倒を目的として領域内部で戦われるものである。非植民地化過程で民族解放戦争(アルジェリア1962)として,また革命戦争(中国1949,キューバ1959,アンゴラ1974)として,あるいはその両面をもつ戦争(ベトナム1975)として戦われる。民族独立や新しい社会体制の確立が目標にされるが,直接の争点は権力の掌握である。そして戦争の形態は基本的にはパルチザン戦争である。ただ指摘しておかねばならないことは,この型の戦争は,戦後世界のイデオロギーの対立を反映して外国勢力の干渉(物資・武器供給と兵士の訓練,軍事顧問や謀略・破壊工作員の派遣,兵站(へいたん)上の支援)や直接的な軍事介入を呼び,しばしば対外戦争に転化するか,あるいは米ソ対立の代理戦争という機能を果たすことがあったということである。戦争の帰趨が世界政治の勢力均衡に直接影響を及ぼすために,戦争は激烈かつ長期になりかねない。
第2は,同じ内戦でも,部族,エスニック・グループ,宗教的グループなどの間で,一定の領域の分離や一定程度の自立化といった限定された目的のために戦われる〈部族戦争〉である(ナイジェリアのイボ族,イラクのクルド族,エチオピアのエリトリア族)。これは地域の固有性を無視した植民地支配の後遺症であり,植民地の独立後に発生している。第3は,領域ないし他の利害のために行われる国境戦争である。1971年のインド・パキスタン戦争はクラウゼウィツ的な意味での古典的形式を帯びた戦争であった。二つの正規軍が衝突し,勝利した側がその政治目的(この場合,争点は領土の征服ではなく,パキスタンの解体=バングラデシュの独立という第2の類型に属するものであるが)を達成したからである。これと対照的なのが数度のイスラエル・アラブ戦争(中東戦争)である。イスラエルは1956年,67年の対アラブ殲滅による軍事的勝利にもかかわらず,その政治目的であるアラブとの和平,すなわち自国の承認を得ることができなかった。それのみかイスラエルはその政治目的と安全保障の軍事的必要との間の矛盾に苦悩する。軍事的安全保障を強化すれば,政治的承認の機会は減ずるからである。さらにこの戦争は正規軍の戦いのみか,パルチザン戦争の側面ももつ。パレスティナ・ゲリラの対イスラエル・テロリズムに対してはイスラエルの秘密機関の対抗テロリズムは酷薄なものとなる。時にそれは皆殺しとなる。いえることは,ここでは戦争が政治目的達成のための手段になっていないことである。1980年に勃発したイラン・イラク戦争もこのカテゴリーの戦争である。だがそれは政治目的の不透明な消耗戦にすぎない。ある意味でそれぞれの国内体制の維持のために対外戦争が利用される典型例かもしれない。古来,支配層は革命を避けるために戦争を選ぶ可能性をつねにもっているからである。
予測しうる限りでの近い将来において,どのような戦争がありうるであろうか。そのことは次の四つの因子の変化にかかっているといえよう。第1に技術革新。これは世界の政治的均衡,経済的交換,勢力関係,国際緊張の分布を変更させる母体である。技術革新はつねに軍事面に適用されるから,戦争の態様を急激に変化させよう。第2に人口-経済学的な不均衡。第三世界と先進工業諸国との経済格差と人口比率差の増大(現在の7対3から9対1への変化の予測)は,国際経済秩序の再調整と国際協調による問題解決が模索されなければ,諸地域内部の紛争はなくならないだろう。第3は核均衡。核抑止システムは不断の核軍備開発競争のなかで破綻の危険をつねに内包している。核戦争のカタストロフィーは,誤解,計算違い,事故,権力者の狂気,核テロリズムの破壊の意思などで生起する可能性がある。第4は戦争を無意味と思う感性の発達。今日,大戦の苦悩を経験したヨーロッパ諸国や日本では,軍事的価値に懐疑的な世代が確実に育っている。それのみか都市型先進工業社会は戦争に対して著しく脆弱(ぜいじやく)になっていることも広く認識されるにいたっている。とはいえ戦争,あるいはその脅威が,もはや国家の政策の有効な手段ではありえないということを確実に示す証拠があるわけでもない。以上の諸条件の発展と変化の方向によってはさまざまの戦争が今後も勃発することは否定できまい。表は世界の未来状況に関する戦争学的仮説を示したものである。
→世界政治
執筆者:高柳 先男
戦争は,一般に国家相互間の武力行使を伴う闘争であるが,従来の国際法上,戦争を成立させる決定的条件として,武力紛争当事国の少なくとも一方による一定の明示的または黙示的開戦行為,つまり戦意の表明が必要とされた(開戦)。したがって,たとえ国家間に武力行使が行われても,戦意の表明がなければ法上のde jure戦争とはみなされなかった。しかし第1次世界大戦後の国際社会において戦争が禁止・制限されると,戦意の表明を基準とする法上の戦争の概念は意義を失い,戦争それ自体が国際法上の制度から排除されるにいたった。
近代国際法は戦争の地位に関して,中世の正戦論を克服し無差別戦争観を採った。17世紀前半のグロティウスはなお正戦論を主張しつつ,他方で〈克服しえない無知ignorantia invincibilis〉に基づくときは交戦国双方が正当性を主張しうる場合のあることを認め,18世紀中葉のバッテルは主権国家が平等,独立で相互に裁判官たりえないことから,主権国家間の戦争は外部的効果に関して等しく合法的であるとみなした。このように交戦国の立場を平等とみなし,国家を超えた判定者が存在しないことを理由に,戦争を一種の決闘とみなす無差別戦争観が確立された。そこでは,国家はその行う戦争の正当原因の有無を問わず国際法の定める手続に従ってさえいれば,すべて合法とみなされた。もっとも,このことはあらゆる戦争を積極的に肯定する趣旨では必ずしもなく,国際関係における自助の手段としてあるいは国際紛争解決のための最後の手段として認めざるをえないとするものであった。このように合法な戦争は平和状態と二者択一される一つの状態として位置づけられ,戦争状態になれば,交戦国間には戦時国際法が,交戦国とそれ以外の国(中立国)の間には中立法規(中立)が当然適用されるものとされた。戦争状態は戦意の表明という形式的条件を満たすことにより発生するが,その形式は慣習法上必ずしも定まっておらず,1907年の〈開戦に関する条約〉は,その形式として,理由を付した開戦宣言の形式または条件付開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭な事前の通告を必要とすると定めた。
このような戦意の表明のない場合は〈戦争にいたらない武力行使〉とみなされ,それへの戦争法適用は要求されなかった。もっとも戦意の表明を基準とする区別は当時の武力闘争の形態にだいたい相応し,戦意の表明のある場合には徹底的かつ継続的な武力闘争が行われ,その表明のない場合には一定の限界のある武力行使にすぎない復仇や干渉の形態がとられた。
以上のように近代国際法の下での戦争は形式的条件が満たされればすべて合法化されたにもかかわらず,第1次世界大戦にいたるまで比較的平穏な状態が保たれたのは,ヨーロッパ諸国の勢力均衡によるところが大きかった。しかしアフリカやアジアの諸地域は,この無差別戦争観の下でヨーロッパ列強により征服され,あるいは植民地化された。とにかく,勢力均衡に支えられた無差別戦争観は第1次世界大戦の勃発により崩壊し,かわって集団安全保障に基づく差別ないし違法戦争観に取って代わられることになった。
戦争は第1次世界大戦以後の基本的国際文書である国際連盟規約,不戦条約,国際連合憲章により従来の法的地位を失い,それ自体違法化されるにいたった。しかしすべての武力行使が禁止されたのではなく,一定の例外的に許されるものも残された。
国際連盟規約(1919)は,連盟国間に国交断絶にいたるおそれのある紛争が発生した場合,紛争を仲裁裁判,司法的解決あるいは連盟理事会による審査に付す義務を負わせ,ただちに戦争に訴えないことを約束させた(連盟国は,裁判判決後または理事会の報告後3ヵ月を経過するまで,戦争に訴えてはならない--戦争モラトリアム)。さらに,(1)判決に服する当事国や,あるいは,(2)理事会の紛争解決のための勧告が紛争当事国代表者を除く連盟理事会全部の同意を得たものであるとき(なお,紛争が総会に移されれば,総会で紛争当事国代表者を除き理事国全部と他の連盟国の過半数の同意を得た勧告の場合も同様),その勧告に従った当事国に対して,他の当事国は戦争に訴えてはならない。これらの約束を無視して戦争に訴えた連盟国は,当然他の連盟国に対して戦争行為をなしたものとみなされ,他のすべての連盟国はこれに対して一定の制裁措置(制裁戦争を含む)をとることが予定された。つまり,戦争の制限は不十分ながら連盟の集団安全保障体制に支えられるものとされた。この戦争制限は,連盟規約では手続上の問題としてとりあげられた。
1924年ジュネーブ議定書(正式には〈国際紛争平和的処理議定書〉)は,国際紛争解決のために戦争に訴えることはもはや許されないとして,侵略戦争一般を禁止したが,諸国の批准が得られず成立しなかった。一定の範疇の戦争そのものを禁止したのは28年の不戦条約(正式名称は〈戦争放棄に関する条約〉)である。この条約は,国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし,締約国相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することを宣言した。ここでいう〈戦争〉の意味は,法上の戦争のみならず,戦意の表明を伴わない事実上のde facto戦争を含むものとみなければならない。しかし,不戦条約の下でも,連盟の制裁として行われる戦争,自衛権に基づく戦争は許されるものとみなされた。この条約の成立により,戦争は現代国際法上もはや法的観念ではなくなり,社会的事実を示すにすぎなくなったとさえいえる。
第2次世界大戦後の国際連合憲章(1945)は,〈すべての加盟国は,その国際関係において,武力による威嚇又は武力の行使を,いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも,また,国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない〉(国連憲章2条4項)という原則をおいた。ここでは,疑問の余地のあった〈戦争〉に代えて,より広い範囲に及ぶ〈武力行使〉という表現が用いられ,さらに初めて〈武力による威嚇〉も禁止された。このように国連憲章体制は,法上の戦争のみならず事実上の戦争をもその呼称のいかんを問わず放逐し,戦争違法化をさらに徹底させたが,そこにおいてもなお次のような一定の武力行使が例外として許容されている。それらは,(1)平和に対する脅威,平和の破壊および侵略行為に対する国連の軍事的強制措置(第7章,とくに42条),(2)個別的または集団的自衛権に基づく武力行使(51条),(3)第2次世界大戦中の旧敵国に対する特別措置としての武力行使(107条,53条1項但書)の場合である。これらのうち,(1)の軍事的強制措置は国連の集団安全保障体制の中核をなすもので,憲章上の国連軍によってとられることが予定されている。しかし,国連軍編成のために提供すべき兵力等についての,安全保障理事会と各加盟国(群)の間の特別協定(43条)がまったく締結されていないため,国連はこの種の強制措置をこれまで一度もとっていない。また,(3)の条項は過渡的なもので,旧敵国(日本,ドイツ等)が国連加盟国になって以後,その適用がなお可能か疑問視されている。(2)の自衛権は,戦後の国際社会で発生した武力行使においてたびたび援用されてきた。51条は,自衛権の発動を攻撃の差し迫った場合にも許容していた以前の自衛権概念よりさらに限定し,〈武力攻撃が発生した場合〉のみその発動を認めるという明確な基準をおいた。また,51条に新たに導入された集団的自衛権とは,自国と連帯関係にある国家に対して武力攻撃が行われた場合,それを自国に対する武力攻撃とみなして反撃のための兵力を行使することを意味し,共同防衛の権利という性質をもつ。
さらに,国際社会における非植民地化の潮流のなかで,植民地や従属地域内人民に向けられた抑圧に対する自決権行使としての人民の反撃,すなわち民族解放闘争を国際武力紛争とみなし,国連体制の下においても例外的に許される武力行使,つまり自衛権の行使として認める傾向が国連の実践において著しい。
以上のような戦争違法化の下で,戦争ないし武力紛争は原理上平等な立場にない侵略国と犠牲国または制裁国(国連軍を含む)の間に行われることになるが,そこにおいても戦争法ないし人道法の平等な適用が認められている。人道法の重要な部分を占める1949年のジュネーブ諸条約(赤十字条約)およびこれらに対する77年追加議定書は,2国以上の国家間に生ずるすべての宣言された戦争またはその他の武力紛争の場合について,当該国の一つが戦争状態を承認するとしないとを問わず,適用される。追加議定書は民族解放闘争にも適用可能である。さらに,これらの文書は,国際的性質を有しない武力紛争,いわゆる内戦にも適用されるべき一定の規定を含んでいる。
他方,無差別戦争観の下で形成・展開されてきた中立制度は,違法戦争観の下では動揺を免れない。国際連盟以来の戦争違法化と集団安全保障体制は,中立制度の中心的要素である交戦国双方に対する公平の原則と矛盾をきたす。連盟体制の下で,連盟国の義務とされた,違約国に対する非軍事的措置は中立法規の枠内でとりがたいものであったが,連盟国が戦争に参加しない場合などにおいて,中立の地位は妥当しえた。ところが,第2次世界大戦において,アメリカは参戦前に連合国側へ援助を行い,この態度を中立関係にかわる〈非交戦状態〉と称した。国連体制は連盟以上に中立制度と両立しがたい。軍事的強制措置の場合はいうに及ばず,非軍事的強制措置も公平を要素とする中立と相入れない。なお,自衛権行使による武力紛争において,安全保障理事会が侵略行為の認定または強制措置の決定を行わない場合,あるいはかかる決定が行われるまでの間,第三国は中立法規の適用を強要されないが,国連憲章に反しない限り,それを適用するのは自由である。
→戦時規約 →戦争犯罪
執筆者:藤田 久一
人類の歴史にあって,戦争の形態と戦争観は,一方では政治と社会の構造や民族の風習によって,他方では技術の段階によって規定される。さらに道徳や思想が推進あるいは制限して,複雑さを増す。文明のあり方とその特徴そのものが,戦争に映し出されるといえるかもしれない。以下に文化人類学よりみた戦争,そしてヨーロッパ,中国,アラブ・イスラム世界の戦争形態と戦争観について記述する。もとより日本においても古代より戦いはあり,社会発展に応じて戦争の形態と戦争観の展開をみた。近代以前の日本の戦争は,武士の登場をまってはっきりとその文明史的特徴があらわれるといえる。日本史では,それは〈合戦〉と呼ばれてきた。前近代の日本の戦争については〈合戦〉の項目を参照されたい。
戦争が存在する理由についてはいくつかの説がある。
戦争は人類が生得的にもつ攻撃性に基づくものであるという動物行動学者の説があるが,攻撃性がいかなる形をとって現れるかは,それぞれの文化において異なっており,その文化の構造,価値体系などによって規定され,戦争は多くの可能性の一つにしかすぎない。戦争が攻撃性と直接結びつくものならば,すべての民族は戦争を行うはずであるが,実は,マレー半島のセマン族や,フエゴ島のヤーガン族などのように戦争を行わない民族もあるし,また江戸時代の琉球王国のように武力ももたず戦争もしない王国も存在する。また多くの文化,ことに高度に発達した文化においては,戦争を行う決定を下す者と,実際に戦場で戦う者とは別であり,戦争の決定はたんなる攻撃性によるものでなく,冷静な計算に基づくものであることが多い。
次に戦争の機能主義的説明では,戦争は社会内部の結束を固め,社会内の緊張の心理的はけ口をつくり出し,また退屈な日常生活に変化を与えるという,戦争のもつプラスの面を過大に評価する傾向があって,一面的である。
戦争の生態学的解釈は,戦争は人口,技術,資源,自然環境からなる大きな生態学的体系の一部をなし,これら諸要因がうまく作動するような均衡状態をつくり出すメカニズムだと考える。たとえば,人口圧,適当な栄養の確保の必要がきっかけとなって,戦争,女児殺し,男子優越観が生じ,その結果,人口と資源との間に均衡状態が生じるという。このような説の欠点は,人口圧とかタンパク質の不足などの重要な点について,客観的な基準がないため,説としてはおもしろいが,証明されていないことである。
一般的にいって,文化と社会の複雑度が増すにつれて,戦争もより複雑になり,規模も大きくなる傾向がある。
採集狩猟文化では,戦争はあまり盛んでなく,戦争のない民族も少なくない。その理由は,集団の人口も少ないために大部隊を結集することができないし,また平等主義的な社会原理のため,有効な命令指揮体系が樹立できないこと,敵対する集団間の地理的距離がしばしば遠く隔たっているために,未発達な交通手段では兵員,兵糧の運送に問題があること,さらに採集狩猟民では一般に,外敵から守るべき自己の領域という観念が未発達なことや,多くの場合戦闘を賛美する価値体系がないことなどを挙げることができる。しかし採集狩猟民でも,人口が多いものなど,上の要因に変化が生じた場合,また農耕民などの優勢な他民族の侵入によって生活の基盤が脅かされたときなどは,戦争が盛んになることもある。北アメリカの平原インディアンが戦闘的な採集狩猟民となったのも,騎馬の習俗を白人から受容し,大規模な野牛狩猟が始まり,同時に白人の進出も始まったころからである。
未開農耕民では戦争は採集狩猟民よりも盛んになる。しかし,敵を攻撃して戦利品をとってくることに重点のあることが多く,土地の獲得はそれ自体が目的ではなく,攻撃の結果,ことに集落を焼き払ったりした場合,移動した敵が残した居住地や耕作地に進出するというように,結果としての領域拡大が普通である。未開農耕民の戦争には,まるで西洋中世の騎士のトーナメント(馬上槍試合)のような儀礼的な,それほど死傷者を出さない形式のものと,非儀礼的なものがある。後者は策略によって相手を欺き,多くの死傷者を出し,かつ経済的利益の大きいものである。ニューギニア高地のダニ族のように同一民族においても,戦争が儀礼的な段階から非儀礼的な段階に移行することがある。
次に国家をつくるような複雑な社会の段階になると,戦争はいっそう複雑な様相をもち,かつ体系化してくる。軍隊や専門的戦士集団の形成がみられ,戦闘も戦場における会戦が発達し,かつ,まず弓矢などの遠隔武器で戦ってから刀や槍のような近接武器による白兵戦に移る形式をとるようになる。戦争の目的も領土拡大を狙ったものがだんだん重要になってくる。
生活様式の相違,文化段階の違いをこえて,汎人類的にみられる現象は,同類として意識されている集団間の戦争には大なり小なり規律があるが,異類と思われている敵との戦いは仮借なきものとなる傾向である。たとえばニューギニア高地のジェレ渓谷でも,同類の敵を殺したときにはその肉を食べないが,異類の敵を殺したときには食べるのである。
執筆者:大林 太良
巨視的に見て,ヨーロッパ世界での戦争の様相が大きく変化する時期として,14~15世紀の百年戦争,18世紀末から19世紀初めのナポレオン戦争,そして20世紀の第1次世界大戦をあげることができるであろう。
ギリシアでは初め貴族からなる騎兵や戦車兵が勝敗の鍵を握っていたが,民主政治の成立と並行して一般市民からなる重装歩兵戦術が主力としての地位を確立する。3回にわたったペルシア戦争(前492,前490,後480)で歩兵密集戦列の優位が確証され,この戦法は決戦の基本的な型としてローマに受け継がれ,かつ大規模に組織された。ローマの戦争は基本的に正規軍による多種多様な諸民族軍との戦いであった。三重の横隊に密集して戦列をつくり,敵に近接するとまず槍を投げ,次いで剣で戦った。戦闘直前に指揮者が巡視して士気を鼓舞したようすは,カエサルの《ガリア戦記》にもうかがわれる。騎兵は偵察や追撃に使用された。軍団は騎兵300と10大隊で構成され,完全編制で約6000の兵力となる。第1次ポエニ戦争(前264-前241)以後軍船も備えたが,主力はあくまでも規格化された作戦を行う陸軍であった。
帝政末期,正規軍は少なくとも理論上60万に達し,その大半を辺境軍として防衛線上の都市や砦(とりで)に配置していた。これに対しゲルマン諸部族の兵力は1万ないし3万の域を出なかったと推定される。ゲルマン人の民族移動の時期には,アルゲントラトゥム(現,ストラスブール)の戦(357)その他わずかな例外は別として,大会戦や長期攻囲戦が少ない。ローマ軍が機動力を失ったうえに内部崩壊したからである。
ゲルマン諸王国の中にはローマ帝国軍事制度の残片を採用したものもあるが,ゲルマン的戦法と戦争観が支配的であった。ルイ(戦いの誉れ),リチャード(強力豪胆),ウィリアム(意志と兜)など,人名にも武勇や武器を意味するものが多く,戦闘を日常視する気風も出現している。戦争は神明裁判の一種,勝敗は神の裁きと考えられ,勝利に対する異議を封ずるために決戦後1昼夜ないし3日間戦場を確保する風習があった。この観念は一部には永続したらしく,1322年バイエルン公ルートウィヒはミュルドルフの戦勝後ただちに戦場を離脱したため戦争の作法を知らぬ者と非難されている。敗者の処分は当然のこととされ,539年フランク王テオデベルト1世がランゴバルド族を撃破した時には婦女子までポー川に投じた。フェラーラが占拠された時,司教インゲニウスが介入交渉した例のように,身代金による捕虜の救済にはキリスト教の影響が大きい。トゥール・ポアティエの戦(732)で地歩を確立したカロリング家の支配下では,少なくともキリスト教徒間の戦いでは残虐行為が減少している。同朝の権力が,キリスト教世界の防衛と秩序の維持の原理に立脚したからである。同時に,ザクセン族に対する戦争(772-804)のように伝道と征服が一体化して聖戦の観念が現れる。
9世紀に鐙(あぶみ)が一般化する。ついで10世紀に蹄鉄が普及した。これによって騎手は馬上に固定され,長槍を水平に構えて突進する衝突戦が可能となった。ドイツ王オットー1世がマジャール人の侵入を迎え撃ったレヒフェルトの戦(955)では,東方遊牧民騎馬隊に対抗できるだけの騎兵をすでに西欧側は備えていた。ノルマン・コンクエストに際しヘースティングズの戦(1066)で,ノルマン騎士軍がそれまで伝統的歩兵戦を固守していたアングロ・サクソン軍を蹂躙(じゆうりん)し,中世的戦法を確立する。騎士だけが完全戦闘員とみなされ,彼らが封建制度の約定に従って知行地の代償として一定期間主君のために出役し,こうして典型的な封建軍が編成された。ただし騎馬隊の正面衝突による大会戦は12~13世紀を通じて比較的少ない。恒常的に繰り返されたのは領主間の小規模な局地戦で,敵領の劫掠(ごうりやく)に重きをおき,ことさら決戦を回避する傾向が目立っている。歩兵は二次的な兵力とされたが,12世紀に発明された弩(いしゆみ)crossbowはもっぱら彼らの操作するところであった。これは当時もっとも殺傷効果の高い武器で,ラテラノ公会議(1139)はキリスト教徒に対する使用を禁じている。
テルトゥリアヌスやオリゲネスら初期の教父は全面的に戦争を否定したが,キリスト教が国家社会全体に受容され世俗権力の責任を強調する過程で,個人的暴力と適法の戦争を区別する方向に向かう。アウグスティヌスは,君主によって宣布され秩序と平和の維持を目的とする場合に限って戦争を承認した。聖職者の封建化とともに戦争参加の現象が生じ,9世紀末フランク王国分裂抗争のなかで戦死した司教は10名を超えている。他方,流血を嫌う感覚が教会の伝統のなかから消失したわけではない。ノルマン・コンクエストは,もともと教皇庁の支援の下に開始された事業であったにもかかわらず,1070年の教会会議は勝利者に悔悛(かいしゆん)を命じた。神の平和,神の休戦等の運動も教会の指導するところで,非戦闘員,非戦闘地区,非戦闘時間の観念を創出して戦争を限定しようとした。13世紀のスコラ学の戦争観においては,適法性の要件は,(1)当事者が俗人たること,(2)目的が防衛であること,(3)他に解決手段がないこと,(4)憎悪や嗜虐等邪悪な意図を抱かぬこと,(5)君主の命ずる公の戦争たること,であった。すべての実際行動がこの種の思想によって規制されたわけではないが,14~15世紀の君主たちは,きわめて政略的な戦争を開始するに当たって,少なくとも開戦の名分に執着するようになり,当時の軍学書も適法性の検認を戦争準備の一つに数えている。
クールトレーの戦(1302)でフランドル歩兵がフランス王の騎士軍を撃破した。これ以後,歩兵軍の勝利が散見されるようになり,明らかに状況の変化が生じた。14~15世紀,とくに百年戦争(1339-1453)を通じて武器,戦術,兵員構成に変革が進展し,戦争の様相は一変した。黒色火薬の製法は13世紀にはすでに知られていたが,武器への応用は14世紀の1320年前後を試用段階,40年代を実用段階の開始とみることができる。当初は攻城機械の延長線上で利用されたため15世紀初め競って巨砲が鋳造されたが,同世紀半ばからは目的に応じて大小の種類分化が始まる。堡塁破壊だけでなく直接殺傷を意図しはじめたからで,小銃の登場と時期を同じくしている。やがて16世紀の1520年代にいたって口径の標準化が実現し,60年代にフランス王軍の弓隊が銃隊に改編される。砲の船舶搭載は海戦を戦争の重要な局面たらしめた。歩兵の威力に対抗して14世紀初めから騎士の防具が発達し乗馬も装甲され,17世紀初めまでの重甲時代を現出した。騎士も衝突戦を捨て,突撃後は下馬して戦うことをも厭(いと)わなくなった。歩兵は密集隊形を保持する時にもっとも強かったが,進出や移動に際して弱点を露呈したので,騎士はクールトレーの戦以後も無用化したのではない。戦闘を開始し,仕上げをする役は依然騎兵のものであった。1470年代には隊旗,隊伍,制服の強調がみられる。団体戦原理の確立である。以後,歩兵,騎兵,砲隊をいかに結合配置するかが作戦の要諦(ようてい)となり,当然重点は攻城戦から野戦に移っていく。
封建的な軍隊は統制が難しかったため,早くから傭兵が使用されたが,その大規模な登場は百年戦争中であった。彼らは100人未満の小集団をなし隊長の固い統率下にあり,合戦ごとに傭われた。職業的戦闘員という点は後の常備軍志願兵と共通しているが,集団単位で契約すること,短期契約であることが違っている。雇用外の時には略奪集団に転じ,治安に大害を及ぼした。フランスの場合,1445年傭兵中の優秀な者を選んで勅令中隊が編成される。重甲騎兵1名に同じく騎乗の弓矢やサーベル兵若干名を配した槍隊を単位とし,100槍隊をもって中隊を編成した。平時も兵営に起居する常備軍であり,典型的な絶対王政軍の出発である。こうして戦争を行う権限は国王に独占されていくが,高価な軍隊の損耗を恐れたため絶対王政時代の戦争には徹底的な殲滅戦(せんめつせん)が少ない。
職業軍人によらない国民軍の形成には,国によってはなはだしい差がある。フランスでは農民に特権を与えて出役させる免税弓兵の制が試みられた(1445)が定着しなかった。これに対してもっとも早いのがイギリスで,すでに百年戦争中に長弓を携えた民兵が活躍している。市民革命の過程で,O.クロムウェルの新式軍やアメリカ独立戦争の志願兵,さらにフランス革命の国民衛兵のように,先鋭な階級性をもつ軍隊が登場し,近代軍の成立推進の契機をなした。一挙に近代戦を現出させたのは,徴兵制による大兵力と大量の火器を動員したナポレオン戦争(1793-1815)であった。この段階で,火器に対する散兵戦法や徹底的な追撃殲滅戦が可能となる。同時に補給組織が戦争推進に決定的な重要性をもつようになったが,そのことはロシア遠征の失敗がよく示している。ナポレオンが創始した近代戦術や戦争観は,やがてクラウゼウィツが《戦争論》(1832-34)で理論化した。鋼鉄艦の登場(南北戦争1861-65),機関銃の使用(日露戦争1904-05)等,兵器の高性能化と戦争の大規模化に伴い,勝敗の鍵は経済力,とくに工業生産力に依存し,総力戦の形をとるようになる。第1次世界大戦(1914-18)は本質的にイギリスとドイツの経済力競合に端を発し,アメリカ合衆国の参戦で協商側の工業力が同盟側を圧倒して決着した。この時内燃機関が兵器に応用され,戦車,航空機,潜水艦によって作戦は立体化した。第2次世界大戦(1939-45)では航空機と電波兵器が圧倒的な役割を演じたうえ,核兵器の登場をもって終結し,人類史上空前の破壊と殺傷を現出した。
執筆者:渡邊 昌美
古代中国では,初め150ばかりあった国々が春秋時代(前722-前481)の間に22に減少し,さらに前5世紀末ともなれば,いわゆる戦国七雄に併合され,最後にその中の秦が他の6国をしだいに征服して,前221年に全中国の統一を果たすという経過をたどった。それは,周王朝の衰退をも含めて,すべての諸侯国に通ずる巨大な社会変動の進行を背景にして起こった現象であるが,結局は弱肉強食のあげく,最後に富国強兵にもっとも成功した秦がはてしない戦争に生き残った過程にほかならない。
この約500年間には戦争形態も社会変動に応じて変化し,初めは各国の支配氏族の青年男子(〈士〉という)が戦車を駆使して敵国の戦車と戦う貴族の戦士どうしの車戦から,北方遊牧民族の影響による騎馬戦の導入と,一般庶民を大量に歩兵として参加させ,むしろ歩兵を中心とする集団戦争に移行する。兵器もまた青銅製から鉄製に進むことによって大量使用が可能となる一方,弩(いしゆみ)のような強力な武器の発明や,攻城あるいは防御のための種々の兵器が開発されて,戦争による被害の規模も拡大していった。春秋時代からしばしば行われる諸国間の使節派遣や会盟,会盟によって取り決められる国際協定や,その交渉を通じて確立されていく国際慣行や外交儀礼などは,それを遵守し尊重することによって無用な戦争を回避し減少させる効果があったし,また戦争において活躍する武将よりも,教養を備え,洗練されたマナーをもって外交交渉に長じた政治家や弁論家(やがて蘇秦,張儀などの縦横家と呼ばれる人々)の地位を高めることになった。また《孫子》や《呉子》などの兵家の書(兵書)においても,兵法の極意は戦いに勝つことよりも,戦わずして勝つことの探究にありとし,戦術よりも戦略を重視する傾向があった。それは単なる戦術家をこえて,より広い視野から駆引きのできる政治家的資質を要求する。
戦国時代に芽生えた官僚制が秦・漢時代に最初の完成形態に達すると,漢の高祖が,戦場を馳駆(ちく)して百戦百勝の戦果をあげた韓信よりも,後方にいて物資の調達輸送を円滑に行い,後顧の憂いなからしめた蕭何(しようか)を帝国創建の第一の功臣と評価したような方向に進み,国軍総司令としての司馬または太尉は,最高の文官である丞相または司徒の下位に順序づけられる。この傾向は武帝による儒教の国教化によっていっそう明確となり,関羽,張飛のような武将が活躍した次の六朝400年の分裂時代にも,文官官僚層はついに武士階級の形成を許さず,文官優位の方向は,次の科挙制の時代に入って進士の重視が定着した結果,さらに決定的となった。
かくて中国では軍隊に対するシビリアン・コントロールはだいたい一貫して,というよりむしろ歴史の進行につれてますます強く,維持されたといってよく,民衆の間にも兵士になるものは人間のくずだとする認識が広がっていった。その意味で中国は本来,平和的防衛的姿勢をとる文明国だといってよいだろう。
執筆者:川勝 義雄
622年,イスラムの預言者ムハンマドは生れ故郷メッカからメディナという町に移住(ヒジュラ)した。コーランに見える表現によれば,彼はこの移住を〈アッラーの道へ移住し戦うこと〉ととらえていた。すなわち,親子,兄弟,親類,その他すべての血縁関係を断ち切り,アッラーの道のためならたとえ親を相手にしても戦うことの決意であった。610年ごろから預言者としてメッカで活動していたムハンマドには,戦う姿勢はなかったが,この移住を契機にムハンマドと彼の支持者は戦う集団となった。後世,多数のムハンマドの《戦記》が著されたが,その代表的なものであるワーキディーの《戦記》は,ムハンマドが直接,間接に指揮した大小76回の戦いについて詳述している。その戦いのうち初期に属するバドルの戦やウフドの戦の相手はメッカの人々で,文字どおりムハンマドと彼の支持者の親,子,兄弟であった。
大小の戦いを,メッカ相手に,メディナの周辺の住民相手に,またメディナ内部の反対派を相手に勝ち抜いたムハンマドは,メディナをイスラム教徒だけの一つの社会にまとめあげ,さらに全アラビア半島の住民に呼びかけて大軍を組織し,シリアに遠征するまでになる。彼の死後,彼の遺志を継いだカリフたちは,ビザンティン帝国と戦ってシリア,エジプト,北アフリカを征服し,またササン朝ペルシアを滅ぼして,イラク,イラン,中央アジアにまたがるその広大な領土を征服した。これらの戦いに従事したイスラム教徒の戦士たちは征服地のあちこちに設けられた軍営都市(ミスル)に住み俸給を与えられ,他方,被征服地の住民は,貢税を条件に信仰の保持や土地の保有を認められた。したがってイスラムの征服は,かつて〈コーランか剣か〉という言葉で語られてきたような改宗を強制するものではなかった。
ムハンマドの時代,初期カリフたちの時代のこれらの戦いでは,戦術面で目だった特色はない。砂漠,荒野をラクダを利用して移動し,不揃いの思い思いの武器を持った個々の戦士の武勇に頼る白兵戦を得意とし,騎馬隊による不意の突撃をみせるのがイスラム教徒の軍であった。この軍がローマ帝国の伝統を受け継ぐビザンティン帝国の正規軍や,戦象と重装備の騎馬隊を備えたペルシア軍を破ったのである。
後世に確立したイスラム法は,このような戦争をジハードとして合法化した。法理論のうえでは,世界はイスラム教徒が主権者である〈イスラム世界(ダール・アルイスラーム)〉と異教徒が主権者である〈戦争世界(ダール・アルハルブdar al-ḥarb)〉に分かれている。その戦争世界をイスラム世界に引き寄せるための戦いがジハードであるとする。ムハンマドが相手をしたメッカの住民も,カリフたちが相手をしたビザンティン帝国の皇帝などもみな戦争世界の住民であり,またその支配者であった。ジハードはイスラム教徒の,またその社会全体の重要な義務とされ,ジハードでの戦死者は殉教者(シャヒードshahīd)として天国が約束された。
不義とみなされたイスラム世界内部の支配者に対する一般のイスラム教徒のとるべき態度については,微妙な議論が法理論のうえで展開されているが,不義の支配者に対する戦いもジハードとみなす考えも強い。イスラム法の確立した9世紀以後の,イスラム教徒が関与した戦争の大部分は,当事者の一方か双方によって法に基づくジハードとされてきた。したがって9世紀以後では,イスラム教徒の戦士の多くはアラブではなく,トルコ人やベルベルであったりしたが,ジハード意識は一貫していたといえる。
→軍制 →軍隊 →武器
執筆者:後藤 晃
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
戦争を、その実質的意味で定義すれば、政治集団の間、とくに主権国家の間で、相当の期間継続して相当の規模で行われる軍事力の行使を中心とする全面的闘争状態ということになろう。プロイセンの戦略家クラウゼウィッツが、「戦争は、政治関係の継続たるにとどまらず、他の手段による政治の実現である」と規定したように、戦争は高度に政治的な現象であり、その点では、戦争と他の闘争形態――外交、経済的圧力、宣伝、干渉、武力による威嚇、小規模の武力行使など――との差異は相対的であるが、より全面的かつ包括的な闘争関係である点で区別することができる。他方で、戦争をその形式的=法的意味で定義すれば、当事者の戦争開始の意思表示から、合意または一方的征服による戦争終結まで継続する特殊な国際法的状態ということになろう。この意味での戦争は、現実の武力行使が伴われなくても、あるいは武力の行使が全面的に終結したあとでも、なお存在することができる。実質的意味での戦争と形式的意味での戦争は、これまでだいたい一致してきた。しかし、最近では形式的意味での戦争の概念の実際上の機能はしだいに失われつつある。
[石本泰雄]
オリゲネスやテルトゥリアヌスに代表される初期のキリスト教の教父たちは、およそキリスト教徒たる者が、武器をとり、戦争や軍事的役務に参加することは許されないものと考えている。戦争という殺害行為が理由のいかんを問わず排斥されたのは、当然の帰結であったろう。しかし、キリスト教が現実とかかわる限り、素朴な非戦論が凋落(ちょうらく)するのも必然的であった。現実に生起する戦争を前にして、現実適応的な「正戦論」――すなわち、正当な戦争ならば許容されるという「理論」――が支配するようになったのは当然である。正戦論は、古くはアリストテレスにも漠然とした形で現れ、キケロになるとかなり明確な形をとっているが、しかしいっそう体系化されたのは中世におけるアウグスティヌス、イシドールス、トマス・アクィナスたちによってであった。トマスは、戦争が正当であるためには、第一にそれが君主の命令によって行われること、第二にそれが正当原因に基づいて行われること、そして第三にそれが正当な意図によって行われること、が必要であると説いた。これがいわゆる神学的正戦論の核心である。しかし、そこでは、戦争を2国間の関係として把握する視点が欠落し、もっぱら一方の君主の行為として把握されている。実際に、神学的正戦論は世俗的君主による戦争の精神的=宗教的正当化の役割を担い、君主にとっての聴罪師的機能を果たしたといわれている。
近世初頭に位置する神学者・法学者はもとより、それに続く17、18世紀の「国際法学の英雄時代」に属する学者たち――ビトリア、スアレス、グロティウスなど――も、中世的正戦論の影響を強く受けた。しかし、正戦論は当時のヨーロッパの国家間戦争において、しだいに現実適応性を失っていった。第一に、交戦国相互間では、戦争遂行のための一定のルール(交戦法規)が成熟してきたが、そのルールは正・不正の区別なく、双方の交戦国に無差別に適用された。第二に、交戦国と第三国との関係では、第三国国民による対敵通商を最大限に許容する中立法規が成熟してきたが、いうまでもなく「中立」の維持のためには交戦国の双方に対する公平性の維持が不可欠の前提であった。そのいずれの点においても、戦時国際法は正戦論からは切り離されている。こうして、18世紀に入って、ボルフ、バッテル、モーゼルなど、正戦論の現実適応性を疑う法学者が相次いで現れたのは当然である。ついに19世紀には、戦争原因のいかんにかかわらず、無差別に戦争を許容する「無差別戦争観」が支配的となっていった。
[石本泰雄]
「無差別戦争観」は20世紀に入って国際条約によって動揺するに至った。国際連盟規約は、重大な紛争はすべて連盟機関または国際裁判に付託することを義務づけ、連盟機関の勧告や国際裁判所の判決に服する国に対して戦争に訴えることを禁止した(第13条4、第15条6)。1928年に64か国によって署名された不戦条約は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを禁止し、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを宣言した。国際連合憲章は加盟国および国連の行動原則として、「国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と規定している(第2条4)。このように今日では一般的な条約によってすくなくとも攻撃戦争は違法化されているのであるが、それだけではなく普遍的な慣習法でも戦争の違法性は確立しているといわねばならない。もっとも、最近では、かつて力の支配によって構築された植民地体制や、人種差別体制への抵抗と解放のための戦争の正当性が認められるに至っている。
[石本泰雄]
戦争の政治的・社会的性格は時代とともに変化する。戦争がその時代の国際社会ないし国内社会の政治的・社会的構造を反映しているからである。
戦争は、組織化された集団間の武力による流血的な闘争であるが、その武力は、武器弾薬等の物的要素と戦闘兵員等の人的要素で構成されている。武器弾薬等の量的・質的(軍事技術的)要素は経済的生産の所産であり、戦闘兵員等の人的要素の量・質の問題も、終局的には、経済的条件およびそれによって規定される政治的・文化的条件に依存している。こうして、戦争の性格は変化してきた。
[林 茂夫]
原始社会では、戦争とよばれる事態がなかったことを多くの記録は明らかにしている。もっとも好戦的な種族でも数人が殺傷されれば、それで終結という程度のものであった。戦争が人類社会に現れたのは、私有財産の発生、奴隷制度の成立以後である。戦争は富を蓄積するために必要な手段となり、戦争のための組織が社会的に重要な機能となった。
ユーラシア大陸の東西両端部(中国・東南アジア、ヨーロッパ)の農耕地帯に形成された農耕民族社会では、都市国家、大小の王国、それらを征服支配した諸帝国が興亡した。同大陸の中央部(北・中央・西アジア、南部ロシア)の草原地帯に形成された遊牧民族社会では、当初オアシス地域を中心にオアシス都市国家が発達した。オアシスから分離した遊牧民の社会的・政治的単位は小さなものにすぎなかったが、騎馬の発明はそれを飛躍的に拡大することを可能にし、氏・部族や部族連合体の遊牧国家、それらを服属・帰属させた支配氏族を中核とする氏・部族連合国家が形成された。その結果、広大な草原地帯において、隊商交易を中心に商工業の発達したオアシス都市をバックにしたオアシス勢力(ペルシア、サラセンなど)と、良好な牧地と略奪の獲物を求めて移動する草原勢力(匈奴(きょうど)、突厥(とっけつ)、モンゴルなど)とが覇を争い、それぞれの大小王国、諸帝国が古代、中世にわたって興亡の歴史を繰り返した。
土地と奴隷の私的所有のうえにたっていた古代奴隷制社会では、都市国家間(ペロポネソス戦争)、大小国家間の戦争(ポエニ戦争、ペルシア戦争)も、それらを征服支配した諸帝国間の戦争(ローマ対ペルシア、ペルシア対匈奴、匈奴対秦(しん)・漢)も、すべて奴隷所有者階級が土地・奴隷・貢納の獲得のために行った征服と略奪の戦争であった。戦争捕虜や住民の一部は奴隷にされ、「ものいう道具」として、農場や牧場、鉱山、小規模の工場で酷使された。征服された領土の最良の土地・財産・鉱山などは没収され、恩賞として将軍に与えられたり、政治家や金融資本家に貸与された。遊牧民族の場合は領土占領には執着せず、財宝・奴隷・貢納獲得の戦争目的が達成されれば引き揚げ、人質をとるなどして間接統治を敷いた。
[林 茂夫]
封建制社会になると、土地の授与と引き換えに主従関係で結ばれた封建領主と武士(騎士)が支配的社会集団となり、武士に土地ごと支配された農民は武装解除されて農奴にされた。封建領主階層は、上は一王国の君主から下は一地方の小領主に至るまでヒエラルキーを形成した。農奴は戦士ではなく、領主の与える軍事的保護のため封建的な貢納賦役を負担した。領主・武士階級を養った人口全体と比べれば、彼らの兵力は小規模であった。
封建権力の基礎は国王も領主もその直領地にあったから、領主階層は領地を拡張し、各種の収益源の獲得のために、相互に絶えず戦争を行った。だが、その実態は小規模なもので、王国間の総力をあげての対決は少なかった。被征服者の生き残り武士の一部は征服者の家臣となり、征服者は土地と家臣、また収入源となる地位や権利を獲得した。弱小領主は国王または有力な領主の保護を受けねばならなかった。農業生産の向上、商業の復活と発達の結果生まれた中世の都市も、攻撃される危険から保護を求めた。こうして大領主は広大な領地を形成し、しばしば国王と戦うようになった。
主従関係を政治の組織とする封建制度に大きな変化をもたらしたのは、交換貨幣経済の発達と都市市民階級の増大する経済力であり、それと結合した国王の権力の拡大であった。都市の財政的支援は国王による傭兵(ようへい)部隊の大量使用を可能にし、戦争は、初期の略奪を主とした小規模な戦争と違い、敵集団の撃滅を目ざす大規模な戦争に変わった。王権の拡大を目ざす戦争になったのである(百年戦争、ばら戦争)。
封建制度はヨーロッパ、日本で典型的に発達したが、インドやイランには存在せず、しいていえば、それに似た分権制があったにすぎない。古代中国の封建時代(前12~前3世紀)は、中世の封建とは違うとされており、それも秦(しん)の統一によって廃止された。秦・漢帝国の制度は封建と郡県制(帝国制)を折衷した制度で、以後、清(しん)朝までほとんど変わらずに続いた。
[林 茂夫]
封建制末期にヨーロッパでは絶対王制が成立した。封建制社会から資本主義社会への過渡期に生まれた絶対王制は、没落しつつある封建的特権貴族と興隆しつつある地主的・問屋的商業ブルジョアジーとの均衡状態のなかで、国王はそのいずれにも制約されない絶対権力をもっていた。権力の基盤は中央集権的官僚制度と常備軍であり、その財源は地代収入だけでなく、商工業の発達に伴う消費税・関税収入に依存していた。
国家の富と力を増やすため、国家権力によって経済全般に保護育成策がとられ、なかでも力が入れられたのは、商業ブルジョアジーの南北アメリカ、アフリカ、アジアでの植民地獲得と経営、および植民地貿易に対する保護とその促進であった。そのため各国間では、世界貿易や植民活動の主導権をかけた長期にわたる戦いが行われた。これが、陸の常備軍保持よりはるかに金のかかる専門の海軍が創建された背景である。海軍の任務は自国の植民地貿易を保護し、競争相手国の貿易活動を封鎖・制約することであった。
この時期の戦争は王権拡大のための戦争であり、絶対君主とその所有物の軍隊だけの関心事であった。一般市民の役割は税を払うことであり、戦争への参加は要求されなかった。戦争は、ヨーロッパ大陸では、各国が同盟もしくは敵対しながら、王権の権威と領土拡大あるいは拡大阻止のために行われた(スペイン継承戦争)。常備軍は国王の権威の象徴であり、かつ貴重な政治的財産だったから、戦争は領土の一部割譲程度で和議となり、大規模化したとはいえ、できるだけ兵力の損耗を避けるよう、いわばゲーム的に行われた。しかし海外では様相が異なり、戦争は富の源泉であるとして容赦なく展開された。それは各国間での植民地争奪戦、植民地貿易の略奪戦であり、貿易独占のための海域支配をめぐる海戦であった(イギリス・オランダ戦争)。
[林 茂夫]
一連の市民革命、なかでもフランス革命がフランスおよび全ヨーロッパに引き起こした政治の変化によって、戦争はこれまでの封建諸侯、絶対君主の戦争とは根本的に性格の異なる、国家的統一と国民的(民族的)独立を目ざす新しい国民戦争となった。国家は君主の世襲財産ではなくなり、国民のもの、守るに値するものとなった。軍事力は兵員も軍事費も国民が負担する国民的軍隊となり、戦争はナショナリズムに裏づけられた国民のエネルギーと経済力を活用できるものに変わった。
フランス革命戦争は、理念的には革命フランスの防衛と封建的専制に苦しむ外国民衆の解放戦争であり、イギリスと結んだ大陸の旧体制勢力とフランス主導下の大陸の新体制要求勢力との、いわば戦争の形をとった国際的な階級闘争でもあった。だが同時に現実的には、支配地・市場の拡大という点で、新興フランス資本主義の政治・経済上の侵略的な性格をあわせもっていた。引き続くナポレオン戦争は、ヨーロッパ市場確保を目ざすフランス資本主義と、それを阻止せんとする先進イギリス資本主義および大陸の旧体制保全勢力との戦争であった。
市民革命と産業革命、それによる資本主義経済の急速な発達がもたらした政治的、社会的、経済的、科学的な変化に対応して、新しい戦争の手段、戦争のための組織が生み出され、かつ飛躍的に発達した結果、戦争は激烈なものとなった。
国民を一つに結び付けていた国民国家、国民戦争の理念、目標は、各国で統一的な独立国民国家が実現し、経済を握るブルジョアジーが政治的、社会的に力を増して国家の支配勢力となるにしたがい消滅した。かわって、一方では国家支配が強まり、海外市場拡大のための後進国の植民地・半植民地化を目ざす植民地戦争(アヘン戦争)、さらに他国の植民地争奪戦争(ブーア戦争)が激化した。他方、これに対応して、国家権力の争奪を目ざす革命や内戦(南北戦争、太平天国の乱)、民族独立を目ざす反乱(セポイの反乱)や独立戦争が現実化してきた。
[林 茂夫]
資本主義の最高の発展段階の帝国主義時代になると、列強資本主義国によって世界の植民地分割は完了し、直接の軍事手段による以外、新たな経済的拡大は不可能となった。植民地再分割戦争の開始である。植民地再分割戦争は、植民地での民族独立戦争を引き起こしたが、それを利用した勝者は戦争終了後それを鎮圧した(アメリカ・スペイン戦争におけるキューバ、フィリピンの独立戦争など)。第一次世界大戦は、こうした武力的な帝国主義的膨張政策の総決算として起きた。それは植民地再分割のための、植民地争奪と世界支配をめぐる戦争であった。
戦争の歴史のなかで、第一次世界大戦はこれまでの戦争と異なり、二つの点で特記すべき性格をもっていた。第二次世界大戦はそれをさらに徹底させたものであった。
第一に、戦争の規模、内容、目的などの点で無制限な全面戦争であり、クラウゼウィッツの「絶対戦争」的様相を呈した。(1)史上未曽有(みぞう)の規模 戦争の地理的範囲、兵力動員数と戦死傷者数、市民の死傷者数、経済・財政の損失は史上未曽有。兵士数が動員可能な成年男子数に近づいた。第一次大戦と比べ第二次大戦は、戦死者2倍、市民の死者4~5倍、経済・財政の損失約5倍である。これらは戦争手段の画期的発達とも関連した。(2)国力の総動員 軍隊とそれへの補給にとどまらず、それらを支える国家の全体的、総合的な能力の総動員。使用される軍需品の量がその国の工業力の最大限の生産量に等しくなった。(3)戦争のイデオロギー化 聖戦イデオロギーの登場と戦争遂行のためのいっさいの政治的、精神的な機関・組織の動員。第二次大戦はまさにファシズム対反ファシズム(自由・民主主義・民族独立)の戦いであった。(4)国の存亡をかける 従来のような軍事戦略は全国家的戦争の一つの部門にすぎなくなり、勝敗は全工業力と戦争努力が要求する負担に耐え忍ぶ国民の意志力と戦意いかんにかかるといわれた。いずれの国家も存亡をかけて戦ったため、毒ガスの使用(第一次大戦)や原爆の使用、都市無差別爆撃、焦土作戦、捕虜や非戦闘員に対する大量虐殺(第二次大戦)が行われた。終戦条件も厳しく、敗戦国は天文学的数字の賠償金(第一次大戦)や無条件降伏(第二次大戦)を強制された。
第二に、戦争と革命の結合であり、「帝国主義戦争を内乱へ」(レーニン)とした戦争の革命への転化と、革命の国際的な有機的結合に基づく国際的内戦化の現出である。第一次大戦は国家間の戦争として始まったが、ロシア革命とそれに続くドイツ革命、ハンガリー革命という革命的な国際的内戦化で終結した。普仏戦争はパリ・コミューン革命を突発させ、日露戦争は第一次ロシア革命を促したが、いずれも鎮圧された。だがいまや、世界的な帝国主義戦争は帝国主義・資本主義体制を強化せずに、逆にそれとは異質の、資本主義的私的所有を廃止した社会主義体制出現の要因となったのである。第一次大戦では革命はソ連で成功しただけであったが、第二次大戦では東欧、アジアの10を超える国々で勝利した。なかでも中国、ベトナムでは、革命戦争の発展のなかで、帝国主義・植民地主義に対する被抑圧民族階級の解放の戦いの基本的形態として、人民戦争がつくりだされた。それは、戦争は軍隊がするものという常識を覆し、全人民の力で戦うという画期的な新しい戦争形態である。
ロシア革命の成功は、民族独立運動に、なかでも高揚しつつあるアジアの民族運動に、イデオロギーの違いを超えて強烈な衝撃を与えた。それでも第一次大戦後には、列強資本主義国はまだ他民族の運命をかってに決定することができた。革命ロシアが提案した無併合(他国の土地略奪、他民族の強制合併のない)、無賠償、民族自決権の承認という戦後処理の原則は形式的には受け入れられたが、実際には一部を衛星国化し、大部分の民族運動は無視もしくは鎮圧された。だが、第二次大戦後にはもはや不可能であった。多くの植民地は独立戦争や民族独立運動によって、さらには植民国家の再征服戦争にも打ち勝って、続々と独立を達成した。第二次大戦はドイツ、日本の軍事的敗北で終結したが、その敗北は、諸民族が解放されつつある時代に、それらすべてを従属させ、さらに諸国家をも属国化しようという、時代逆行の征服計画を強行した当然の結果でもあった。
[林 茂夫]
第二次世界大戦後の核時代の開幕と、第三世界の台頭、その国際的スケールでの政治と工業化過程への参加は、北の世界での「平和」(戦争のない状況)と南の世界での「戦争」(社会的、経済的、政治的、文化的な第三世界独自の内発要因を基底にしつつ、権力の正当性をめぐる一国内の内戦を軸とした武力紛争)の多発状況を現出させた。こうして現代は、「絶対戦争」を現実化する核戦争の危険と、地域的に限定されてはいるが「絶対戦争」の本質をもつ内戦の多発という、2種類の「絶対戦争」の可能性を内包した時代である。
[林 茂夫]
戦争は近代国家成立以前は権力者の、成立以後は国家の政治目的達成の決定的手段であった。だが、核・ミサイル兵器の発達によって人類破滅の危険すら予測される事態となったため、戦争は問題(紛争)解決の決定的手段とはなりえなくなり、国の存続さえ危うくするものとなった。さらに、人権や民族権尊重意識の進展に基づく内外世論の動向によっても、無限界的であった軍事力の行使は制約され、その有効性は減少しつつある。
このような背景から、軍事力行使にかわる軍事力の威嚇的使用(勝利戦略から抑止戦略への転換)が重視されるようになり、一方、軍事力行使の制約状況を緩和するための方策として、戦争は、核戦争と通常戦争、世界戦争と限定戦争・局地戦争、無制限(全面)戦争と制限戦争、さらには特殊戦争(民族運動対処)、低水準戦争(テロ対処)などに分類されるようになった。戦争概念の多様化は、科学技術の発達によって予測される戦争の様相の複雑・多様化のためだけではなく、こうした政治的要因によっても進行している。
第三世界の戦争でも、イスラエル・アラブ戦争(中東戦争)にみられるように、政治目的達成のための手段ではなくなりつつある。
[林 茂夫]
戦争勝利戦略から平時を重視した戦争抑止戦略への転換は、軍備の巨大化を招来したが、同時に、軍事戦略と対外政策の区別を不明確にさせ、戦略の外交化、外交の戦略化といわれるほど軍事と外交の一体化を促進している。その典型が武力戦と外交を結合した段階的抑止戦略である。戦争になっても外交は断絶せず、交渉しつつ戦い、あるいは国際世論をうかがいつつ武力レベルを加減するなど、従来の戦争とは著しく異なる戦争が出現している。宣戦布告なしの戦争、その勝敗も決まらずに休戦となる戦争が一般的である。
従来、戦略は狭義には軍事戦略を意味し、広義には政治、軍事、外交、経済、心理、思想の全分野にわたる総合戦略を意味するものであったが、今日では後者のみを意味するようになった。かつては戦争勝利のために国力が動員されたが、今日では、資源戦略、食糧戦略、経済的制裁、戦略援助、武器輸出、さらには情報戦、スパイ戦といわれるように、危機管理戦略、総合安全保障戦略のもと、制約された武力行使を補足するために国力が動員されるようになっている。
[林 茂夫]
核兵器の発達と新植民地主義、第三世界の独立と工業化の進展など、第二次大戦後の政治的、経済的、軍事的な条件の画期的変化によって、いまや武力紛争の舞台と当事者は第三世界に移行した。紛争の争点も領土ではなく、政治権力の正当性あるいは体制のあり方をめぐるものに変わり、武力紛争は従来の大部分の戦争とは異なる性格の戦争になった。第二次大戦後の50年間で主要武力紛争は、ベルリン封鎖とハンガリー事件、チェコ事件を除き、すべてが第三世界で起きている。世界の軍事・社会支出調査機関「ワールド・プライオリティーズ」(アメリカの民間機関)によると、1945~88年までに発生した戦争(一つ以上の政府がかかわり、年間1000人以上の死者を出した大規模武力紛争)は129件で、うち国家間紛争は34件、内戦は95件となっている。しかもこれらの紛争の争点は、内戦はもちろん植民地独立戦争、国家間紛争においても、従来の領土ではなく、主として政治権力の正当性をめぐって、あるいはその延長線上の戦争として起こっている。この武力紛争の構造変化は、従来の、処分可能な領土を争点とした戦争の講和終結方式を不可能にし、一時的休戦はあるにしろ、係争中の権力に十分な正当性が認められるまで継続せざるをえなくしている。
第三世界における急速な工業化は伝統的な社会システムの変容に起因する社会紛争を惹起(じゃっき)し、同時にそれは先進国の経済的援助をてこに行われたから、二重の抑圧体制下に置かれた民衆の反乱を必至とする。その意味で第三世界の反乱は政治権力への反乱であると同時に、その権力を上から支える先進国や先進国を中心にした国際体制への反乱という二重の性格をもっている。これが武力紛争多発の背景である。だが、先進国の武力介入は政治的、経済的に制約されており、その下で第三世界の武力紛争は権力の正当性を争点に惹起し続けてきたのである。しかも冷戦後は、冷戦構造の崩壊で、権力を上から支えてきた先進国の経済援助と抑圧がなくなり、武力紛争は一挙に多発・激化するようになった。今日の戦争の9割以上はこのような戦争であり、その内発要因が除去されない限り、終わりなく続くのである。
[林 茂夫]
戦争の犠牲者は激増している。国連の世界社会情勢報告(1985)によると、1945~83年の間におもな武力紛争は103件(ヨーロッパ3件)で、軍人・民間人の死者は約1636万人(ヨーロッパ約18万人)である。「ワールド・プライオリティーズ」の報告書(1993年11月)によると、第二次大戦後92年までに起きた大規模武力紛争は149件に上り、死者総数は2314万2000人に達している。同報告書によれば、この死者数を年間平均すると、それは第一次・第二次大戦の死者数を含んでいないにもかかわらず、19世紀の2倍、18世紀の7倍強という状況である。武力紛争は小規模でも、その性格の違いや頻度の多さによって犠牲者はきわめて多くなっているのである。さらに難民の急増がある。1951年に設置された国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、60年に140万だった難民の数は、83年には1100万人で、冷戦後には地域紛争・民族紛争の続発で「92年には1日当り1万人の難民が発生」(『世界難民白書』93年)したほど、UNHCRによると、1989年に1490万人だった難民の数は、93年には2300万人(別に国内避難民2500万人)に達している。
民間人の被害が激増していることも特徴的で、第一次大戦では軍人は全死者の95%、民間人は5%だったが、第二次大戦では軍人52%、民間人48%となった。朝鮮戦争ではその比が逆転し、16%対84%、ベトナム戦争では5%対95%となった。しかもその犠牲は社会的弱者である子供や女性に集中している。『子ども白書'95』(国際児童基金unicef94年12月)によると、過去10年の間に戦争で約200万人の子供が殺され、400~500万人の子供が障害を負った。また500万人以上の子供が難民キャンプに追いやられ、1200万人の子供が住む家を失ったと報告されている。
核戦争による被害については多くの専門家による報告が出されており、この種の戦争には勝者はありえないこと、さらに核戦争後、社会的・経済的復興ができるようになるまでに数十年、数百年もかかることが指摘されている。それだけでなく、地球の環境が大きく変わる、いわゆる「核の冬」の到来も警告されている。
[林 茂夫]
『木村尚三郎・牟田口義郎・森本哲郎企画『世界の戦争』全10巻(1986・講談社)』▽『三浦一郎・小倉芳彦・樺山紘一監修『世界を変えた戦争・革命・反乱 総解説』(1983・自由国民社)』▽『G・ブートゥール、R・キャレール著、高柳先男訳『戦争の社会学』(1980・中央大学出版部)』▽『林茂夫著『Q&Qの時代を生きる』(1995・日本評論社)』▽『ジョージ・C・コーン著、鈴木主悦訳『世界戦争事典』(1998・河出書房新社)』▽『張聿法・余起棻編、浦野起央・劉甦朝訳『第二次世界大戦後 戦争全史』(1996・刀水書房)』
北川冬彦の詩集。『現代の芸術と批評叢書(そうしょ)』第12編として1929年(昭和4)10月、厚生閣書店刊。いわゆる新散文詩運動を提唱した北川の代表詩集であり、いずれの詩も散文体で、強烈な構成意識に貫かれて書かれている。「戦争」「大軍叱咤(しった)」などには当時台頭しつつあった軍部ファシズムへの痛烈な批判があり、一方、「機械」「剃刀(かみそり)」などには感覚の鮮やかな表出があって彼の特性が鋭く出ている。この詩集で北川の昭和新詩における位置は不動のものとなった。
[安藤靖彦]
『『日本の詩歌25 北川冬彦他』(中公文庫)』▽『『北川冬彦自選詩集』(1981・教育出版センター)』▽『桜井勝美著『北川冬彦の世界』(1984・宝文館出版)』
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…典型的には国家と国家の間の紛争を意味するが,ある国と他国の個人,国内団体(例えばゲリラ集団),少数民族,宗教集団,多国籍企業や私的国際組織などのいわゆる脱国家的行為主体(〈トランスナショナリズム〉の項参照)との間の紛争も,関係国政府の関与で国家間の紛争となる。国際紛争は軍事的手段の行使を伴う国際戦争や内戦から,口頭やマス・メディアなどによる論争までを含む多種多様な現象である。
[国際紛争の類型と紛争理論]
国際紛争の形態は,その紛争の当事者の種類から,大国間,大国・小国間,小国間,国家・脱国家主体間,国家集団間,脱国家主体間,支配民族・少数民族間などに分類できる。…
※「戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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